世界を変えた6つの飲み物

世界を変えた6つの飲み物 - ビール、ワイン、蒸留酒、コーヒー、紅茶、コーラが語るもうひとつの歴史

世界を変えた6つの飲み物 - ビール、ワイン、蒸留酒、コーヒー、紅茶、コーラが語るもうひとつの歴史

 
  • ビールの長期保存は難しく、完全発酵には一週間かかったので、ほとんどのビールはそれよりもかなり早い時期に、まだ発酵中の段階で飲まれていたと思われる。そうしたビールは、現在のものと比較するとアルコール度数は低いが、酵母が豊富に浮遊しており、したがって酵母に含まれるタンパク質とビタミン類もかなり多かったはずだ。生活様式が狩猟型から農耕型に移ったことで、特にビタミンBの一般的な摂取源である肉類の消費は減少したが、ビールがその不足分を補う働きをしたのだろう。
  • ビールは水を沸かして作ったため、たとえ小さな集落であっても、人間の排泄物ですぐに汚染されてしまう生水より安全な飲み物だった。汚染された水と病気との関係性が理解されるのは近代になってからだが、人類は早い時期に、素性の知れない水を警戒し、可能な限り人間の居住地から離れたきれいな川の水を飲むことを覚えている。つまり、ビールは農耕の導入による食べものの質の低下を補う、安全な飲み物として、集落の人々の滋養となったのである。
  • ピラミッド建築に携わった労働者の賃金はビールだったと、彼らが食事と睡眠を取ったとされる近くの街で発見された資料に書かれている。・・・メンカフラー王のピラミッドの建築に従事した労働者のあるグループは、自らを「メンカフラーの酔っぱらい」と称したそうだが、それもうなずける。以前は大勢の奴隷を使ってピラミッドを建てたと考えられていたが、建築労働者への支払いの記録によれば、作業をしたのは国家に雇われた者たちだったようだ。また、ピラミッドは洪水で畑が水没した時期に農夫たちが建てたとする説もある。国家が穀物を貢ぎ物として集め、労働の対価として再分配した。つまり、ピラミッド建築の仕事は、古代エジプトの人々の心に国民としての連帯感を植えつけ、国家の富と力を実証し、税制度を正当化する役割を果たしたのである。
  • かつてない規模での国家および帝国の誕生が、この流れをあと押しした。国境の数が減り、通過するたびに支払う税金と通行料が少なくなり、ワインの長距離輸送にかかるコストが減った、というわけだ。
  • 富裕層の人々にとって、最上級のワインの銘柄の知識は、一般人との違いを示すために欠かせなかった。それは高級ワインを買う金銭的余裕と、銘柄について学ぶ時間的余裕があることの証だったのである。
  • ワインを蒸留すると、かなり強い酒ができる。アルコールの沸点(78度C)が、水のそれ(100度C)よりも低いからだ。ワインをゆっくりと加熱すると、液体が沸騰を始める前に、表面から蒸気が上がる。アルコールの沸点は低いため、この蒸気はもとの液体よりもアルコールの割合が多く、水分が少ない。この蒸気を取り出し、再び凝結させると、ワインよりもはるかにアルコール濃度の高い液体ができるというわけだ。ただし、この液体は純粋なアルコールからはほど遠い。100度Cより低い温度でも,ある程度の水分や、そのほかの不純物が蒸発するからだ。しかし、蒸留を繰り返すことでアルコール濃度をさらに高めることは可能で、この過程を精留という。
  • 蒸留の知識は、アラビア人学者が守り、そして発展させた数ある古代の叡智の一つだった。こうした古代の叡智がアラビア語からラテン語に翻訳され、西ヨーロッパの人々の学問の精神に再び火をつける役割をはたしたのである。ある種の蒸留器を指すalembic (アレンビック)という単語には古代ギリシア人の知識とアラビア人の革新性の両方が現われている。この単語はアラビア語のal-ambiq (アル=アンビク)から来ているが、語源は蒸留用の特殊な形のつぼを指すギリシア語の(アンビックス)だからである。同様に、今日のalcohol (アルコール)という単語は、蒸留酒の起源がアラビアの錬金術師の実験室にあることを表している。
  • 蒸留したワインは火がつくため、「燃える水」を意味する「アックア・アールデーンス(aqua ardens)」という名で呼ばれた。もちろん、"燃える"とは、蒸留したワインを飲み込んだあとで喉に起きる不快な感覚のことでもあった。だが、アックア・アールデーンスを少量飲んだ人々は、最初の不快感ー香草でごまかすこともあったーなど、その後すぐに訪れる高揚感と幸福感に比べればなんでもないことに気づく。ワインが薬として広く利用されているのだから、濃縮・精製したワインならば、当然、さらに強力な治癒効果が期待できると人々は考えたのである。一三世紀後半、大学と医学校がヨーロッパ中に数多く設立されるなか、蒸留したワインは数々のラテン語の医学専門書で「アックア・ヴイータ(aqua vitae)」ー”命の水”と呼ばれ、奇跡的な力を持つ新たな薬として称賛された。 

 

  • 一五世紀に入り、蒸留の知識が普及するにつれて、アックア・ヴィータは薬から楽しむための飲み物へと変わり始める。この変化をあと押ししたのが、ヨハネス·グーテンベルクが1430年代に発明した印刷という新たな技術だった(何世紀か前に、中国ではすでに同様の技術が生まれていたが、少なくともヨーロッパ人にとっては目新しかった)。
  • 大半の人々にとって、アックア・ヴィータの魅力は、あると噂される医学的効果ではなく、短時間で簡単に酔わせてくれるところだった。

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  • 宗教的な理由もあり、ヨーロッパでは古代ローマ時代以来、大量の奴隷を使うことはなかった。原則として、キリスト教徒が同じキリスト教徒を奴隷にすることは禁じられていたからである。しかし、アフリカとの奴隷貿易に対する神学上の反対意見については、彼らは聞こえないふりをしたか、あるいは怪しげな論拠を次々に挙げることで、批判をかわした。まず、ヨーロッパ人は奴隷を買い、キリスト教徒に改宗させることで、アフリカの黒人をイスラム教の誤った教義から救出するのだ、という主張がなされた。続いて別の論が登場する。神学者のなかに、アフリカの黒人は完全な人間とは言えず、キリスト教徒になる資格がないのだから、奴隷にしてもいい、と主張する者が現われたのである。また、アフリカの黒人はノアの息子「ハムの子供」であり、彼らを奴隷にすることは聖書が認めている、と唱える者もいた(聖書に、ノアがハムの息子カナンに対して「カナンは呪われよ。奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ」と言う一節がある)。少なくとも当初は、こうした狡猾な論理が社会的に広く受け入れられていたわけではなかったが、大西洋上の島々は本土から遠く離れていたため、奴隷の強制労働の事実が人々の耳に入らないよう、うまく隠しておくことができたのである。1500年までに、奴隷の導入によりマデイラ諸島はいくつかの圧搾機と2000人の奴隷を備えた、世界最大の砂糖の輸出地になっていた。
  • こうした探検を計画し、資金を出したのがポルトガルエンリケ王子で、またの名をエンリケ航海王子といった。エンリケ王子自身は一生のほとんどをポルトガル国内ですごしており、海外に出たのは三度しかなく、しかも行き先は北アフリカだった(三回とも軍事遠征で、毎回エンリケは指揮官としての名声を一度失っては回復している)が、サグレスの「王子の村」から、ポルトガルの野心的な探検航海を陰で操った。エンリケ王子は探検航海に資金を提供し、受け取った報告書と観察結果と地図をつき合わせては、計画を練った。王子はまた、探検隊の船長に対して,羅針盤や三角法、そして蒸留と同じくアラビア人によって西ヨーロッパにもたらされた天文観測儀のアストロラーベなど、新しい技術を航海に取り入れることも奨励した。ポルトガルやスペインなど、当時のヨーロッパの探検家の最大の目的は、香辛料交易におけるアラビアの独占状態に割って入るために、東インド諸島に到達する新たな海路を見つけることだった。だが、皮肉なことに、彼らの成功はアラビア人がもたらした技術に負うところが少なくなかったのである。
  • ビールを蒸留することで、彼らにも自分たちの土地の材料で強いアルコール飲料を作ることが可能になったのである。アックア·ヴィータを意味するゲール語「ウシュク・ペーハー」は「ウイスキー」の語源である。この新しい飲み物はすぐにアイルランド人の生活様式の一部になった。ある年代記編者は、アイルランドの首長の息子リチャード·マクラグネイルの1405年の死について記し、死んだのは「命の水を飲みすぎたあとのことだった。リチャードにとっては死の水だったのである」と書いている。ほかのヨーロッパ諸国では、アックア·ヴィータは「燃やしたワイン」と呼ばれ、ドイツ語では「ブラントヴァイン(branntwein)/英語では「ブランデーワイン(brandywine)」 またはたんに「ブランデー」と翻訳された。人々は家庭でワインを蒸留し、祭日に売り出すようになる。この慣習が広まり、さまざまな問題が起きたために、ドイツの都市ニュルンベルクでは1496年にこれを厳しく禁じている。同地のある医師はこう書いている。「現在、だれもがアックア・ヴィータを習慣的に飲んでいる。紳士的に振る舞いたいのなら、自分の飲める量を知り、それぞれの許容量に応じた飲み方ができねばならない」
  • アフリカの奴隷商人が奴隷との交換品としてヨーロッパ人から受け取ったのは、布地、貝殻、金属製の器、水差し、銅板など多岐にわたるが、なかでも一番欲しがったのは強いアルコール飲料だった。アフリカではさまざまな地域で、ヤシ酒、はちみつ酒、いろいろな種類のビールなど、古代から存在するアルコール類が飲まれていたのだが、ヨーロッパからやってくるアルコールは、ある商人によると、アフリカ中の「どこでも人気の」品で、イスラム教地域の人々でさえこれを求めた
  •  ラム酒は船乗りたちのあいだでも人気を博し、1655年、カリブ諸島の英国海軍の船では、ビールに代わってラム酒の支給を始めている。誕生から100年も経たないうちに、ラムは長い航海中の海軍のお気に入りの飲み物になったのである。だが、傷みやすく、アルコールの弱いビールをガロン単位で支給することをやめ、強いラム酒を半パイントずつ配るようになったことで、当然ながら船内の規律と業務の能率に問題が生じた。エドワード・バーノン提督が、ラム酒を11パイントの水と混ぜて支給するようにという命令を出したのも、そんな理由からだった。ラムを水で薄めても、全体のアルコール量は変わらず、おかげで水兵たちは船に搭載されたまずい水をそれまでよりは飲めるようになった。パーノンはさらに、もっと飲みやすくするために、ラム酒と水を混ぜたものに砂糖とライムの果汁を加えさせた。この原始的なカクテルは、バーノンに敬意を表して、彼の名前で呼ばれるようになる。バーノンは、グログラムという絹と毛の混紡の粗布をゴムで補強した防水性の外套を身につけていたため、「オールド・グログラム」というあだ名で呼ばれていた。こうして、バーノンの発明したこの新しい飲み物はグロッグとして知られるようになったのである。
  • ビールからグロッグの支給への変更は、一八世紀、イギリスの海上支配権の確立に目に見えないところで貢献した。当時の水兵の主な死因の一つは壊血病という、ビタミンC不足で起きる消耗性疾患だった。最も効果的な予防法は、18世紀中に何度も発見されては忘れられてきたのだが、レモンかライムの果汁を定期的に摂取することだった。そこで、グロッグにレモンかライムの果汁を加えることが1795年に規則で定められ、おかげで壊血病の発症数が劇的に減少したのである。
  • ビールにはビタミンCが含まれていないため、ビールからグロッグに切り替えたことで、イギリスの水兵は一般に、他国の水兵と比べてはるかに健康になったというわけだ。その逆の例がフランス海軍だった。フランス海軍で一般的に支給された飲み物はビールではなく、ワイン四分の三リットル(現代のワイン·ボトル1本分)だった。長い航海の際には、これの代わりに、ブランデー16分の3リットルが支給された。ワインには少量のビタミンCが含まれるが、ブランデーにはないた
    め、フランス海軍の壊血病に対する耐性が低下するという、イギリス海軍とは逆の結果が生じたのである。ある海軍医によれば、イギリス海軍壊血病に対するユニークな予防法は、彼らの業務遂行能力を2倍にし、それが1805年のトラファルガーの海戦でのフランス・スペイン連合艦隊の撃破に大いに寄与したという(ちなみに、イギリスの水兵を馬鹿にする呼称「ライミー」も、この飲み物に由来する)。
  • ただしこれらはすべて、ラム酒の発明時から見れば、はるか未来に起きる出来事である。ラム酒の重要性はまず、通貨として使われたことにあった。通貨代わりになることで、蒸留酒と奴隷と砂糖という"三角形"が完成したからだ。ラム酒と交換で奴隷を買い、奴隷を使って砂糖を作り、それでまた奴隷を買うーこれが延々と繰り返されたのである。フランスの交易商 ジャン・バルボットは、1679年にアフリカ西岸を訪れた際に次のように書いている。「大きな変化に気がついた。わたしはフランスのブランデーをいつも大量に海外に持っていったのだが、最近はほとんど需要がなかった。アフリカ西岸では蒸留酒ラム酒が大量に売買されていたのである」。
  • 一般に地元で生産および消費されるビールとも、特定の地域で生産および交易されることの多いワインとも違い、ラム酒は世界中の物質と人間と技術が集結した結果であり、いくつかの歴史的影響力が合わさって生まれたものだった。ポリネシアで生まれた砂糖がアラビア人によってヨーロッパに紹介され、コロンブスがそれを南北アメリカ大陸にもたらし、アフリカ人奴隷がこれを栽培した。砂糖生産の廃棄物を蒸留して作るラム酒は、新世界のヨーロッパ入植者とその奴隷たちによって消費された。ラム酒は探検の時代におけるヨーロッパ人の野心と冒険心の産物だが、その一方で、彼らが長らく直視を避けていた奴隷貿易という残酷な行為なしには、おそらく存在しなかっただろう。ラム酒は、人類史上初めて世界化が起きた時代の大勝利と迫害を体現する飲み物なのである。
  • アラビアの独占状態を最初に切り崩したのはオランダ人だった。オランダはポルトガルに代わり、十七世紀を通じて東インド諸島を支配し、その過程で香辛料の交易を牛耳り、短期間ではあったが、当時、世界一の商業国だった。オランダの船乗りたちはアラビアのコーヒーの木の切り枝を盗んでアムステルダムに持ち帰り、温室栽培に成功する。1690年代、オランダ東インド会社がコーヒー・プランテーションを植民地だった現在のインドネシア・ジャワ島のバタビア(今日の
  • ジャカルタ)に作る。それから数年のうちに、ジャワ・コーヒーがジャワ島からロッテルダムに直接出荷されるようになり、オランダがコーヒー市場を掌握した。専門家に言わせれば、アラビアのコーヒーのほうが香りでは優っていたようだが、値段ではジャワ産と勝負にならなかったのである。
  • 次に割って入ったのはフランスだった。オランダは、コーヒーの木が砂糖の生産に不可欠な気象条件があれば栽培できることを実証してくれた。つまり、コーヒーは東インド諸島だけでなく、西インド諸島でも生育できることがわかったのである。フランス領だった西インド諸島にコーヒーを持ち込んだのは、当時マルティニーク島に駐屯していたフランス海軍士官ガブリエル・マテュー・ド・クリューである。一七二三年にパリを訪れた際、ド・クリューはコーヒーの木の切り枝を手に入れてマルティニーク島に持ち帰るという、私的な計画を実行する。
  • 茶にはまた、もっと明白な形の経済的効果もあった。七世紀、中国の茶交易の規模と量が大きくなるにつれて、福建省の茶商人たちが扱う金額も増した。そこで、商人たちは紙幣を考案し、これを初めて使用した。さらには茶自体も塊の形で通貨として使い始める。軽量かつコンパクトで富を蓄えておけるうえ、必要なときには飲むこともできるなど、茶は通貨として理想的だった。しかも、紙幣には首都から離れるにしたがって価値が下がるという難点があったが、茶は逆に、地方に行くほど価値が上がったため、重宝されたのである。茶の塊、つまり
    磚茶(たんちゃ)は近代まで中央アジアの一部の地域で通貨代わりとして用いられていた。
  • ヨーロッパ人の東インド諸島に関する報告書に茶の記述が現われるのは、1550年代になってからのことである。ただし、最初期の交易業者に、茶をヨーロッパまで出荷するという考えはなかった。ポルトガルの船乗りがほんの少しだけ個人的にリスボンに持ち込んだことはあったかもしれないが、商用としては、1610年のオランダ船の少量の積み荷が最初だった。茶はヨーロッパでは目新しい商品で、その後、オランダから1630年代にフランス、1650年代にはイギリスに伝わる。最初に輸入されたのは、中国人が好む緑茶だった。紅茶ー摘んだばかりの緑の茶葉を一晩寝かせて酸化させて作るーの登場は明朝になってからで その起源はよくわかっていない。その後中国人のなかに、外国人には紅茶を飲ませておけばよいという考えが生まれ、紅茶の輸出が始まるのだが、それがついにはヨーロッパへの最大の輸出品になる。もっとも、茶の出所はヨーロッパ人には見,当もつかず、緑茶と紅茶はまったく別の品種の木から採れるのだろう、と誤解
    されていた。
  • 18世紀の初め、イギリスで茶を飲むものは誰もいなかったが、同世紀の終わりには、それこそ誰もが茶を飲んでいた。誇張ではない。1699年におよそ六トンだった公式の輸入量は、およそ一世紀後には1万1000トンに増え、18世紀末の茶1ポンド(約450グラム)の値段は、同世紀初めのそれと比べて12分の1に下がっていた。さらに言うと、1784年に茶の課税率が一気に引き下げられるまで、18世紀を通じて、おそらくは正式な輸入量とほぼ同量の茶が密輸されていたに違いない。また、茶に混ぜ物をする習慣が普及したことも、消費が増えた理由の一つだった。当時は、茶葉に灰、ヤナギの葉、木くず、花などを加えて全体のかさを増すのが普通で、もっと怪しげな物ーある記録によれば、羊の糞さえ入れたというーを足すこともあり、しばしば化学染料で着色してごまかした。このように、葉からカップに至るまでのほぼ全段階で混ぜ物がなされたので、消費量のほうが輸入量よりはるかに多いという事態が生じたのである。そのうちに、紅茶の人気が緑茶のそれを上回る。その理由は、紅茶のほうが長い航海中に傷みにくかったことと、混ぜ物による副作用にも関係があった。緑茶もどきを作るのに使われた化学物質の多くは毒性で、紅茶のほうが、たとえ混ぜ物をしたとしても、安全だったからだ。こうして、緑茶ほど口当たりがよくなく、苦みの強い紅茶が人気になるにつれて、飲みやすくするために砂糖と牛乳を加える習慣が普及したのである。

ティーポットが作る政策

  • イギリスに茶を供給した組織、イギリス東インド会社の政治的影響力は巨大だった。最盛期、この会社の収入はイギリス政府の歳入を上回り、統治した人間の数は政府のそれをはるかにしのぎ、輸入した茶の関税として納めた金額は、政府の歳入の10パーセントを占めていた。だからこそ東インド会社は、当時の世界最強国の政策に対して、直接的および間接的な影響力を手にすることができたのである。会社は国の上層部にたくさんの強いコネクションを持ち、社の役員たちは金を使って造作なく議会に入り込んだ。東インド会社の擁護者たちはときに、西インド諸島の利益を保持するために政治家たちと手を組んだ。西インド諸島の砂糖の需要は、茶の消費の増大とともに増大したからである。こうして、イギリス東インド会社の政策は多くの場合、イギリス政府の政策となったのである。
  • イギリス側の悩みの種は、中国が茶の交易品としてヨーロッパの品に興味を示さないことだった。ちなみに、一八世紀の時計と時計じかけの玩具だけは唯一の例外で、こうした自動機械はヨーロッパの技術が中国のそれを明らかに上回る、数少ない分野の一つだった(もっとも、外的影響から身を守ろうとするあまり、中国人は概して変化と革新に不信感を持っていたため,この頃にはすでに、その他の多くの分野でもヨーロッパの技術が先を行っていた)。しかし、中国は次第にこうした製品にも興味をなくしたため、東インド会社は大きな問題を抱えてしまう。茶の代金を銀で支払わなければならなかったからだ。毎年、現在の価格でおよそ10億ドルに相当する大量の銀を確保するのはきわめて困難だった。しかもさらに悪いことに、銀の価格は茶のそれよりも早く上昇し社の財政は圧迫されつつあった。
  • そこで、彼らが目をつけたのがアヘンだった。少なくとも取引に応じる用意のある中国商人は、アヘンを銀と同じく価値の高い商品と見なしていたからだ。都合のいいことに、東インド会社は独占的にアヘンをインドで栽培・製造しており、一七七〇年代から、少量を密輸業者ないしは中国の悪徳交易業者に闇で売りさばいていた。会社はアヘンの製造拡大に乗り出し、茶を買うために、銀の代わりにこれを用い始める。そして、アヘンは通貨として期待どおりの働きをするまでに成長した。
  • ただし、茶と引き替えに違法の麻薬を公然と手渡しするわけにはいかない。そこで、アヘン交易をなるべく表沙汰にしないようにするため、東インド会社は手の込んだ仕組みを作り上げる。アヘンはベンガルで生産し、一年に一回、カルカッタで競売にかけたのだが、そのあとアヘンがどこに行くかについては、東インド会社は知らないふりを決め込んだ。実際には、インドに拠点地方貿易商が購入した。彼らは、名目上は独立した交易会社で、東インド会社から中国との取引を認められたことになっていた。アヘンを競り落とした地方貿易商は、広東の河口まで船で輸送し、銀と交換に伶仃島で下ろした。そして中国商人の手によって手漕ぎの船に積み替えられ、陸揚げされた。中国に直接輸出しているわけではないのだから、違法ではない、というのが地方貿易商たちの言い分だった。東インド会社もこのやり取りへのいっさいの関与を否定できた。実際、東インド会社の船はアヘンの輸送を厳重に禁止されていたのである。
  • 中国の税関職員は事情を承知していたが、中国のアヘン商人から賄賂をもらい、この企ての片棒を担いだ。当時のアメリカ商人W ・C・ハンターは、次のように述べている。「賄賂の体系が完璧にでき上がっており(外国人はいっさい関与していなかった)、ビジネスは容易かつ定期的に行われた。たとえば行政官の交代時など、一時的に障害が発生することもあった。そうすると謝礼の問題が持ち上がるのだが(中略)、そのうちに双方納得の形で話がまとまり、仲買人たちは輝くような笑顔を取り戻し、平和と免責が再びこの地を支配したのである。時折、地元の官僚が密輸業者を威嚇する布告を出し、伶仃島周辺をうろうろしている外国船は本土の港に入るか、さもなければその場を立ち去るように命じ、とりあえず水平線の向こうに行くまで、中国税関の船が外国船を追いかけることもあった。そうすれば、外国の密輸業者を追い払ったと、形ばかりの報告ができたからである。
  • この悪辣な企みは、東インド会社と、彼らとグルだった政府の人間にとっては大成功を収める。年間250包だったアヘンの中国への輸出量は、一八三〇年には1500トンに達し、茶を買うのに十分な、いや実際には十分すぎるほどの銀を稼ぎ出した。一八二八年以降、中国のアヘン輸入高は、茶の輸出のそれを上回っていたからだ。銀は中国、インド、ロンドンのあいだをぐるぐると巡った。まず、地元会社が銀をインドに持ち帰り、東インド会社がロンドン発行の取引銀行手形でこれを購入する。東インド会社はインドの統治政府だったため、こうした手形は現金と同等の価値を有していた。その後、銀はロンドンに送られて、東インド会社代理人の手に渡り、代理人はその銀を持って広東に戻り茶を買う、という流れである。たしかに中国は当時、密輸量と同量のアヘンを非合法的に生産していたが、だからといって、それでイギリス政府が巨大規模の麻薬裏取引を承認した事実を正当化することは許されないだろう。数多くの中毒者を生み、無数の人々の命を奪ったアヘンの闇売買が、イギリスへの茶の供給維持のためだけに続けられたのである。
  • 中国政府は、新たに法を制定してこの交易を止めようとしたが、効果はほとんどなかった。広東の官僚たちが完全に腐敗していたからだ。そこで一八三八年、皇帝はアヘン交易廃絶のため欽差大臣の林則徐を広東に派遣する。林が到着したときにはすでに、広東の事態はかなり深刻だった。一八三四年に東インド会社が独占権を剥奪されて以来、地元の官吏とイギリス政府の代表たちのあいだで、交易のやり方に関する激しいやり取りが続いていた。赴任後すぐに、林は中国商人とイギリス人乗者にアヘンの在庫をすべて破棄するよう命じたが、彼らはこの命令を無視する。以前にも同じような命令を無視したが、何のおとがめも受けなかったからだ。これに対して、林は部下に明治、一年分の在庫をすべて焼き払わせる。だが密輸業者はご多分にもれず、一時的になりを潜めただけで、すぐさま商売を再開した。そこで林はイギリス人、中国人を問わず、そうした業者を逮補した。その後、ふたりのイギリス人船員がけんかでひとりの中国人を殺害し、イギリス当局がその船の身柄の引き渡しを拒むと、林はすべてのイギリス人を広東から追放した。
  • この事態に、ロンドンの関係者は激怒した。かねてから東インド会社の代表をはじめとするイギリス商人はイギリス政府に対して、中国に広東以外の港も開港させてほしい、と迫っていた。建て前は、あくまでも自由貿易の利益のために、実際には、茶交易(とそれに関連するアヘン交易)の保護のために、不安定な広東の状況はなんとかしなければならない、というのが商人たちの考えだった。一方、イギリス政府はアヘン交易を公に認めたくはなかった。そこで、中国国内でアヘンが禁止されているからといって、イギリス商人の商品(つまりアヘン)を差し押さえ、破棄する権利が中国官吏にあることにはならない、という姿勢を取る。
    こうしてイギリスは、自由貿易の保護にかこつけて、中国に宣戦布告をしたのである。
  • アヘン戦争は1839年~42年と短期間のうちに、イギリスの一方的な勝利に終わった。ヨーロッパの武器の性能が中国の武器のそれをはるかに上回っていたからである。中国側にしてみれば、思いも寄らないことだった。1839年7月の最初の交戦において、イギリスはわずか2隻の戦艦で、29隻の船を要する中国を打ち破った。地上戦でも、中国の中世の武器では、最新式のマスケット銃武装したイギリス軍にまるで歯がたたなかった。1842年半ばまでにイギリス軍は香港を征圧し、主要な川の三角州地帯を押さえ、上海をはじめ、いくつかの都市を占拠する。その後、イギリスは中国と講和条約を結び、香港をイギリスに割譲し、五つの港を開港してあらゆる品の自由貿易を認めさせ、林則徐が廃棄したアヘンへの弁償を含め、イギリスへの賠償金を銀で支払うことを要求した。
  • イギリス商人にとって大勝利に終わったこの結果は、中国側にすれば屈辱にほかならなかった。無敵の超大国という神話は崩壊し、中国は丸裸にされた。頻発する仏教徒の反乱の鎮圧に失敗したことで、清朝の権威はすでに失墜していた。そのうえ今度は遠方の小さな島国に敗れ、そこの野蛮な商人と宣教師に対して開港を余儀なくされたのである。これが口火を切る格好となり、中国は一九世紀後半を通じて、制限貿易の撤廃を求める西洋の列強から次々に戦争をしかけられ、いずれも敗北し、大国の商業的目的にかなう条約を結ばされる。依然として中国の主要な輸入品だったアヘンの交易は合法化された。中国の通関事務はすべてイギリスが管理した。織物やその他工業製品が大量に流れ込んできたため、中国の職人たちは生活基盤を激しく揺さぶられた。イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、合衆国、日本といった国々は、中国を帝国主義展開の場として、領土を分
    、政治的優越性の確保にしのぎを削った。これに対して、中国人は外国に対する嫌悪感をますます募らせることしかできず、腐敗の蔓延、経済の衰退、アヘン消費の増大により、かつての強大な文明国は崩壊していった。アメリカの独立と中国の没落はどちらも、茶がイギリスの帝国主義政策に、ひいては世界史の流れに与えた影響の名残なのである。