世にも美しき数学者たちの日常

まぁ、こんな感じになるんだろうね、という予想通りの出来。決して面白くないわけではないけれど、全体的に踏み込みが中途半端だな、という感想(できないのも分かってるけど)。構成的に、数学好きの一般人を紹介するくらいなら、応用数学者(物理学や経済学者など;渕野さんからヒント貰ってるんだし)を紹介したほうがいいってことすら分からないんだろうな、というある種の諦念も。一般人(小中学生)向け書籍って感じですね。

加藤文元

  • 「共同研究も、その人と共同生活をすることなんですね、問題と一緒に。食事に行くときも、旅行中も、遊びに行っても、その問題について話ができる状態にする」
  • 「数学では『共鳴箱』という表現をすることがありまして、いい共鳴箱を持つことは重要なんですね」
  • 共鳴箱自体は音を出さない。しかしオルゴール単体では聞こえづらい演奏の音色を大きく、鮮やかにすることができる。
  • 「聞き手に向かって話すことで、自分のアイデアが育っていくことがあります。二人の共同研究でも、片方がどんどんアイデアを出して、片方はひたすら共鳴するというスタイルもあるでしょう」

 

  • 「そうです。数式は音楽家が使う音符と同じものであって。誰かに伝える時に音符があると便利だけど、でも音符を読めなくても音楽は楽しめるじゃないですか。本質は楽譜じゃなくて、奏でることにある。数学イコール数式というのは、
    全然違うんですよ。数学を味わうのに、必ずしも数字や数式は必要ではない」

 

  •  「いや、文字通り不可能なんですよ。表現できない。でね、じゃあ数値的には計算できると思いますよね。曖昧さは何もないはっきりとした方程式だから、数値計算すればいいはず。ところが数値の誤差が少しでも入ると、エラーがものすごく大きく広がっていくという性質があるんです。だからその解がどうなっていくのか、ほとんど予想がつかないんですよ」
  • 「数字の計算で、エラーが起きるものですか?」
  • 「本来なら無限の精度でやらなきゃいけないところを、有限精度でやるからですね。計算の中で小数点以下何桁、とかで切っちゃうでしょ。計算機で計算するとしても、プログラムの中で何桁目を四捨五入するとか、切り捨てとか、決まっているわけです。結果に大きな影響が出ないのならそれでいいんですが、カオスの場合はそのちょっとした誤差がとてつもなく大きな影響を及ぼして、エラーだらけにしてしまうんです。何が本当の解だったのか、全くわからなくなってしまう」
  • 数学というのはとても論理的で、それが透徹していないとならないけど、意味のない論理展開をしてもしょうがないんです。一つ一つ数学として意味があることをやって、その結果今まで見えていなかったようなことがワーツと見えてくるような、そういうのがいい証明なんです」
  • 「そういえば渕野さんは日記に、数学は才能が占める部分が大きく、努力で補える部分は少ない、と書かれていましたが……」
  • 「そうですね。僕は大学院生の指導もするわけですが、学生のレベルと研究者のレベルとの間にはやはりハードルがあって、それを超えるだけの能力がない人はいるわけなんです。いかに数学に興味を持っていて、数学者になりたいと思っていても」
  • 「それはもう、はっきりわかってしまうものなんですか」
  • 「『この人はこのぐらいのレベルだな』というのは、少し数学的な議論をすればすぐにわかってしまいます。学生とでもそうだし、数学者同士でもそう。だから怖い世界ですよね。他の世界ならもっといろいろな要素があるから、努力でカバーできる部分もあるでしょう。でも数学は閃き、センスみたいなものが占める部分がかなり大きいので、ダメな時は本当にダメ。で、そういう人をどう扱ったらいいかというのは、本当に難しい問題なんです」

 

  • 「江戸時代の数学は他の学問、たとえば物理学や社会科学と影響し合って発展する、という道を取らなかったんですね」神戸大学は数学研究室の談話スペース。ソファに腰かけた渕野さんが言うと、後ろでまとめた長髪が軽く揺れた。
  • 「特に物理と繋がっていなかった。ヨーロッパでは、数学は物理学とか天文学とかと繋がって大きく発展してきているんですよ。一方の日本は、純粋に数学、パズルを解くことを通じて、精神性、人間性を高めるとか、そういった要素が強かった。そういう体質が現代にも一部、引き継がれてしまっているんじゃないかと思います」いろんな人がいるので全員に当てはまるわけではないけれど、と渕野さんは前置きして続ける。
  • 「そういう遊芸としての数学とか、いい点を取って大学に入るための数学、すなわち受験数学が、日本では一人歩きしちゃつているところがあるのかと。点をできるだけ取って、ちょっとでもいい大学に入ろうとする人たちには、問題は解けてもその奥の意味を知る余裕がないんですよね。だから学ぶモチベーションが消えてしまう。せっかく大学に入ってもそのまま、いい点を取るにはどうすればいいのか、という気持ちのまま数学をしてしまうんじゃないか。数学の考え方を踏み台にして何かをより深く理解する、ということを目指すと、違ってくるとは思うんですが・・・」
  • 数学は点を取るだけのものだと思っている人と、宇宙を知るための道具の一つだと思っている人。確かにこの違いは深刻だ。僕は今のところ前者のタイプだが、
    もし後者のタイプだったとしたらどうだろう。
  • 数学が社会で何の役に立つのかと聞かれても、「うーん、そこからか・・・」と頭を抱えてしまいそうだ。全ての基盤になる部分を研究しているつもりなのに、役に立たないことに血道を上げる変人のように見なされてしまうかもしれない。素晴らしさをわかってもらうには、実際にやってもらうのが早いのだが「数学は恐ろしくて、難しい」と言われてしまう。そんなに怖がらなくても、やってみれば意外と簡単だし、楽しいのに・・・。

 

  • 「僕、たぶん今生きている人類の中で一番頭のいい人の助手を、半年間ほどやったことがあるんですよ。シェラハ先生っていうんですけど」サハロン・シェラハ。イスラエルの数学者である。
  • 「その人の論文は2千本くらいにまでなったのかな。ゆうに千は超えているはず。共著者がたくさんいるんですけど、中にはシェラハに問題を持ち込んで、教えてもらった結果をほとんどそのまま論文の形にすることしかできない『共著者』もいます。つまり、本当にすごい先生です。僕が彼の助手になった時にね、助手を長らくやっていた方に言われたんですよ。『サハロンを人間だと思ってはいけない、宇宙人みたいなものだと思わないと、やっていけないよ』と。宇宙人なら何でもありでしょ?それくらいの人なんですよ。彼に比べればもう、他の人は全部同じ、どんぐりの背比べみたいなもので」
  • 「そんなに普通の人と違うんですね」「うん、違う。違いすぎるので、もう比較してもしょうがない」「その先生の助手というのは、どんな仕事をするんですか」「いろいろあるんだけどね、研究のアイデアを聞いて細かいところを埋めるとか。シェラハはかなり細かくノートを書いてくれるんだけど、それを普通の人が読んでも全然わからないんですよ。普通の人が読めるような論文の形に、ノートを解読して落とし込まないとならないんです。だから助手と言っても、普通の人にはできない仕事です。僕がその助手をやっていたというのは、まあちょっと威張れることかもしれない」
  • 「渕野さん。ちなみに今言った『普通の人』というのは・・・」「ん、ああ。だから普通の、専門家。普通の数学者ですね」

 

  •  「一つ象徴的なのが、『岡・カルタンの理論』です。岡先生が作った多変数関数論という数学の分野があります。これはフランスの数学者のアンリ・カルタンと互いに刺激し合うような形で、作り上げられていきました。このカルタンという人は、アンドレ・ヴェイユと共に現代数学を作った人なんですね。ある時フランス数学会の機関誌に、岡先生の連作『多変数解析関数について』の七番目の論文が載ることになります。1950年。巻頭論文でした。で、その次に載っている論文がカルタンの論文なんですけれど、これは岡先生の論文を1年ほどかけて全面的に書き直したものなんです」「え? 同じ論文なんですか?」「論理的には同じですね、でもものすごく大きな乖離がある。岡先生の論文はさっきのたとえで言う鶴亀算で、カルタンの論文は連立方程式なんです。つまり「岡の言っているのはこういうことである』と、カルタンたちが作っていた新しい数学の形に、抽象化して組み込んだわけです。こうしてできたのが岡・カルタンの理論。ホモロジ
    ー代数……層係数コホモロジーという新しい代数です」つまり昔の数学と、今の数学がすれ違った瞬間の一つということなのか。
  • ホモロジー代数は大成功を収めました。多変数関数論だけでなく、様々な分野に応用が利いたんですよ。数学の世界に非常に大きな土台を作りまして、その上に代数幾何学なんかもできた。難問だったフェルマー予想を解くことにも繋がっていったんです。これで岡先生は一挙に有名になった。業績を絶賛された。でもね」高瀬先生は声のトーンを落とした。「岡先生はそのカルタンの論文が、非常に嫌いでした。教科書にはカルタンの論文の方が載って、岡先生の論文は読まれなくなって。有名になった岡先生のもとに、学生たちが訪ねてきたりするわけですよ。カルタンの理論を教科書で読んだ学生がね。でも『あんなのは私の理論じゃない』と。怒られた方はなんで起こられたのかよくわからない、尊敬しているのにね