ケンブリッジ式 経済学ユーザーズガイド: 経済学の95%はただの常識にすぎない

>第四章の『経済学の百家争鳴』はコンパクトに上手くまとまっている経済学説史。第二部は標準的な経済学の本で学んでもいいように思うので(もちろんこの本の方が新古典派に対して圧倒的に批判的ではあるが)、筆者の政治哲学にあまり同調できない場合(新古典派に毒されているだけだと筆者は思うかもしれないが)、第一部とおわりに、だけを読んでもいいように思う。

マンキュー「エコノミストは科学者ぶりたがる。実際、私自身もよくそうしている。学部生の講義では、意識的に経済学を科学分野として話し、曖昧な学問領域に踏み出そうとしていることから学生の目をそらしている。」

経済学理論は、その主力分野についてさえ予測を外し続けている。主な理由は、人間は化合物の分子や物体と違い、自らの意志で動くからだ。

1932年にライオネル・ロビンズが著書『経済学の本質と意義』で記した、「(経済学は)人間行動を、目的と、希少な汎用的手段との関係として研究する科学」・・・経済学はその対象ではなく方法によって定義されていることになる。経済学とは合理的な選択を学ぶもの、すなわち希少な手段を用いて最大限に目標を達成するための慎重かつ組織的な計算に基づいた選択である、というものだ。

今日では多くの国で金融業界が支配的であるため、経済学と金融経済学を同一視する向きも多いが、後者は前者の一分野にすぎない。

 経済誌は1980年代まで多くの経済学大学院教育において必修とされてきたが、今では多くの学校で講座さえ提供されていない。より理論思考なエコノミストの中には、経済誌をせいぜ鉄道オタクのような毒にも薬にもならない暇つぶし、悪くすれば数学や統計学などの難解な領域に歯が立たない凡才の逃げ場と考える向きもある。

 大規模な投資の必要が高まると、それまではごく限られた企業だけの特権だった有限責任は一般化された。すなわち、最低限の条件を満たせば、どんな企業も有限会社として設立できるようになったのである。有限会社は未曾有の投資規模を可能にし、資本主義発達の最も強力な推進力となった。カール・マルクスは、資本主義の事象応援者が現れる前からそれを、「資本主義生産の最終発展形」と称した。

1849年の経済改革の前まで、破産法は破産した実業家を罰し、最悪の場合は投獄刑を課した。19世紀後半に導入された新たな破産法では、失敗した実業家にも再起の機会が与えられた。事業を立て直すまで債権者あての利息支払いを猶予したり、債権者に債権の一部を放棄させるなどによってである。実業家になるリスクは、はるかに軽減された。

 1970年代後半から1980年代前半の米国の高金利政策ー当時の米国のFRB議長の名にちなんでボルカーショックとも呼ばれるーの最も永続的な遺産は米国ではなく、発展途上国に残された。大半の発展途上国は、1970年台から1980年代初頭にかけて、産業開発のためや石油ショック後の燃料費高のために多額の借金を背負っていた。米国の金利が倍以上になると世界的にも金利は上がり、すると発展途上国の対外債務が広くデフォルトに陥った。始まりは1982年のメキシコだった。コレが第三世界債務危機で、当時発展途上国は、第一世界(先進資本主義国)と第二世界(社会主義世界)に次ぐ第三世界と呼ばれていたのが命名の由来である。

物理学のような自然科学のそれも含めてすべての理論は必然的に抽象化を伴い、それゆえに現実世界の複雑性を網羅できない。つまり、どんな理論も万事万物を説明するには不足である。いずれもそれなりに一長一短で、それは何に光を当て何を無視するのか,何を概念化しそれらの間の関係をどう分析するのかによる。他に優越して万物を説明できる唯一の理論などない。汎用のフリーサイズ服などないのだ。トールキン指輪物語風に言えば、全てを統べる指輪はないということだ。

自然科学と違い、人間は単純に外部環境に反応するだけではなく自由意志と想像力を持っている。・・・マルクスが雄弁に語ったように「人類は自ら歴史を作る」。経済学を含むいかなる人文科学も、物事を断定するにあたり謙虚で無くてはならない。

自然科学と違い、経済学は価値判断を伴っている。多くの新古典主義者たちのように、自分たちのやっていることは価値中立的な科学だと称するのは誤りだ。

 

 マーシャルの時代、新古典主義エコノミストらは、この学問(古典派)の名称をポリティカルエコノミーからエコノミクスに変えることに成功した。この変更は、新古典主義者らが経済学を純粋な科学にしたいと願っていた表れだった。ポリティカルな物事は倫理的であり、必然的に主観的な価値判断が伴っていることを排したのである。

古典派のエコノミストらは、製品の価値は単に供給側の条件すなわち製造費用によって決定されると信じ、製造費用を投入された労働時間で測った。すなわち労働価値説である。・・・経済を古典派のようにきっぱり分化した階級の集まりではなく、合理的で利己的な個人の集団として概念化した。・・・新古典主義派は経済学の焦点を生産から消費及び交換へと転じた。・・・古典主義者特にアダム・スミスにとっては、生産は経済制度の中心だった。・・・対照的に、新古典主義エコノミストらにとっての経済とは、事実上、交換の編みのようなものであり、究極的には主権的な消費者の選択によって突き動かされていくものだった。

新古典主義派は古典派の中心的な考えを2つ受け継ぎ、発展させていった。第一は、経済的アクターは利己に突き動かされているが、市場競争のおかげでその行動が集約的に社会的な善を生み出していくというものだ。もう一つは、市場は自己平衡化するという考えである。そして結論は、古典経済学者と同じく、資本主義ー市場経済ーは自己平衡化するのだから放っておく時が最も上手く働く、というものだった。

 現状の新古典主義エコノミストの圧倒的多数が自由至上主義に傾いているのは、新古典主義経済学では自由市場の限界を見出す理論がないか、あっても質が低いからというより、むしろ1980年代以降の政治的思潮の変化に負うところが大きい。マクロ経済学の合理的期待理論や金融経済学の効率的市場仮説などがそれで、要するに人は自分がやっていることをちゃんと理解しており、だから政府が余計な手出しをすべきではないということだ。専門用語で言うなら、経済的エージェントは合理的であり、それゆえ市場の結果も効率的、ということである。

 新古典主義派にはいくつか独特の強みがある。例えば現象を個人レベルにまで分割して考えるべきとするため、厳密性と論理的な明快さがある。さらに汎用的でもある。・・・新古典主義派のエコノミストには多くの左派たとえばジョセフ・スティグリッツポール・クルーグマンのような人々がいるし、一方、たとえばジェームズ・ブキャナンやゲイリー・ベッカーのような右派の人々も多い。いくらか誇張気味にいえば、ちょっと頭のある人間が新古典主義経済学を用いれば、いかなる政策、企業戦略、個人行動さえ正当化できるのである。

マルクス主義経済学・・・古典主義の継承者をもって任じる新古典主義派以上に古典主義のドクトリンに忠実である。例えば新古典主義派がきっぱりと拒んだ労働価値説を採っている。さらに新古典主義派が消費と交換を重視するのに対し、生産に注目する。また経済は個人より階級によって構成されるとし、これも新古典主義派が拒んだら古典主義の骨子である。

すべての社会は、経済的土台の上に築かれており、それが生産様式であるという主張である。この土台を構成するものは、生産力と生産関係である。下部構造をなすこの土台の上に上部構造があり、それは文化や政治など人間生活のその他の面から構成され、それがひるがえって経済の働き方に影響する。 この意味で、マルクスはおそらく経済の制度を初めて組織的に探訪したエコノミストであり、制度学派の前兆である。・・・資本守秘は、共産主義という最終段階に至るまでの発展段階の一つとみなされる。こうして経済問題を歴史的性質とみなすことは、新古典主義派とは著しく対照的である。新古典主義では、経済問題とは普遍的な効用の最大化に関わるものとし、孤島に流されたロビンソン・クルーソーであれ中世ヨーロッパの週末市の参加者であれタンザニアの自給自足農家であれ21世紀ドイツの豊かな消費者であれ、一様に考える。

 オーストリア学派の信奉者らは、大半の新古典主義者以上に熱烈な自由市場の支持者である。・・・創始者は19世紀後半に活躍したカール・メンガー・・・ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスとフリードリヒ・フォン・ハイエク・・・1944年、ハイエクは大きな影響力と人気を得た著者『隷属への道』を著し、政府の介入が根本的な個人の自由の喪失につながる危険を熱烈に説いた。

オーストリア学派では個人の重要性を強調するものの、新古典主義者と違って個人を独立した合理的存在とは信じない。むしろ人間の合理性はごく限定的と考える。・・・計算論争で主張したように、誰も―どんな情報もほしいままの強権的な社会主義国の中央計画当局でさえ―複雑な経済を運営するために必要なすべての情報を得ることはできない、というのである。多種多様で世界の予想外かつ複雑な移り変わりに応じて常に転変していく膨大な数の経済的アクターをまとめていけるのは、競争が活発な市場の自発的秩序を通じてのみ、という主張である。・・・オーストリア学派は自由市場こそ最高の経済制度というのだが、それは新古典主義者が言うように我々が完璧に合理的で自分の行動が分かっている(少なくとも知らなければならないことはすべて知っている)からではなく、むしろあまり合理的ではなく世の中には本質的に知り得ないことが山ほどあるからこそそうなのだ、と考えるのである。

 オーストリア派と同じく、シュンペーターマルクス主義の影響下で研究をした。あまりにそうであるため、1942年にものした傑作『資本主義・社会主義・民主主義』はマルクスに捧げられている。

シュンペーターは技術開発こそ資本主義の原動力とするマルクスの考えを発展させ、資本主義は起業家による技術革新すなわち新たな生産技術、新製品、新市場の創造を通じて発展すると論じた。技術革新に成功した起業家は市場を一時的に独占でき、異例なほどの利益を稼げる。これが起業家利潤である。・・・技術革新に突き動かされての競争は、新古典主義派の言う価格競争―既存技術によって効率を上げてより安い価格を実現しようとする―よりもずっと強力である。シュンペーターは、価格競争と技術革新を通じての競争の違いは、「玄関の強制突破と砲撃を比べるようなもの」と論じている。

資本主義のダイナミズムをそんなにも信じていたにもかかわらず、シュンペーターはその将来を楽観していなかった。・・・資本主義は徐々に衰退して社会主義へと変貌していくというのが彼の理論だった。

ジョン・メイナード・ケインズ・・・彼はマクロ経済学の分野を切り開いて経済学を塗り替えた。経済を部分の総和としてではなく、全体として一つの主体と見る学派である。・・・市場が需要と供給を均衡させるのなら、いったいどうして失業者、休眠工場、不良在庫などというものがあるのかを説明しようとした。

 ケインズ派は、完全雇用に向けて十分な投資が行われるのは、潜在的投資家のアニマルスピリットが新技術、金融的陶酔感その他の異常な出来事によって刺激された場合だけだ、とした。彼の考えでは、通常の状態では、完全雇用を支えるには不十分な有効需要(購買力によって裏打ちされている需要)分の貯蓄しか投資されない。したがって完全雇用を実現するには、政府が支出して需要水準を押し上げなければならない。

ケインズ経済学は、不確実性を重んじたため、古典学派(そして新古典主義学派)のように金を単なる生産や交換の便利な媒介物としてではなく、不確実な世界で流動性をもたらすものと見た。このため金融市場は単に投資資金を提供する手段ではなく、在る投資計画に他する収益見通しが人によって異なることを利用して金を得る場、すなわち投機の場でもある。・・・金融市場を投機、熱狂、そしてついには暴落へと本質的に至りやすくする。

ケインズ派マクロ経済学理論は貯蓄者と投資家が構造的に分離しているという観察に基づいている。19世紀後半に現れた投資家は貯蓄者であり投資家だったが、それが分離してしまったために、完全雇用の達成がより難しくなったということだ。・・・ケインズ派では金融が現代的資本主義に果たす役割を正しく強調している。古典学派は、金融市場が未発達な時代に生まれた理論なので、金融に十分な注意を払わなかった。新古典主義派、ケインズが生きた時代と極めて似た時代に発達したが、不確実性について認識できなかったためマネーを重視しなかった。対象的にケインズ理論では、金融が重要な役割を果たし、それは1929年の大恐慌や2008年のグローバルな金融危機を理解する上で大きな助けになるものだった。・・・短期的なマクロ経済学的変数に焦点をおいたことはケインズ派を、技術の進歩や制度的変化などの長期的問題に対していくらか弱くしている。

 行動経済学派・・・近年に脚光を浴びているのは、行動金融額や実験経済学などの分野を通じてである。だが期限は1940年代から1950年代にさかのぼり、特に1978年にノーベル経済学賞を受けたハーバート・サイモンの仕事である。

 サイモンの中心的な概念は、限られた合理性である。・・・サイモンは、人間は不合理であると主張したわけではない。人は合理的であろうとするがその能力はごく限られていると主張したのである。・・・つまり我々の意思決定の主な障害は情報の欠如ではなく、持てる情報の処理能力不足ということである。・・・人間は選択をするにあたり、必要最低限の結果を追求するのである。すなわち「これなら良しとしよう」という選択であって、新古典主義派が言うような最上の選択を追求するわけではない。

微視性が強すぎて、この学派はえてしてより大きな経済制度を見失ってしまう。・・・特に実験経済学や神経経済学に携わる人達は、個人に注目しすぎている。・・・人間の認知や心理学に重点を置くことで、技術やマクロ経済学についてほとんど言うべきことを持たない点も指摘する必要がある。

移転価格を利用する多国籍企業は、税収に支えられているインフラストラクチャー、教育、R&D助成などのただ乗りしていることになる。つまり事実上、受入国が多国籍企業を助成しているようなものだ。

ハンマーを持つものには何でも釘に見える。特定の理論的視点から物事を見ようとすると、型にはまった問いとそれへの回答に凝り固まってしまう。目の前の問題は釘なのだ、だから自分の持つハンマーという工具が最適なのだ、と。だがたいていの場合、あなたに必要なものは様々な工具を収めた道具箱である。

ハリー・S・トルーマン「専門家というのは何も新しいことを学びたがらない連中のことさ。なぜなら学んだら専門家ではなくなるからだ。」

専門家の常で、エコノミストもフランス語で言う「デフォルマシオン・プロフェッショネル」すなわち専門バカである。

 

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