その問題、経済学で解決できます。

  • 歴史的に見て、経済学は理論中心の学問だった。大きな進歩といえばまず、ありえないほど頭のいい人たちが難しい数理モデルを書き上げ、世界の仕組みに関する抽象的な定理をそこから導き出す。でも、コンピュータの計算能力が爆発的に高まり、膨大なデータが手に入るようになった1980年代から1990年代に、経済学業界は変わった。実証研究、つまり現実のデータの分析に焦点を当てる経済学者がどんどん増えていった。ぼくみたいなの、つまりきらびやかな理論的洞察にたどり着けるほど自分はぜんぜん賢くないのを思い知った若輩者の経済学者にとって、なんか面白いことが見つからないかとデータを漁って過ごすのは、別に恥ずかしいことではなくなっていた。スティーブン・レヴィット

 

  • 最近のはやりといえば「ビッグデータ」だ。データを山ほど集めて積み上げ、パターンを見つけ出す。ビッグデータを使えば面白い結論が導き出せる。ビッグデータはすばらしいけれど、大きな問題を抱えてもいる。ビッグデータを使ったやり方の背後にあるのは、因果ではなく相関に大きく頼った分析だ。デイヴィッド・ブルックスもこう言っている。「億千万のものごとが互いに相関しあい、またデータをどう組み立てるか、何と何を比べるかで、そうした相関が違ってくる。意味のある相関を意味のない相関と区別するためには、何が何を起こしているか、因果を仮定しないといけないことが多い。つまり、結局人間が理屈を考える世界へと逆戻りだ」
  • ビッグデータにはもう1つ問題があって、それはとにかく大きいのでどう掘り進んだらいいのかなかなかわからないことだ。企業はものすごくたくさんのデータを持っていて、そんなデータをもうどうやって見たらいいのかわからなくなっている。企業はなんでもかんでも集めて、そのあげく圧倒されてしまっている。考慮するべき変数のありうる組み合わせがたくさんありすぎて、どこから手をつけていいのかもわからない。ぼくたちの仕事は、実地実験を使って因果関係を推定しようということに焦点を絞っていて、データを作り出す前に、関心のある因果関係についてよくよく考える。だから「ビッグデータ」なんてものでたどり着けるよりもずっと深いところまで手が届くのだ。

 

  • ジョン・リストは、1995年に博士号を取って仕事探しを始めたとき、そういうのとはまた別の種類の差別に直面した。ジョンは数件の実地実験をやり遂げ、150件を超える学界の仕事に応募していたが、採用面接までたどり着いたのはたった1件だけだった。あとになって、ほとんど同じ条件の人たちが、40件ほど応募しただけで30件の採用面接に呼ばれたのを知った。ジョンとそういう他の人たちとの主な違いは、ジョンが博士号を取ったのがワイオミング大学で、他の人たちが博士号を取ったのはハーヴァードとかプリンストンとかの「ブランド」校だったことだった。雇い主は応募者をふるいにかけるのにそういう情報を使うのだ。実質的に「持てる者」と「持たざる者」を差別しているのだった。

 

  • カーシの人たちとの実験で、性差に関する長年の争点についていくつかわかったことがある。もちろんぽくたちがそうやって女性の振る舞いを調べたのは世界のほとんどとは違う社会だ。でもそこがミソなのだ。父系社会の文化的な影響を可能な限り引っぺがせる。カーシ族の場合でいうと、女性は平均で、男性の平均よりずっと高い割合で競争を選んでいる。もっと簡単に言うと、狂言回しは生まれだけじゃないってことだ。カーシ族では育ちは王様ーというかこの場合女王様ーなのである。
  • ぼくたちの調査によると、適当な文化の下では女性は男性と同じぐらい負けず嫌いになるし、女性のほうが男性より競争を好む、そういう状況がたくさんある。それなら、仮に男性が女性より自然と競争を好むのは進化によるものだとしても、競争力があるかないかを決めているのはそんな進化だけではないということになる。文化的なインセンティヴがそうなっていれば、普通の女性のほうが普通の男性より競争を好むだろう。

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  • よくある仮定によると、女性は男性よりも、漁業資源や牧草地といった公共財に配慮ができる。ぼくたちはカーシ族と近くに住むアッサム族の村でこの仮定を検証した。アッサム族の村は父系社会だ。検証には経済学の標準的なゲームである「公共財ゲーム」を使った(この呼び名は、人びとが全体のために、手入れの行き届いた国立公園やきれいな空気といった公共財を提供できるようお金を出し合うときに起きることを模しているところから来ている)。
  • それぞれのグループに次のような同じ指示を与える。「このゲームでは、コミュニティのために投資を行うか、それとも自分に投資を行うかを選択してもらいます」。参加者の一部には次のように伝える。「自分に投資したお金は1ルピーあたり1ルピーの報酬を投資した人にもたらします。グループ交換に投資したお金は1ルピーあたり1.5ルピーの報酬を、投資した人ではなく、グループ全体にもたらします」
  • カーシ族の社会についてここまででわかっていることから推測して、カーシ族の人たちのほうがグループ全体のためによりたくさん投資する傾向があるのではないか、そう思った皆さん、正解です。カーシ族は男性も女性も、アッサム族の人たちより、グループにたくさんお金を投資している。基本的に、カーシ族のほうが男性も女性も、身勝手な人が少ないことがわかった。この結果からこんな疑問が湧く。女性が「仕切る」社会はぼくたちがこんにち生きている社会と大きく違っているのだろうか?

 

  • 対照的に「利得フレイミング」グループの生徒たちには、前回より試験の点が上がったら試験が終わってすぐに20ドル貰えると伝えた。でも20ドルは試験の前に
    は受け取れない。お金は彼らの目の前にないわけだから、彼らは点がよくなれば20ドルを得る立場にある。3つ目のグループの生徒たちには、前回より点が上がった人にはそれぞれ20ドルあげるけれど1カ月後だと伝える。4つ目のグループでは点が上がった人は3ドルのトロフィを授与される。ぼくたちは実験では必ず対照グ
    ループを設定している。このグループにはご褒美はあげない。ただ、がんばって前回よりいい点を取ろうと励ますだけだ。
  • ぼくたちの設定したインセンティヴはものすごい効果を上げた。全体の成績は100点満点で5点から10点の改善を見せ、郊外のお金持ちの子弟に迫るところほで行った。ご褒美が出るなんて、生徒たちは試験が始まる直前まで知らなかった。なのに成績は目に見えてよくなった。ということはつまり、人種間の成績格差は知識や能力の差ではなく、単に、試験を受けるに当たっての生徒のやる気が原因の大きな1つだということになる。
  • この結果から、何が生徒をやる気にさせるかを理解するのがとても大事なのがわかる。彼らは試験なんてあんまり興味がない。でも、お金によるインセンティヴを与えられると成績は跳ね上がった(ああいうインセンティヴだけじゃなく勉強して準備する時間も与えたらどんなことになっていたか考えてみてほしい)。この実験の目的は他の学校でも使えるインセンティヴの仕組みを設計することではなかった。ぼくたちが求めていたのは、成績格差の原因は知識の違いなのか、試験自体を受けるときのがんばりの違いなのかを区別できる分析用具だった。この疑問の答えがわかれば、格差を埋めるために打つべき手を考えられるはずだ。
  • そのうえで、インセンティヴはそれぞれのグループで違った働きをした。具体的には、年上の生徒たちはお金にとてもよく反応したが、年下の子たちはむしろトロフィのほうがお気に召していた。2年生、3年生、そして4年生の子たちは、試験の前に3ドルのトロフィを見せられて、成績が12 %もよくなった。とても大きな反応だ。実のところ、これは学年の人数を3分の1減らすとか、先生の質を大幅に改善するとか、それぐらいのことをやらないと期待できない反応の大きさなのである。・・・インセンティヴはお金の姿を取らなくても構わない。場合によっては、そして人によっては、トロフィ(あるいはお花、あるいはチョコレートーそれこそなんでも)が、大きな力を発揮する。
  • ぼくたちの予想したとおり、生徒に事前にご褒美を渡したほうがーそのうえで成績が上がらなければそれを取り上げると脅したほうがー事後にお金を渡すと約束するよりも、試験の成績はずっと大幅に改善した。実は、1カ月後に20ドルあげるよと約束しても成績はまったく改善しなかった。ここでもやはり、インセンティヴは「負けたら取り上げる」みたいな形のほうが「勝ったらご褒美、後であげる」みたいな形よりうまくいくようだ。それがどうしてだか考えるために生徒の立場に立ってみよう。成績が上がったらお金をあげるよと言われた場合、新しいスケートボードを買おうなんてことを、試験を受ける前から考えていれば成績は大幅に上がるだろう。幼い子やティーンエイジャーだと、この世は今がすべてだ。ぼくたちの実験で、彼らをやる気にさせるのは本当はどんなことかがわかった。
  • ぼくたちが得た結果によると、先生たちがいったん手にした報酬を取り上げられるかもしれない可能性に直面すると、生徒たちの成績は数学で約6%。国語で約2%跳ね上がった。この手のインセンティヴは、先生たちがチームで働くととくにうまくいくようだ。全体として、生徒たちの成績は4%から6%改善した。この結果は驚異的というほかない。

 

  •  『差別の経済学』での研究を講演して世界中を初めて回ったとき、他の経済学者がよく口にする不満は「こんなの経済学じゃないでしょ」だった。煎じ詰めると、彼らのベッカーに対する異論はこんなふうだった。「この研究がどうでもいいとかつまらないとか言ってるんじゃない。言ってるのは、こういうのは心理学とか社会学とか、そういうのをやる連中にやらせとけってこと」。それが変わりだしたのは1960年代に公民権運動が起きたときだった。すぐに世の人たちは差別と経済学という問題にものすごく興味を持ち始め、真剣にこの問題を扱った本といえば、ベッカーが書いたものしかなかった。
  • 「急に、影響力の大きい人たちがぼくの本を読み始めた。それからは雪だるま式だった」とベッカーは言う。1971年に同書は2回目の改訂とともに再版され、
    今では古典的著作に数えられている。この本でぼくたちの差別に関する認識が完全に変わったからだ。1992年にノーベル委員会がベッカーにノーベル記念経済学賞を授与したとき、委員たちは『差別の経済学』をとくに誉めそやしていた。「ゲイリー・ベッカーの分析はおうおうにして物議をかもし、最初は懐疑や不信を持って迎えられた」。ベッカーの受賞を発表するプレス・リリースで、ノーベル委員会はそう述べている。「それでもベッカーはくじけず、自分の研究を貫き通し、経済学者にも彼の考えや手法を受け入れる人がだんだん増えていった」

 

  • 実は、同性愛のカップルがどんな扱いを受けるかは、販売担当者の人種に強く影響されていた。(アフリカ系やヒスパニック系の)少数民族の販売担当者は、多数民族(つまり白人)の販売担当者よりも、同性愛のカップルを差別する割合が高かった。同性愛のカップルが値段を尋ねると、少数民族の販売担当者は多数民族の販売担当者より、平均で1233ドル高い値段を提示している。そればかりか、少数民族の販売担当者は同性愛のお客に接すること自体避けているようで、試乗しませんかとかもっと安い車はいかがですかとか提案することさえ少なかった。つまり少数民族の販売担当者は同性愛の人たちとやりとりするぐらいなら販売手数料を喜んで諦める傾向があることになる(だからって少数民族の販売担当者はどいつもこいつもそんな態度だってことではない。そういう人が多かったというだけだ)。
  • 買い手が同性愛のパートナーだという態度を取ると、少数民族の営業担当者は車を売るインセンィヴをやり過ごしてしまう。そんなことになっている理由として1つ考えられるのは少数民族の人たちは、自分は信心深いと認識していることが多く、そして宗教の多くが同性愛は間違っていると教えていることだ。一部の研究によると、信心深い人たちは、性的指向は選択するもので、生まれつきのものではないと信じていることが多い。ピュー研究所の信仰と国民生活フォーラムが2007年に行ったアンケート調査によると、アメリカの黒人は「さまざまな面でアメリカ国民一般よりも顕著に信心深い」。(そんな可能性を示唆するのは、ぼくたち自身の研究も含め、太りすぎとか同性愛とかといった状態について人間は「選択」できると感じる場合、人はそういう状態の人を差別する傾向がある、との研究結果があるからである。つまり、自分でなんとかできることなのに、ということだ)。

 

  • 「あなたが何が好きで何が嫌いか、企業は膨大な情報を溜め込んでいる。でも彼らがそんなことをするのは、あなたが面白い御仁だからと言うだけではない。彼ら走れば知るほどお金が儲かるのだ。」それでもなお、別にかまわないというのもありうる。情報を集めてそれでお金を儲けて、いったい何がいけないんだろう?いけないのは、企業がそういう情報を使って消費者をひどい目に合わせているからだ。セイラーの解決策は、企業はあなたに、あなた自身に関するデータを開示しなければならない、という法律を議会が作ればいい、というものだった。情報の中身を知れば、どれが自分に不利に働くのかがわかる。あるいは、自分のニーズに合った製品やサービスを見つけられる。あなたに関する情報をあなたと共有しないといけないなら、企業もあなたの利益に反するような使い方はとてもしにくくなるだろう。そういう企業のせいでぼくたちはとても複雑な選択をする羽目になっていて、データがないと賢い消費者として行動できなくなっている、セイラーはそう主張している。
  • セイラーの解決策はいい出発点だ。でも本当にああいう差別をなくしたければ、自分に関するデータを自分で手に入れられるようにならないといけないし、さらに、企業がそういうデータをどんなことに使っているのかわからないといけない。
  • 結局、差別の仕組みをもっと深く理解すればその分だけ世界は必ずよりよい場所になるのだ。1992年のノーベル賞受賞記念の晩餐会で講演したとき、ゲイリー・ベッカーはこう言っている。「経済学の目では、どうやっても人生はロマンティックには見えてきません。でも、世界のあちこちに蔓延する貧困、苦しみ、危機は、ほとんど全部、なくていいはずのものであり、それらに触れるたび、経済や社会の仕組みを理解すれば人びとの幸せに大きな貢献ができるのだとの思いを強くするのです」。あなたが今では差別をより深く理解してくれて、インセンティヴが偏見ある行動と決定的に結びついているのをわかってくれたと思いたい。

 

  • 興味深いことに、宝くじの要素を加えると、寄付を募るだけの場合よりも、寄付の総額はだいたい50 %ほども増えた(ぼくたちはこれを宝くじ効果と名づけた)。宝くじを付け加えると寄付をする人は増えた。寄付を募るだけの場合に比べて、寄付をしてくれた人はだいたい2倍になった。寄付を募る人たちにとって、宝くじは「いいひとリスト」を作る道具になる。つまり将来の募金運動のときにあてになる、積極的に寄付をする人たちの大きなグループだ。その意味で、宝くじは寄付を募る人にとって「2度おいしい」。つまり、そのときの募金がよりたくさん集められる可能性が高くなるし、同時に、将来寄付を集めるときのいいひとリストを広げられる。
  • また、さもありなん、という発見が他にもあった。寄付を頼みに来る人が美しければ美しいほど、集まる寄付は大きくなる。ぼくたちはこれを「美形効果」と名づけた。容姿の魅力を測るために、最初の面接のとき、IDバッジを作ると言って、寄付を集めて回る人たちのデジタル写真を撮った。そうしておいて、勧誘担当者3人分の写真をファイルに収めた。ファイルをカラーで印刷し、152人(メリーランド大学カレッジパーク校の学部生)にそれぞれ別個に容姿を評価してもらった。
  • 評価する人たちはジーンなどの勧誘担当者の容姿を1から10の尺度で評価する。ジーンは8点の高い評価をもらっていて、能力の点では同程度だが容姿の評価は6点である他の女性より50 %ほども多く募金を集めた。まあ当然といえば当然なんだろうが、男性が訪問に応えた場合、勧誘担当者は女性であるほうが募金はたくさん集まる。ジミーはスタンよりずっと魅力的だとの評価を受けていて、スタンより集めたお金は多かった。でも、女性のほうが男性である彼らより、たくさんお金を集めている。
  • ぼくたちにとって興味深かったのは、美形効果が存在するということそのものではなかった。美形効果の大きさだった。美形効果は宝くじ効果に匹敵するぐらいの大きさだったのだ。つまり、勧誘担当者の美しさが6点から8点に上がると、宝くじの話を付け加えるのと同じぐらい寄付が増えているのだ。
  • 美形はともかく、宝くじは長い目で見て本当に寄付に意味のある違いをもたらしてくれるのだろうか?最初の実地実験から何年も経ってから、ぼくたちは別の実地実験を行うべく、同じ地で再び寄付を募った。当時、宝くじに惹かれて寄付をした人たちは、その後も高い割合で寄付をしていることがわかった。でも、以前ジーンの美しさにつられて寄付をした男性たちは、別の同じぐらい美しい人が勧誘にやってこないと寄付をしてはくれなかった。
  • 美形効果が生涯を通じて寄付を呼び込んではいないのはぼくたちにとって驚きではなかった。大昔にカワイコちゃんがやって来たってだけでは、慈善活動を支え続ける理由にはならないのだ。それでも、宝くじに惹かれて寄付をした人たちは、その後何年も寄付を続けていた。これは、慈善団体は結果を出すことに賭けていると参加者に感じさせる設定の実験ととても似ている(その話はこの後すぐ)。最初にシードマネーを投資するのと同じように、宝くじは、その慈善団体が「なにごとかを得るためになにごとかを差し出している」というシグナルの働きをする。加えて、その慈善団体は末永く活動を続けるというシグナルにもなる。

 実験しないと生き残れない

  • ぼくたちはみんな、人が寄付をするのは他の人を助けたいからだと決めつけている。でも実地実験が何度も何度も示したように、本当はだいたいの人が寄付をする理由はもっと自分本位だ。哀しいことに、慈善団体はまだそれがわかってない。人に財布を開けさせようと、慈善団体は脈々と受け継がれてきたノウハウや公式に頼ったいろいろな手口を使ってきた。シードマネーで33 %はすでに調達できていると発表したり、3対1のマッチング・ギフトを実施したり、ダイレクトメールで支援を訴えたり、そんなやり方だ。そんなやり方をすることで、彼らはお金を取りこぼしている。
  • さまざまな実験スマイル・トレインでのキャンペーン、シエラ・クラブ、中央フロリダ大学、国中の街角なんかのさまざまな場所で行われた実験の結果を見ると、慈善活動への寄付について長年用いられてきた仮定の一部は穴がありすぎて、水は漏れっぱなしみたいだ。正直、きれいな女の人が頼めば男どもの寄付する額が増えるなんていうのはあんほり驚くところじゃないけれど、スマイル・トレインに寄付する人たちが封筒を開ける可能性は、封筒の写真でこちらをじっと見つめている子どもが自分と同じ人種であるときのほうが高いというのは驚きだった。カーリー・サイモンの声色で言うと、ぼくたちは(みんな)「うつろだ」。
    つまり見栄っ張りだ。そしてぼくたちは、自分で決心してあえて慈善活動に自分のお金を投じたと感じないと気が済まない。ぼくたちの結論は単純だ。慈善団体は前任者から引き継いだ定石を捨てて、もっと実験をしないといけない。そうしないと競争に勝ち残れない。

 

  • 管理職は変化に伴う不確実性や未知の事柄に腰が引けたりすることもある。新しいことを始めず、これまでのやり方をなぞっていれば、慣れもあるし、うまくいっている間は、その方が安全な気もする(「壊れてないなら直しちゃだめだ」)。また管理職は、会社の業績を高めるために解決策を提供し、難しい判断を下すのが仕事だと思っている。つまり、会社が直面する難題に対して、自分は最初から答えをもっていないといけない、そう思っているのだ。実験なんてやらかせば、自分はわかってないですって言いふらすようなものだし、自分が持っているはずのノウハウに傷がつくかもしれないーそれじゃ仕事ができてないみたいに見えるじゃないか、そういうことだ。
  • そういう壁を乗り越える道は2つある。トップダウンボトムアップだ。まず、会社の経営陣は、よくある「目先の利益を上げろ、話はそれからだ」という脳みそのあり方を変えて、クックやマキャリスターがやったように、会社の業績を改善する実験を奨励し(それこそ報い)ないといけない。このやり方をするなら、実験を計画して実行し、データを分析し、結論を引き出せるよう人を雇い、訓練しないといけない。次にボトムアップのやり方なら、組織のもっと下位の人たちが小規模の実地調査を行って結果を管理職に報告し、管理職の人たちに実験を行うことに伴うコストとメリットをわからせないといけない