科学という考え方 - アインシュタインの宇宙

 それまで無関係だと思っていた複数の法則が、多様に見える自然現象の異なる表現であって、実は相互に関連しあっていることがわかれば、一段深いレベルでの理解に達したことになる。そうして法則相互の関係が説明できるようになった時、自然は全く新たな形で人々の前に現れるだろう。・・・運動に関する法則が「光」という電磁気の減少と結びつくところに、相対性理論が生まれたのだ。そうした組み合わせの妙は、創作やアイデアの源泉として、学問や芸術のあらゆるところで役立っている。

パウリの講義録を編纂したC・P・エンツ・・・「パウリの講義は歴史的発展を重視し、これは公理主義的なやり方とはよい対照をなしている現代物理学の創造者の中で最も理性の人であったパウリは、歴史上新しいアイデアが生まれてくる非合理的な背景に魅せられていたいのである。これが彼の講義が時代遅れにならない理由である。」

ヴォルフガング・パウリ - Wikipedia

実際、革命的なアイデアには「非合理的な背景」があり、常識を超えた「意外性」がそこにはある。

科学的な思考力を身につけるための確実な方法があるとすれば、「納得行くまで自分で考える」ということに尽きる。「どうせ考えても自分には無理だ」とか、「時間がかかって無駄だ」などと投げ出すことなく、自分がわかるまで考え続ける。そして研究者になるためには、十代のうちからそうした考える経験を積むことが大切である。

アインシュタイン「科学は法則のコレクションや、関係のない事実のカタログのようなものではない。科学は人間の知性による一つの産物であり、自由に作られた考え方や概念を伴うものだ。」

ファインマン「数学を知らない人に、自然の美、その最も深い美に対する本当の感動を分からせることは難しい。」

ディラック「基本的な物理法則が極めて美しく、そして強力な数学理論によっって記述されるのは、自然の基本的な性質の一つであろう」

「分かる」ための4段階

「初級者」は、自分でどこがわからないのかが分かっていない。・・・「困難の分割」である。難しいことをいくつかに分けて、その一つ一つが分かるかどうか検討することだ。そうすれば、どこまでが分かって、どこからわからないのかがはっきりしてくる。・・・デカルト「むずかしい問題の一つ一つを、できるだけ多くの、しかもいっそう上手く解決するために要求するだけの小部分に分けること」

「中級者」は、大方わかったつもりでいても、まだ分かっていない部分が相当あることには気づいていないものだ。・・・人に聞いたり検索したりして得られた知識は、基本的に受動的なものなのだ。分かるためには、納得行くまで自分で能動的に考えて、咀嚼し直すしかない。回り道を厭わず、繰り返し本を読んで考える以外に近道はないのだ。学問に王道はない。

「上級者」は、個別のことは分かっていても、それらの関係について分かっていないことが多い。一見異なるようなことの間に、それまで見えなかった関係性が分かると、一段と深い真理が垣間見えてくる。学問の魅力はそこにある。

「名人」の生きに達すると、分かることの中に、いくらでも奥深い理が含まれていることが分かっている。どんなに極めても、その先にさらに極めるべき世界が広がっていることが見えてくる。それでいて絶望もしなければ、深淵を覗き込んで慄然とすることもない。むしろ嬉々として底なし沼の冒険を楽しむというべきか。それは未知への渇望のなせる業なのかもしれない。

 

朝永振一郎「数学を勉強してほんとにわかったという気持ちは、おそらくその数学が作られたときの数学者の真理に少しでも近づかないと起こり得ないのであろうか、一つ一つの照明がわかったということは、丁度映画のフィルムの一コマ一コマを1つずつ見るようなもので、それでは映画のすじは何もわからない、そんなものではなかろうか。」

朝永振一郎「物理学者は法則を数学化しておき、後はもっぱら数学的操作だけで色々な結論を導くのですが、そう言っても、得られた数学的結論がすべて物理的に同じ価値の内容を持つという保証はないのです。ですからそれを確かめるために数学的操作の節々で数式から抽象の世界に立ち戻り、式の意味を思い出さねばならないのです。」

  • 仁科は理研に仁科研究室を立ち上げ、量子力学に基づいて原子核宇宙線の研究を始めた。1937年には理研で日本初の小型サイクロトロン原子核素粒子の加速装置)、2年後には大型サイクロトロン本体をそれぞれ完成させ、1944年1月から実験を始めて16メガ電子ボルトの重水素ビームを出すことに成功した。アメリカに次いで世界で2番目の快挙だった。しかし、仁科が心血を注いで完成させたこのサイクロトロン終戦後、占領軍による原子力研究禁止令によって破壊され、東京湾に沈められる。
  • 東京生まれの朝永は幼少時、西田幾多郎(1870~1945年)の同志で哲学者だった父・朝永三十郎(1871~1951年)の京都帝国大学教授就任に伴って京都に移り住む。
  • 1929年に京都帝大理学部物理学科を卒業。ちなみに同物理学科の3年先輩に西田幾多郎次男、外彦がいた。西田外彦もまた父親の助言を得ながら理論物理学を学んでおり、当時の京都では、哲学と物理学とは互いに新しい次元をめざして切磋琢磨する関係にあったことが分かる。

2-5-c6跡取り息子外彦の進路

幾多郎>長男の謙は大正9年、23歳で急病で夭折しました。あいつは少々ひっぱたたいても父親の言うことなど聞きませんでした。大正11年の夏、次男の外彦が急に哲学者になりたいと言ったので、私が必死で手紙で説得して諦めさせたことがあります。彼は大学で既に理学部で物理学を専攻していたんです。それが哲学や文学に興味を持ったので、哲学科に変わりたがったのです。母親は不治の病で寝込んでいて、3人の娘は病弱で学校を遅れている有り様で、外彦には将来西田の家を継ぐ者としての自覚を持って欲しかったのです。それが自分が主体的に選んだ筈の物理学に身が入らず、哲学や文学の方が面白そうだから、そっちに変わろうかなんて怠け者の科白です。学問はそれを真面目に長年積み重ねてこそ、興味も深まってくるものです。

琴>そうでしたか、私は何も聞いていませんよ。それにしても外彦さんはお父様を尊敬していらしたから、お父様の跡を継ぐのが親孝行とお考えになられたのではないですか。それに幾多郎さんの血を引いてらっしゃれば、哲学者として大成されるかもしれないじゃないですか。

幾多郎>それは甘い考えです。自然科学ならその学問をこつこつ積み上げていけば、それなりの水準に達して、一応業績も挙げられるでしょう。でも文芸や哲学というのは非凡の天賦と非常の努力が必要です。確かに万人が文芸や哲学に親しみ、読んで味わうべきですが、軽々しく専門とすべきじゃありません。100人に1人、1000人に1人も真に成功することはないでしょう。

DIJ - Deutsches Institut für Japanstudien

  • 大学卒業後、早々と自らの道を定めて才能を発揮する湯川に、朝永は焦りと劣等感を募らせる。朝永はのちに「湯川理論ができたときは、してやられたな、という感情をおさえることができなかったし、その成功に一種の羨望の念を禁じ得なかった」と述懐
  • 講義においても1つの数式を板書すると、次の行は必ず学生全員が理解できる書き方をしたという。その点、思考が次々に飛躍して学生たちにはちんぷんかんぷんだった湯川の講義とは対照的だった。
  • 物理学の歩みを総覧する『物理学とは何だろうか』の執筆に精魂を傾けた。彼がこの本で述べた「物理学の定義」は、私にとっての揺るぎない軸になっている。曰く物理学とは「われわれをとりかこむ自然界に生起するもろもろの現象――ただし主として無生物にかんするもの――の奥に存在する法則を、観察事実に拠 りどころを求めつつ追求すること 」
  • 朝永は「科学と科学者」と題した講演の中で、科学を進展させる本質は損得勘定ではなく、人間に内在する「知的好奇心を満足させること」であり、そのやむにやまれぬ要求は「人間の自由な精神活動にその根をもつ」と述べている。

  • まず朝永先生は、仁科芳雄博士の目に留まって東京の理化学研究所へ研究室を移すことになる。その後、湯川先生は、大阪大学の菊池正士博士のところの講師として就職した。しかし湯川先生はその後、四年たっても論文を書こうともしないので、当時の八木理学部長は「朝永君を採っておけばよかった」と聞こえよがしに小言をいったという。またずっとあとのことだが、仁科芳雄博士は湯川先生のノーベル賞受賞のニュースを聞いて「湯川君を採っておけばよかった」と朝永先生に聞こえるように嫌味を言ったという。こうしたことは、いやが上にもお二人の対抗意識を駆り立てたことと思われる。(中村誠太郎、『湯川秀樹朝永振一郎』、読売新聞社、pp.45-46)
  • 1937年にニールス・ボーアが来日したとき、中間子論を説く湯川にボーアは「君は、新粒子が好きなのか」と苦々しく言ったという。また、同じ頃に中間子論を思い付いたエルンスト・シュテュッケルベルク(Ernst Stückelberg、1905~1984年)という学生に対してヴォルフガング・パウリは「自分勝手に新粒子を仮定するべきでない」と、論文を却下したという。
  • シュトゥッケルベルクという理論物理学者がある。時々おもしろいアイディアを出す、すぐれた人であるが、論文は難解で、人柄も大分変わっている。彼はジュネーブ大学の教授をしているが、前述の昨年(1967年:筆者注)七月の国際会議のときに初めてあった。私が「あなたには、もっと早くお目にかかっておるべきはずだった」というと、「もしもパウリが私をやっつけなかったら、私もあなたと同じ頃に、中間子論を提唱していたはずだ」と答えた。(湯川秀樹、『創造の世界:湯川秀樹自選集4』、朝日新聞社、pp.420-421)
  • 朝永振一郎は、湯川がこの着想を自分に語ったときのことを覚えている。1933年、東北大学物理学会があったとき、湯川は運動場の地面に木切れで式を書きながら「強い力の説明はできたが、けったいな粒子が出てくるわ」と話した。その「けったいな粒子」が発見されたのは、それから14年ほど経ってから
  • 朝永は言っている。「『好奇心』は、少なくとも科学という、人間精神の重要な営みに対して、ひとつの大きな原動力になっている」(『好奇心について』)。これを湯川は「自分の内側にわざわざ達成できないような理想を温存しているということですね。理想と現実の矛盾を生きる糧にしている」(『私の生きがい論』)という言い方で表現している。すなわち科学と技術イノベーション推し進める原動力は「その謎を解きたい」「誰もできないと思っていることをできるようにしてみたい」と考える、真理を追い求める取り組みなのである。

デルブリュック「ある法則が限られた範囲でのみ成り立つと言うだけの理由で、物理学者がその法則を軽んじたくなることはないであろう。生物学ではそうではない」

マックス・デルブリュック - Wikipedia

物理学では対象を理想化することが多く、その限定された範囲内で厳密な法則を導こうとする。ところが生物学では、実際に地球上の生物が全て対象であり、理想化された「生物」を想定することはほとんどない。また、遺伝・発生や進化のように多くのシュで共通して見られる減少と、それらを支える遺伝子・タンパク質・細胞などの性質が重要視される。

ファインマン「生物の世界に見られるものは物理化学現象の振る舞いの結果であって、「それ以外の何物か」を伴うものではない。」

物理現象と比べて生物がなにか特別のものに見えるのは、生命現象が物理法則に従わないのではなく、「生命システム」という独特の系を成しているからである。その意味では、超伝導体が通常の物質には見られない性質を持つという事実と何ら変わらない。人間もまた、他の動物には見られない独特の性質を持つのであって、「それ以外の何物か」を伴うものではない。

進化は「連続」とは限らない。・・・人類の進化の系譜は、猿人→原人→旧人→新人という連続的で直列的なものではなかったことは、すでに人類学で明らかにされている。・・・木村資生による「中立説」・・・分子レベルでの進化は種の存続にとって得にも損にもならない中立的な変化が大部分であり、遺伝的な多様性を生む原因となっている。言語の誕生もまた、解くにも損にもならない中立的な変化に過ぎなかったのかもしれない。それが時を経て人間の知性や創造性の源泉になったということもありうる。

アインシュタイン「哲学に対する興味はいつも私にありましたが、副次的なものに過ぎませんでした。自然科学に対する興味は、いつもとりわけ原理的なことに限られていて、それから私のすること為すことが最もよく理解できます。私が発表してきたことがとても少ないのは、その同じ事情と関連しています。というのも、原理的なことの把握に対する渇望のため、結果的にほとんどの時間が虚しい努力に費やされたからです。」

 ファインマン「さて、科学のさらなる発展には、単なる公式以上のものが必要だ。まず、ある観察をして、次に測定した数値を得る。それから、その数値をすべてまとめるような1つの法則を得る。しかし、科学の真の栄光とは、その法則が明白だという考え方を見つけられるということなのだ。」この「法則が明白だという考え方」は、法則のさらに奥深い「真理」であり、・・・「原理」そのものである。

理論にデータを合わせるのではなく、データに理論を合わせるのが科学である。・・・ケプラー・・・「神学においては権威の重みを、哲学においては理性の重みを考慮すべきである。」

科学には、「There is no stupid question」という大原則がある。・・・17世紀に近代科学が誕生するまでの長い間、「ものが運動するのは、その自然な場所を探しているからだ」といった「説明」がなされてきた。現代においても、科学を学んだことがなかったら、そのような感覚的な世界だけで生きていくことになるのである。それはある意味恐ろしいことである。

現代の科学では、「本当に存在する」と主張することが科学的なのではなく、自然現象などによって実証あるいは反証が出来るような「命題」こそが科学的なのである。

アインシュタイン「数学が多くの特殊な部門に分かれており、そのどのひとつも我々に許された時間を奪ってしまう可能性があるということを知った。その結果、わたしは、どちらの干し草の束に向かったら良いのか決めかねているビュリダンのロバの」ような状態に陥った。・・・しかし、物理学の分野では、わたしはすぐに、基本的なものにつながり得るもの、他のすべてのものとは区別しなければならないもの、精神を見出し、本質的なものから逸してしまうものを嗅ぎ分けることを学んだ。」

 寺田寅彦怪我を恐れる人は大工にはなれない。失敗を怖がる人は科学者にはなれない。科学もやはり頭の悪い命知らずの死骸の山の上に築かれた殿堂であり、血の河の畔(ほとり)に咲いた花園である。

 等価原理から、光が重力で曲がることは明らかだった。しかし、その効果はどうしたら実測できるだろうか。強い重力の効果を観測するには、質量が大きいことが望ましい。しかし地上で出来る実験では、質量が限られている。・・・地球の周りにあって質量の大きな天体となると、太陽が一番だ。・・・ほかならぬ太陽が明るすぎて、昼間は星が見えないのだ。どうしたらよいだろうか?答えは皆既日食の観測である。

⇒自然実験アプローチ(社会科学)の自然科学版と解釈可能かなと。

チャンドラセカール

「45年にわたる私の全研究生活の中で、最も強烈な体験は何であったかと申しますと、ニュージーランドの数学者ロイ・カーによって見出されましたアインシュタインの一般相対論方程式の厳密解が、宇宙に散財している数知れぬ重いブラックホールの絶対的に正確な表現を与えてくれるということが分かったときであります。この「美しいものの前でおののき」、数学における日の追求をきっかけとした発見が<自然>の中にその正確な写しを見出すというこの信じられないような事実、こういうことがあるものですから、美とは人間の心がその奥底で、最深部で感応するところのものであると、私は言わざるをえないのです。」

 「自然界のブラックホールは、宇宙にある最も完全な、マクロスコピック(巨視的)無物体である。その構造における要素は、我々の時空という概念のみである。しかも、ブラックホールの記述に対して、一般相対性理論が唯一の一群の解を与えるのだから、ブラックホールは最も単純な物体でもあるのだ。」

量子力学の開拓に貢献したディラックも、物理学が決定論に回帰すると考えていたのは興味深い。「現在の量子力学に従えば、ボーアを首領とする確率解釈が正しい解釈だということになります。とは言うものの、やはりアインシュタインも良い点をついていました。アインシュタインは、彼の表現によれば、善良なる神はサイコロ遊びをしないと信じていました。つまり、彼は基本的に物理学は決定論的な性格を持つべきだと信じていたのです。私は、最終的にはアインシュタインが正しいことになると思います。量子力学の現在の形を最終的な形と考えるべきでないからです。」

 ポランニー「そうした知を保持するのは、発見されるべき何かが必ず存在するという信念に、心底打ち込むということだ。それは、その認識を保持する人間の個性を巻き込んでいるという意味合いにおいて、また、おしなべて孤独な営みであるという意味合いにおいて、個人的な行為である。」

マイケル・ポランニー - Wikipedia

アインシュタイン世界の構造の合理性に寄せる、なんという深い信頼、あくまで納得を求める、なんという憧れ、たとえこの世界に示現されている理性の一つのかすかな閃光にすぎないにしても、この種の感情がケプラーニュートンの体内では脈々と生きていたに違いない。その結果これらの人々は長年に渡る孤独な仕事において天体の力学のメカニズムを解き明かすことができたのである。懐疑的な同時代の人々に取り囲まれながら、地球上のいろいろな地域に渡って散在し歴史上の各世紀を通じて散見される同士の人達に道を指し示してきたこれらの人々の精神状態というものは、科学的研究の大筋をその実用上の成果を通じてのみ知っている人々によっては、全く間違った風に理解されるということになりがちなものである。その生涯を同様な目的に捧げている人だけが、これらの人々を鼓舞し彼らに数限りない失敗にもめげずその目的に終始忠実でありうる力を与えてきたものについての、生き生きとした観念を抱きうるのである。」

「私にとって十分なのは次のような思想である。すなわち、生命の永遠性の神秘と、存在するもののもつ驚くべき構造の意識と予感、さらに自然において自己を顕示している理性の一部―たとえ、極めて微小な部分に過ぎなくともーの理解を目指す献身的努力である。」