野依良治の視点

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  • 日本の教育研究の不振の原因が問われて久しい。大学教員や研究者がこれほど勤勉に働くにもかかわらず、成果が思わしくない。日本経済における最大の問題点である労働生産性の低さと軌を一にしないか。先進7カ国の中で最低で、労働者一人当たりの付加価値が、米国の7割以下に過ぎないのは、多くが真面目な勤労者の能力が原因ではなく、経済界全体、企業経営の仕組み自体に問題があるとされる。

http://www.jst.go.jp/crds/about/director-general-room/column04.html

  • 通常、PIは大学院生RAに対して労働対価(旧来の学術には馴染まないが、一般社会通念として理解願いたい)として研究費から生活費相当の給与(日本なら年額二百数十万円)を支払う。なお、研究には参加せず、学科の学生実験指導等の補助にあたる大学院生は、Teaching Assistant (TA) Fellowとしての給与を受ける。大学院生は同時に、被教育者としての立場にあるが、たとえ授業料が有償であっても、給付制奨学金を受けて相殺されることが多い。従って、諸外国では国籍を問わず、入学試験に合格し資格さえ得れば、経済支援を受けて学位取得に向けた勉学に打ちこむことができる。国公私立の大学体制の如何を問わず、これがほとんどの国の標準モデルである。
  • RAないしTAとして適正額の給与を受ける者はごく限られ、大多数の大学院生は世界に例をみない貧しい環境下にある。教授の学位授与権を背景とした低賃金の徒弟制度は、「ブラック企業」にも過ぎる。外国人には理解不能なこの不公正は、労働法違反を問われても仕方ない。実際に研究はPIと大学院生の共同作業であるため、もしPIの研究費が途中で途切れれば、大学院生も研究を中断せざるをえない。カナダに実例があるが、この状況を打開するため、PIは辛くとも自らの俸給を割いて、若き研究協力者たちの献身に報いることが求められる。直接研究費と人件費を求めての資金獲得競争は何処も熾烈であるが、大学は優秀なPI 、RAの確保のためにも適切な救済措置を講ずるべきである。外国の実状を経験、つぶさに見聞してきたはずのわが国の多くの大学人、行政官は、この大学院の惨状になぜ沈黙を守るのか。
  • 人口100万人当たりの学位取得者数は、かねてから独英米の40~50%で少なく、博士号取得者数は主要国で唯一日本だけが減少傾向にある。

http://www.jst.go.jp/crds/about/director-general-room/column07.html

  • 多くの国の大学がテニュア(終身在職権)制度をとる。例えば米国では、教授(Professor)と相当割合の准教授(Associate Professor)にテニュアが与えられるが、30歳前後の新採用の助教授(Assistant Professor)に、いきなりテニュアが与えられることはほとんどない。独立裁量権をもつPIとしてテニュア・トラックに乗り5~7年後に業績審査を受ける(有能者には途中で外部招聘がかかる)。審査後の処遇は「Up or Out」で、合格すればテニュア付きの准教授、時には一挙に教授に昇格し、不合格ならば転出する。問題先送りの助教授留任はない。もとより外部の評価意見も含め判断は主観であり、不合格は決して失格を意味しない。創造的であれば、他大学に転じて成功する機会は少なくない。また教育重視の小規模大学への転職を望む人も多く、大学も当人の意向を支援する。まことに明快な制度ではないか。

  • 研究社会は基本的に競争的である。わが国でも、若者は自立して自らの活動に責任を取らねばならない。テニュア・トラック制度は、適切な条件のもと評価を経た上で、内部昇格を認めるものである。公正かつ躍動感あるこの制度を全国的に徹底させるべきである。

  • 新しい遺伝子編集技術CRISPR-Cas9システムの発見者の一人として注目されるエマニュエル・シャルペンテイエ女史(現マックスプランク感染生物学研究所長)が、25年間にわたり5カ国9機関移動してきたことが話題になっている。
  • 近年の米国では、環境工学が最も競争が厳しく19人に一人、多くの人数を抱える生物医学系では、6分の1以下しかテニュア・トラック雇用の機会はない。通常の工学分野では2分の1以下程度とされるが、MIT(マサチューセッツ工科大学)の助教授職には400名の応募者が殺到する。日本の自然科学分野においては、約15,000名の博士研究員、ほぼ同数の新規博士号取得者たち、そして潜在的には相当数の海外研究者を候補者として、年間推定8,000程度の大学・公的機関雇用のポストが用意される。うち、テニュア職は3,000程度にとどまる。
  • アカデミアに留まる者がごく少数派であることを再認識のうえ、採用時から責任をもって指導し、有為の人材として社会に送り出す義務を負う。「学学流動性」だけでなく、より開かれた「社会流動性」の実現が待たれよう。もとより、先立つ大学院教育は分割細分化を避け、彼らの幅広い社会適応能力を培わねばならない。

http://www.jst.go.jp/crds/about/director-general-room/column08.html

  • わが国の研究投資総額は対GDP比3.76%で、韓国の4.15%、イスラエルの4.09%には及ばないものの、ドイツの2.83%や米国の2.74%に比べて、相当に高い。問題は民間の投資負担額が71%以上で、公的資金が18%程度と低いことである。
  • 2003年から2013年における中国の伸長が555%、ドイツが48%、米国が15%であるのに比し、わが国はわずか0.3%に過ぎず、これでは低迷やむなしとの意見もある。しかし、現状でも公的資金の絶対額は、370億ドルに達し、米国の1,325億ドル、中国の998億ドルには及ばないまでも、好調のドイツ(337億ドル)をしのぎ、フランス(199億ドル)、英国(156億ドル)に比べれば、遥かに大きい。しかし、なぜ論文生産量が世界5位に過ぎず、さらに高被引用論文数については、これらの有力国のみならず、さらに少人口、低投資額のカナダ、オーストラリア、イタリーの後塵を拝するのか。
  • わが国には86の国立大学、91の公立大学、600の私立大学が存在するが、科学研究費補助金科研費)を始めとする多くの競争的研究資金の約90%を10校程度のみで受けている。また、この間の格差も峻厳で、例えば科研費において10位の慶應義塾大学の獲得額は、首位東京大学の16%に止まる(教員一人当たりの金額も約2倍の開きがある)。この首位と10位の落差は、ドイツの79%、米国の74%、さらに格差国と言われる英国の40%に比べても、あまりに大きい。
  • 年配の識者たちの現時点の価値観に基づく「選択と集中」は、不確定性極まりない科学の将来を約束するものではない。まだ無名の若者たちが未来の設計者である。夢多き若者を信じる器量が必要ではないか。彼らは同世代のアジアの人々と共に道を切り開かねばならない。独立した若手研究者育成のあり方については、元AAAS会長のアリス・ファン博士の助言(Science , 329, 1471 (2010))も参考にしてはどうか。

http://www.jst.go.jp/crds/about/director-general-room/column14.html

  • 有機合成化学で用いる3万種以上にのぼる化学薬品、多様な触媒や酵素類は特定の外国企業の寡占状態にあり、商品カタログを比較すると数十%から2倍の価格の違いがある。ビーカーさえ2倍の値段である。
  • 分析機器市場は、機器販売(50%)、消耗品販売などのアフターマーケット(37%)、保守サービス(13%)の3事業からなる。購入価格はほぼ輸入代理企業の言いなりであり、たとえばDNA解析装置では、付随して必要な高額の試薬の購入も同時に強いられる。さらに、パッケージ化された機器は、購入後も自ら保守、内部検査、故障修繕することも許されない。技術の高度化とともに研究費の高騰が続く中、彼我の差は開く一方である。
  • 海外製品依存のわが国の生命科学研究は、個人的に聞いた話では、米国に比べて3倍程度は費用がかかるという。さらに研究の競争激化と商業化の流れが、研究費格差拡大の連鎖を招く結果となり、今や少し大掛かりな生物医学系の研究は、もはや特定の重装備研究室でなければできないとも聞く。
  • 沖縄科学技術大学院大学(OIST)などの海外経験のあるPIたちは、価格の内外格差の理不尽を着任後に直ちに認識するものの、外国情勢に疎い一般の大学人には、危機意識がほとんどない。そして最高性能の機器を購入し続ける結果、多大の科研費が海外垂れ流し状態になっている。ときには国内経済活性化に充てられるべき政府補正予算さえ、外国製品購入に使われるという。
  • もとより科学研究には独自性が求められる。しかし、国際的に論文誌審査員が機器、材料、消耗品を問わず、もはや泥臭い手作りは認めず、特定の規格市販品の使用を求めるという。しかし、データ信頼性のためとするこのような動きは、画一化した後追い研究を促す結果になりはしないか。

http://www.jst.go.jp/crds/about/director-general-room/column15.html

  • わが国は、研究費総額18.9兆円(うち国費は3.5兆円で19%、民間資金が72%)、研究人口68万人(うち大学教員18万人で、民間が7割を超す)を投入する。生産性の一指標である科学論文数約7万5千本は世界5位であるが、残念ながら、被引用数トップ10%論文が10位、トップ1%論文は12位と低調で、ここ10年間、全分野について下振れ傾向にある。米国、中国など大国のみならず、研究開発費、研究人口の少ない国々の後塵を拝する惨状にある。

http://www.jst.go.jp/crds/about/director-general-room/column16.html

  • 研究には知性と感性が求められるが、業績評価にはおそらくその人の個性も反映されるであろう。アカデミアの研究の多くは計画立案から、論文発表まで全て研究者に任されるため、主観的評価はつまるところ、自らに委ねられる。若い研究者には、人生に一編でいい、「これこそ自分である」の想いのこもった作品をつくるべく、気概をもって歩んで欲しい。ならば悔いは残らないであろう。

http://www.jst.go.jp/crds/about/director-general-room/column17.html

  • 「評価は主観である」とする私の主張に対して、客観的な数値をもってなすべきとする人がいる。そこで力を得るのが「論文至上主義」で、かつては発表論文数、近年では「論文被引用数」の比較である。しかし、マックス・ウェーバーが唱えたように「科学は進歩し続ける宿命にある」。従って、成果の評価にあたっては、まだ見ぬ将来への波及可能性が最重要な視点となる。論文が全てではないことは当然であるが、ましてや認識論や総合的批判による洞察を避けて、過去の成果発表の分析の一軸に過ぎない論文被引用数を唯一の評価手段として用いることは、あまりに安易である。運動競技とは異なり、むしろ芸術におけると同じく、まずは創造性を尊ぶべきであり、個人の論文生産能力、優勝劣敗を決めることではない。論文指標偏重の評価システムは明らかに不見識、かつ若い世代の価値観を拘束し、生き方を誤った方向に導くため、強く再考を求めたい。全体統計的にも、また個々の評価についてはなおさら問題は大きい。実は、研究社会が自らの見識をもって評価することを怠ってきたことが、規格化された評価制度への過度な依存を引き起こし、その結果、自らを疲弊に追い込んでいる
  • 優れた研究者を効率的な論文製造機と定義することは不適切である。科学的批判力をもって断固対峙すべき学術会議、学協会、大学や公的研究機関などの甚だしい怠慢、無責任は目に余る。営利目的の商業出版社が由々しき論文引用数至上主義を喧伝し続ける結果、有力ジャーナルのImpact Factor(IF)神話が、若い研究者に学問の本来の価値を見失わせ、せっかくの精神高揚の機会を損なわせていることは、甚だ残念である。
  • 国民の問うところは、分かり易い論文被引用数などの数値の大小ではなく、わが国の研究活動全体の質である。
  • 第5期科学技術基本計画は問題を棚上げした上で、論文数と被引用回数上位10%論文の増加を目標に掲げた。いかなる権力であれ自らの責任説明のために研究現場の組織や個人に数値向上の努力を強いれば、大きな負の効果を生む。この便宜的手段が目的化することは明らかで、恣意的な数値操作がまん延、アカデミアが本質にもとる「衆愚(ポピュリズム)研究の府」と化すことは必定である
  • 良い論文とは、読者にとって読み応えがあり、腑に落ちるものである。その上で研究の礎のなった先行論文こそが、高く評価されるべきである。被引用数は各分野における発表論文のいわばエコー(反響)の度合いにすぎず、決して科学的創造や進歩への貢献を反映しない。視聴率の高いテレビ番組、入場者の多い催し物、人が溢れる喧騒の都市繁華街が他に比べて質が高いとは限らない。

  • 統計によれば、記録が維持されている5,800万論文のうち、44%が一度も引用されず、32%が9回以下であり、1,000回以上引用されるのは、僅か0.025%の1万4千論文に過ぎないという。しかし、この「民主平等的」研究社会では、この大多数を占める「低評価論文」にもやはり対等の引用権利が与えられ、その反映が被引用総数として現れる。被引用数評価の信奉者たちは、ここに自己矛盾、この増幅の仕組みを負のスパイラルとは認識しないのだろうか。逆にトップ0.1%被引用論文の特別扱いも価値偏向を助長し、好ましくないことは当然である。

  • 世界中で年間220万報以上の科学論文が発表され、さらに毎年累積していく。誠実な著者たちは、この溢れる情報の渦の中で、いかに適切に先行文献を選択しているのだろうか。最近米国では一人の研究者が年間に読む論文は、平均して264報に過ぎず、一報に費やす時間は32分という。進展著しい分野では、5年前の論文はすでに古くて役に立たないので読まないというが、それでも結構引用されている。ならば引用文献の選択を他人に、あるいは機械に託しているのではないかと懸念している。一般に英文読書速度が低く、また多忙で自由時間に乏しいとされる日本人研究者たちの現状はどうであろうか。
  • 引用数を評価指標にするならば、実際に比較対象となる具体的数値には公平性が担保されなければならない。まずは「早すぎた発見」は無視されがちで、「眠れる美女」が少なくないことである。1906年発表のH.Freundlichによる溶液中の吸着の研究は、96年後の2002年に初めて日の目を見たし、1935年の有名なEinstein-Podolsky-Rosen論文も2003年頃にようやく広く認知されたという。私は過去を振り返りながら「事実の発見」はもちろん大事だが「価値の発見」がさらに大切としてきた。科学的事実の発見の本当の意義は、当事者によってさえ認識されないこともある。創造性を洞察する目利きが必要な所以でもある。
  • 幸いにも、私は「フロンティア分子軌道論」を創始し1981年にノーベル化学賞を受けられた福井謙一先生から「論文が引用されているうちは本物ではない」と習い、さすがと感心した覚えがある

http://www.jst.go.jp/crds/about/director-general-room/column18.html

  • 数値偏重が研究評価における問題の原点ともいえるが、その病理の根底には、現世代の多数決民主主義、なぜか意味を問うことなく、一票でも多い方が正しいとの信仰がある。わが国の悪名高い入学試験の呪縛のまん延が、主観を疎み、一点刻み、総点の0.1%程度に過ぎない無効数字であっても、客観比較こそが最も公平とする価値観を醸成している。

  • 18歳時の入試勝者たちは、総じてスコア化を好み、この「厳密かつ公正な」仕分け判定で、人生が決定、安定した地位を得たとの勘違いさえする大学入試が青年たちの将来性を占う仕組みであれば、1、2割の違いがあってもほぼ同等であろう。かつての勝者の集団たる教員組織は後継者の選抜に多大のエネルギーを傾注するが、その分解能はいかほどのものか。もっと人事専門家の力を借りて教科以外の要素を十分勘案すべきであろうが、あるいは「松竹梅」と格付けした上で、「竹」をくじ引きして合否決定してはどうか。悲しいかな、100点満点と0点の間の規格化された、あるいは秀才にとっては100点と80点位の狭い評価空間を右往左往する習性のために、世界の桁違いの存在、ましてや「負の存在」に出合う機会に乏しく、価値の相対化能力を喪失する結果となっている。

  • この傲慢が、長じて科学社会における他を顧みない「勝者総取り(winner-takes-all)」文化を醸成することにもなる。競争的資金の獲得はたまさか幸運であっても、最高の研究を意味するとは限らない。過去の採択課題を追跡すれば明白である。米国ではトップ20%を選び、あとはくじ引きにする方が合理的との主張もある

  • 近年、行政は何の目的か、おそらく「自己責任説明」担保のためと推察するが、獲得研究費(しばしば使途目的同定が不適切)や論文引用数値の経年変化をもとに、特定個人の研究活動の消長を測り、研究費配分施策の合理性を論じる。社会が受容しやすいとして「客観的データ」を偏重し、あえて研究の経緯を唯一把握する研究者自身との直接対話を避けようとしているようにさえ見える。まだ評価手法の研究中というのであろうが、この無神経な行為と経緯実態の乖離が、しばしば研究者の誇りを損なう。研究の意義は時代背景や人間社会とは隔絶した公的研究費投入や論文成果だけでは理解できない。創造への動機、伏線、流れを多次元的に理解しないために実態把握を歪め、むしろ研究現場、若者たちへ誤ったメッセージを発することになる。
  • 行政はなぜか自らがつくった研究体制の有効性を顧みることなく、様々な関係職種の中から研究者だけ、また論文成果に限って評価対象とするのだろうか。是非彼らの立場に立ち、誠意をもってその意図をくみ取るべきである。特に若い人の置かれた状況には特段の配慮が必要である。創造の担い手の多くはか弱い人間であり、寛容と忍耐をもって育てなければならない。

http://www.jst.go.jp/crds/about/director-general-room/column20.html

  • 論文至上主義を懸念する筆者であるが、科学研究者は何のために論文を発表するのか。元来、精神の高揚を旨とし、実利には距離を置く学術共同体の中で、同好者たちが互いに思想、知見、意見を交換し合い、いわば自己表現する手段であった。加えて、時を経た現代では、社会が多大な公的財政支援による成果の証として論文発表を求めるためとされる。研究者にとっては評価対象ともなるが、さらに競争的に職業的地位と生活の糧の獲得、名誉栄達のための利己手段でもあることも否めないその結果である過剰な論文偏重主義とそれを助長する科学論文出版の商業化が、アカデミアのみならず周辺社会にも深刻な歪みをもたらしている
  • 「XX大学のYY教授によるこの研究成果は、最近Nature誌に発表されて高い評価を受けた非常に優れたものです」。昨今、学術賞選考会や研究費審査会でしばしば耳にするこの発言には、大きな違和感を覚える。むしろ絶対的な禁句ではないか。審査の過程と結果は研究社会に受容されるものでなければならないが、定められた目的に関し評価を委嘱された委員には、研究者の職歴や論文の外観ではなく、研究内容と質を自らの専門的見識で精査、説明して欲しい。研究の本質は国籍、所属機関、職位や論文誌に依存しないはずではないか。人については出自や資産、容姿ではなく、「人物本位」で評価する。街の建造物に例えれば、美しいタイル張りの斬新な外装に見とれることなく、構造の強靭性や内部の居住性、機能性を吟味することが求められる。
  • 読者が目にする科学論文は研究者と査読者、出版組織の共同作品である。科学研究は主に公的資金に支えられるが、成果発信の相当部分は民間が担う。伝統を誇る英国Nature誌は、現在ドイツ商業出版社Springerの傘下にある。広い科学分野を取り扱うが、進展する専門分野に特化した多くの姉妹誌をもつ。Cell誌は世界最大のオランダ出版社エルゼビアが発行する生物医学専門誌である。ちなみに、広く社会的影響力をもつScience誌は、2万人の会員を擁する米国の非営利団体AAASが発行するが、相当の収益事業という。

  • 科学技術政策や大学組織の経営方針は、断固として自らの理念に基づく主体性を堅持すべきである。しかし、いまや出版界は研究者の人事、研究費のみならず、いくつかの分野では科学の行方にまでに影響力をもつに至っている。最近の商業誌には、本来の出版使命を超えて自ら科学賞を設置する動きさえある。実際、シドニー・ブレナー(2002年ノーベル生理学医学賞受賞者)は、「学界はすでに科学誌の要求に応える成果を生むよう仕向けられており、制度的に腐敗しきっている」と断罪している。研究者の隷属はあってはならないはずである。

  • 果たしてこの種の有名ブランド誌への掲載が、研究者はさまざまな機会に科学的真価の基準を示す絶対的権威として機能する根拠は何だろうか。まずは、採択障壁の高さであり、それを律する特別の審査基準ではなかろうか。例えばNature誌の現在は採択率が5%以下。採択数が少ないからこそ、研究者はあえて希少性に挑む。

  • 投稿論文は担当編集者の責任のもと、見識あるとされる数名の外部専門家による匿名査読(peer review)に供される。採否の裁断には膨大な時間と労力がかかる。意見を受けて、しばしば修正作業ののち、編集者が最終判断する。通常はアカデミア有力者が編集に責任をもつが、Nature誌やScience誌においては社内の専属編集者を中心とする会議の判断が重要と聞く。この誇り高き編集者たちの広い視点での熟議は高く評価できるが、彼らの主観的判断は商業誌ゆえの基準に則ると推察され、一般学会誌のものとは異なっても不思議はない

  • 決して霊験あらたかな、総じて水準の高いとされる科学誌を一方的に非難するつもりはない。むしろ、それをあたかも聖断と崇める研究社会の風潮こそを懸念するのである。

  • ブランド誌掲載が目的化すれば,真理追究を目指す研究者の規範は揺らぐ。中国では、Nature に掲載されれば最高16万5千ドル、米国科学アカデミー紀要(PNAS)なら3,513ドルの報奨金制度があるそうであるが、良質な研究のための適切な動機付けと言えるであろうか。
  • 学術論文は、市場性ある派手な流行語を冠した押し付け商品ではなく、内省的で静謐なたたずまいに特徴があった。しかし、近年の風潮は大衆迎合と言わざるをえず極めて嘆かわしい。多くの論文が喧伝するように、本当にその成果は格段に革新的であろうか。しかし、近年の論文の題名や抄録にはnovel, amazing, innovative, creative, astonishing, groundbreaking, remarkableなどの眩い形容詞が並ぶ。この大げさな非科学的な語句は、30数年間で2%から17.5%に伸び、さらに増加、感染の傾向にある
  • 高級ブランド誌の平均被引用数指標(英語では大げさにjournal impact factor(JIF)と称する)は大きい。いやJIFが高いからブランド誌とよばれる。しかし、元来Nature、Science両誌ともに高いJIF値を支える論文は全体の25%に過ぎない

  • 高いJIFを記録する論文の大半が、昨今爆発的な発展を見せる生命科学、医療関連分野から生まれる。残念ながら、ここに虚偽を含む様々な不都合による研究論文の撤回の頻発が話題を呼ぶ結果となっている。有名なEMBOジャーナルによると、すでに公表済みの論文の写真図面の20%に改ざんの跡があるという。

  • さらに驚くべきことは、不名誉な論文撤回のワースト10にはJournal of Biological Chemistryを筆頭に、Science、PNAS、Nature、Cellなど高いJIF値を誇る最有力誌が軒並み名を連ねていることである。一部の有力研究者たちの倫理の欠如は明白である。すでに地位を確立し、若者を導くはずのこのような研究者たちはいったい論文掲載に何を求めているのだろうか

  • 商業出版社には、多少の危険を犯しても、見栄えのする論文をライバル誌に奪われまいと、自らに囲い込む意図が働くのであろうか。加えて、自らの営業利益のために「Publish or Perish」「Impact or Perish」と論文至上主義をあおる出版社の責任はどう問われるべきか。ブランド誌よりも注目度が低い一般専門誌の実情はいかがであろうか。
  • 実は医療研究論文の65%が再現できないとされる。また不適切な計画実験により、全研究費の約80%に相当する2,000億ドルの膨大な額が恒常的に浪費されているとの批判もある。2012年、米国のベンチャー企業Amgenの研究者は、がん研究の主要53論文を追試の結果、わずか6論文しか再現できないと問題提起して衝撃を与えた。

http://www.jst.go.jp/crds/about/director-general-room/column21.html

  • Outsell’s Information Industry Database, 2014によると科学技術医学(STM)分野の世界の市場規模は252億ドルという。2,000誌以上を発行し10%強の最大シェアを誇るオランダのエルゼビア社の総収入は33億ドルである。最近、英国ネイチャー誌を併合したドイツのシュプリンガー社、化学分野でも有名なワイリー社、トムソン・ロイターズ(現クラリベイト・アナリティック社)が3%程度のシェアでこれに続く。日本発の研究論文の世界シェアは低迷しながらも世界5位で、6%程度を保つ。従って、本来2,000億円近くの国際誌事業があってしかるべきであるが、実態は200億円程度に過ぎないと言われる。年間官民合わせ18.9兆円の研究開発費、科学研究費補助金だけでも2,300億円を投入して得られる成果の80%以上が海外の論文誌へ垂れ流し状態で、一方的に外国出版社だけを利する現状は、看過できない。同じ割合の論文を呼び込み積極的に海外出版することなく、経済的均衡は得られないではないか。
  • 日本国民の立場では、現状はこうみえる。公的資金投入により自国生産した製品を、「有料で」外国に依頼して品質管理、さらに見栄えよく商品化してもらい、再び高価格で国内に買い戻すことを余儀なくされている。たしかにこの商品規格化を経て日本製品の国外流通性は高まるが、決して製品内容が本質的に変わるわけではない。論文誌の商品価格は主として購読料によって支えられるが、発表論文一編あたりの費用は平均して約50万円という、有名ブランド誌では、おそらくその地位を保つための戦略経費がかさむためであろう、100万円超と言われる(対抗策のオープン・アクセスについては別稿で述べる)。国家はこの不可思議な外国の搾取の仕組み受容しつつ公的支援を続けるが、経常的負荷は過大であり、国民への経済的、非経済的な対価還元の説明はまったく不十分である。
  • Nature誌は1869年の創刊で、南方熊楠も生涯51本の論文を発表したという非学会誌の草分けであるが、20世紀後半には名編集長ジョン・マドックスが高い科学的視点に立って名声を築いた。現在の商業モデルの市場席巻の歴史は決して古くはなく、20世紀半ばに「科学市場の拡張性」に着目したメディア王ロバート・マクスウェルが英国パーガモン社において確立したとされる。まだ学会誌が主流の時代に、彼らは科学論文出版事業は公益に資すると言い張り続け、近年は電子化技術の特徴を縦横に駆使して発信受信を著しく効率化し、事業性をあげてきた。中でも経営戦略に長けた上記エルゼビア社(のちにパーガモン社も吸収)は成長を遂げ続け、利益率は実に40%に上り、グーグルやアマゾンさえも凌ぐ。

http://www.jst.go.jp/crds/about/director-general-room/column22.html

  • 決して著名誌が全てではない。ノーベル化学賞をもたらす本当の端緒となった発見の多くは、地味な専門誌に、特に飾ることなく誠実かつ謙虚な形で、時には英語でない母国語でさえ発表されてきた真の科学的価値は論文誌名や、前述の被引用数とは無関係である。

  • おそらく誠実ではあろうが尊大に見えるブランド誌の編集者の指図や、時間のかかる煩雑な交渉を避けて、あくまで自らの主張を貫くべく地道な専門誌に発表したい研究者は少なくない。これこそがごく自然かつ健全な傾向でないか。より緩やかな時代に研究生活を過ごした私の友人科学者たちにとっても現在の有名誌は決して第一選択肢ではなかった。ちなみに、私自身も化学専門誌への投稿を習慣とした。Science誌には僅か3編、Nature誌には1編しか発表していないので、昨今の生命科学分野なら国立大学教授職に不適格であったかもしれない。

  • 昨年、わが国が初めて元素名命名権を得た113番元素ニホニウムの合成の成果は、森田浩介博士はじめ理化学研究所の研究者たちの思い入れもあり、当初から日本物理学会の英文誌(Journal of the Physical Society of Japan)に発表された。

  • まず、わが国の出版界は学界と協力して、高等教育にもっと責任を果たすべきである。海外に通じる英語版教科書の出版が望ましいが、まずは日本語版であろう。学生は大学に入ると授業で「将来、教科書に一行でも載るような研究をしろ」と喝を入れられる。ところが、わが国の大学や大学院教科書の製作能力が極めて弱く、少なくとも化学分野では海外依存が甚だしく、一般評価の高い外国製教科書ないしその訳書を使用する傾向にある。記述内容は当然、欧米の歴史観や言い伝えに従い、著者の意図の有無に関わらず、わが国先達の独自性ある科学的貢献の記述を避けがちとなる。もとより高等教育は初等、中等教育とは異なり、また科学に国境はないが、学生が最初に接する知識体系であるがゆえに、訳書依存の授業が引き起こす教育的不都合は明白である。

  • 優れた教科書は大半の論文誌よりは、より広く次世代育成に益するところが多いはずである。かつては先輩諸氏による名著もいくつかあり、私自身も大学院生のための有機化学の教科書づくりに深くかかわった。しかし残念ながら、後継の教員たちの教科書執筆意欲は低い。分野細分化傾向と共に、評価制度が「研究成果」を偏重し、「教育奉仕」を軽んずる結果、彼らの行動規範が変わったのではないかと憂慮している。