やがて哀しき外国語

日本にだって―皆さんもご存じのように―ろくでもない奴は結構いる。百人のアメリカ人と日本人を無差別に抽出して細かく調べてみたら、ろくでもない奴やらえばっている奴やら他人の悪口ばかり言っている奴やらの占める割合は、どちらのグループにおいても大体同じくらいのものではないかと想像する。親切な人やら、面白い人やらの割合だってやはり似たり寄ったりだろう。

NYタイムズを週末だけ取って、毎日トレントン・タイムズを読んでいるなどというのは、ここではかなり不思議な生活態度とみなされる・・姿勢としてコレクトではないのだ。・・要するにバドとかミラーといったようなテレビでバンバン広告を打っているようなビールは、主として労働者階級向けのものであって、大学人、学究の徒というのはもっとクラッシーでインタレクチュアルなビールを飲まなくてはならないのだ―というか飲むことを期待されているのである。

日本では・・情報が咀嚼に先行し、感覚が認識に先行し、批評が創造に先行している。・・これはまったくのところ文化的焼き畑農業である。みんなで寄ってたかって一つの畑を焼き尽くすと次の畑に行く。・・本来なら豊かで自然な創造的な才能を持っているはずの創作者が、時間をかけてゆっくりと自分の創作システムの足元を掘り下げていかなくてはならないはずの人間が、焼かれずに生き残るということだけを念頭に置いて、あるいはただ単に傍目によく映ることだけを考えて活動して生きていかなくてはならない。これを文化的消耗と言わずしていったい何と言えばいいのか。

現実に体を動かしている人たちにひかれる傾向がある。こういう人たちは僕に向かって、「あなたはどうして男の作家たちばかり翻訳しているのか?そこには何か意味があるのか?」というような質問はまずしない。別にそういう質問が無意味だというのではないけれど、僕としてはできることなら、あまりそういう革命法廷的な枝葉末節にこだわらない世界でまっとうに暮らしたいものだと思う。いずれにせよ、掲げる思想の成否はともあれ、何かをかさに着てやたら大声を出してエバッているような人は、-それがたとえ男だろうが女だろうが―基本的に信用できないというのが僕の考え方なのだけれど、いかがでしょう。

プリンストンでご近所だった経済学者カンドリ君の話によると、アメリカの床屋では最初にかわされた話題が恒久的に定着してしまう傾向があるので、・・ヒヨコが生まれて最初に目にしたものを母親だと思い込むのに似ていますね。彼は近所の床屋で最初にたまたまテキーラの話をしてしまったので、それ以来延々と何年もテキーラの飲み方やら、テキーラを使ったカクテルの作り方なんかについて床屋と話し合う羽目になったそうである。・・気の毒なことである。

どちらにもメリットがあり、死角がある。必ずしも、第一印象でものを書くのが浅薄で、長く暮らしてじっくりものを見た人の視点が深く正しいということにはならない。そこに根を下ろしているだけ、かえって見れないというものだってある。どれだけ自分の視点と真剣に、あるいは柔軟にかかわりあえるか、それがこういう文章にとって一番重要な問題であると僕は思う。

僕は29になって、突然小説を書こうと思った。・・ある春の昼下がりに神宮球場にヤクルト=広島戦を見に行ったこと。外野席に寝転んでビールを飲んでいて、ヒルトンが二塁打を打った時に、突然「そうだ、小説を書こう」と思ったこと。・・それはきっかけに過ぎなかったんだね。太陽に光とか、ビールの味とか、二塁打の飛び方とか、いろんな要素がうまくぴったりと合って、それが僕の中の何かを刺激したんだろうね。・・自分というものを確立するための時間であり、経験であったんだ。・・それはごく普通の経験で構わないんだ。

やがて哀しき外国語 (講談社文庫)

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やがて哀しき外国語

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  この本を読んだきっかけは、京大にいるときに、S先生が経済数学の時間にしていた小噺。「村上春樹の本に東大の神取先生が出てくる」的なことを言ってたのでつい、興味が・・・。

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