論文査読制度(ピアレビュー)の信頼性の揺らぎ

査読者は質の高い科学知識の集積に奉仕するために存在する。その誠実な助言が投稿論文の改善、科学誌の健全性維持に寄与してきたことが、査読制度継続の根拠である。しかし、科学の飛躍的進歩はしばしば非凡な研究者の発想によってもたらされ、見識ある査読者にとっても即座に理解できる論文ばかりとは限らない。かのマックス・プランクは「新しい科学の真実というものは、反対者を説き伏せ、光の輝きを見せることによって勝利するのではない。むしろ、彼らはやがて死んでいき、変わってそれに精通した新たな世代が成長するからである」と言っている。

実際、将来のノーベル賞受賞の対象となる研究論文の多くが、科学社会の抵抗、科学誌編集者や査読者による却下の憂き目にあってきた(J. M. Campanario, 2009)。1960年代のJ. ポラニーのレーザーによる振動エネルギー研究、最近ではR. ファーチゴットのNOの生理活性、T. チェックのRNAの触媒作用、C. マリスのPCR法の発見等々にかかわる論文も、高水準の審査基準を誇るNature誌、Science誌はじめ有力誌から厳しい批判を受け却下されてきた。もちろん確固たる根拠に基づくこれらの主張は、いずれ何処かで公表、認知されたが、既成のパラダイムの罠にとらわれた編集責任者たちの胸中は如何であったであろうか

論文記述の客観的正確さにとどまらず、科学的な価値を相対化して見通して適切に判断するには、相当の見識が求められる。現代でも、格別の創造者が少なからず潜在しているはずであり、彼らの思い入れにこそ真摯に正対すべきである。現代の主流である多数決民主主義者にも責任を果たしてほしい。たとえ保守的知識体系の眼鏡をかけるとしても、図抜けた独創性をもつ、しかし、しばしば世慣れない若者を見逃すことがあってはならない。

この状況に呼応して、煩雑な査読を経ない自己責任の未公表論文(プレプリント)のオンライン公開が始まった。1960年代から出版社の抵抗、多くの研究者の反対意見もあり紆余曲折を経てきたが、1991年に物理学分野でarXivプラットフォームが創設された。生物学分野でも2013年コールド・スプリング・ハーバー研究所が主体となりbioRxivが始まり、チャン・ザッカーバーグ財団が巨額の財政援助をして盛んになりつつある。消極的であった化学分野も2017年にChemRxivを立ち上げた。そして、論文掲載にいたらずとも、自らの意思でオンライン投稿したこれらの内容は、人事考課や研究資金の配分審査などに際して勘案される方向にある。科学的評価は、のちほど論文を受け付けた科学誌により適正になされるべきとする。

この方法は明らかに知識の伝達、循環を著しく加速する。オープンサイエンスに向けて、大勢の投稿者の中から無名の若者を見出す効果もある。発表内容の品質の信頼性、未発表(未確定)データの盗用可能性、同業者間の論文発表や研究費獲得の時間的競争の観点からの反対意見もあるが、これは現在の国際学会における発表と同様ではないか。これらの負の効果はいずれも、旧来の情報技術水準にもとづく学界における権利手続きや、個々の研究者の倫理の問題である。一般社会や行政は、科学の円滑な進展と一日も早い成果の社会還元を願っている。この方式の成否は、新たな環境下における指導的立場にある研究者たちの振る舞いにかかっている。

www.jst.go.jp