可変思考

 アメリカ人というのは、きちんと多数決の結論が出るまでは、実に大人げないと思うくらい柔軟性に欠ける面がある。自分の意見を主張しだすと、一歩も譲れないような意気込みだが、最後に結論が決まると俄然柔軟性を見せ始める。・・・ところが日本の教授会だと、自分の主張をはっきり言明するまで、あるいは全体の結論が出るまでは非常に柔軟性が発揮できて、いろいろな可能性とか相手の立場を考慮に入れた流動的な発言をする。しかしその後、投票などで結果が出た後でも、自分の主張をすぐさまひるがえす訳にはいかないらしく、自分の意見に固執して全員が協力体制になるのに時間がかかる。

純粋基礎研究は、問い学ぶという学問が目的で、特に当面のはっきりした生産目的はない。とにかくカビの生態が面白いから、その研究をする、といったようなものだ。これは何人かの非常に優秀な研究者の犠牲的な努力と、経済的な先行投資が必要だが、一面、実に優雅なもので、一種の高度な遊びといえるだろう。遊びだからこそ、研究当初には創造もしなかったペニシリンの発見という素晴らしい成果を生む。もちろん純粋研究から、いつもそんな素晴らしい発見があるとは限らない。むしろ無駄同然で終わる場合が多いだろう。しかし、素晴らしい発明発見は、どんな場合も意外性を持っている。だから意外性を許容するという形での先行投資が必要なのである。

人間とコンピューターとを比べてみて、人間の素晴らしい点は、どんどん覚えてどんどん忘れる、ということだ。本を読んだからといって、いちいち覚えていられるわけがない。これは一種の遊びに通じる。だが、なんにも覚えないことと、覚えてから忘れることとは本質的に違っていて、、大筋は忘れても、それが知恵の広さとして、すなわち、知識を組んであんだ編みのような形で人間の内面に少しずつ蓄積されていくものだ。これが遊びの効用だろう。・・・人間の思考と行動を支える知恵も、おそらくこの(氷山)ように見えない形で蓄積されたもので、いかに浮力(蓄積の量)を大きく持つかということがその人間の大きさになる。

僕が解決した「特異点解消」に関しては、ハーバードで僕がついて勉強していたザルスキーという数学者が十年くらい頑張って、いろいろな解き方を発見していた。僕のこの問題に関する貢献は、彼以前のどの数学者と比較しても抜群のものであった。彼ほど抜群の才能を持ち、抜群の精進をしても、結局はそれ以上、普遍化への発展を生む発想ができなくなっていた。それは開拓者の限界とも言えるもので、自分が何年もかけて作り上げた道具には自ずと愛着がわき、その効用もよく知っているのでむざむざと捨てられないわけだ。(注:いわゆるサンクコストだ)

ヒルベルト空間理論や、無限次元の空間理論などで、解析学の発展に貢献したドイツのヒルベルトという数学者は、これ(ガウス)とは反対に何事もよくもの忘れする人だったという・・・ある時、ヒルベルトに対してある人が質問をすると、「それは実に面白い問題だ」と感激した様子だった。一週間ほどして彼がその人に会うと、「君はこの間、すごく面白い質問をしたが、あれは何だったかね」と訊く。もう一度説明すると、「実におもしろいね」といい、そんなことを二、三べん繰り返して、質問者が、あの人はひょっとして頭が悪いのではないか、と思い始めた頃、「あの問題について、こういう理論が出来たよ」といって、大きな理論を展開してみせた。・・・「君のその理論体系は素晴らしい。だがもっと素晴らしいのは、君が使った最初の定理だ。あの素晴らしい定理を、一体誰が発見したのか」「ヒルベルトさん、あなたですよ」

物事をある目的のために分散しておく、という考え方が、数学の世界でいう「フーリエ変換ということである。フーリエとは、特異成分に分解して分散する解析の理論考えだした数学者の名だ。・・・人間の記憶は、コンピューターと違って、フーリエ変換して頭に入るわけだから、一部が脱落しても、全体の感じが完全に消え去るということはほとんど無い。・・・人間は、意識的には取り出せない部分に埋もれた記憶をたくさん蓄積していて、その余裕や無駄が、人間らしい幅のある判断を生むのである。

 「必要は発明の母である」(Necessity is the mother of invention)とは、あまりにも有名なエジソンの言葉だが・・・このNecessityという言葉は内容的にはNeedsとWantを意味するものだと解釈している。・・・少なくとも僕が知るかぎりでの数学者、物理学者で、その道でとにかく自分なりのものを創りあげている人たちは、必ずと言ってよいほど、自分のウォントで進路を選定し、出発している。・・・ポアンカレが、その著書の中で発明とか発見の発想はキノコのように現れると言っている。・・・創造を育てるには2つの条件が必要だということである。第一の条件は、恵まれた環境の中で自由に伸ばすこと、地表からは見ることが出来ない菌根が、十分成長して力を蓄えるように。このように表面的なテストでは測れないような蓄積を十分持つことが必要であり、更に力を蓄えるだけで終わってしまうのはダメで、第二の条件としては、逆境という要素が必要である。うちに蓄えられたものは逆境に遭遇することによって表面化するエネルギーが生まれ、実績になるというのだ。

 過保護の母親ほど、子供に、失敗や挫折を経験させないようにと願うが、それは、明らかに間違いだ。僕らの仕事で言えば、挫折するということは、この方法が正しいと思って一生懸命に研究を積み重ねてきて、結局それがだめだったと判断を下した時で、僕はそんなことはしょっちゅうやってきた。そういう無駄を重ねているうちに、独自の勘が育ち、その無駄な経験から応用力が生まれてくるのだと考えれば、結局、長い目で見て無駄だとは言い切れない。

 ある数学者Gは、若くて早々とハーバード大学の講師となり、僕が舌を巻くほど頭が良く優秀な男だった。その頃、彼が数十年前からある重要問題を解決したと言って論文を書いた。ところが、当時ジョンズ・ホプキンスの教授だった大家とも言える数学者が、Gの論文を呼んで間違いをこっぴどく指摘し、しかもその教授自身がその問題点を解決して自分の論文として発表してしまった。学問に対する厳しさでは抜群の教授だったといえる。若い数学者Gはものすごいショックを受け、それから十数年間は全く仕事ができない状態になって、その後も自分のアイデアがあっても、共著者がいないと論文が書けないという状態が続いた。だから、失敗や挫折というマイナスを、プラスに変えるのには、性格的にも強いところが必要であって、それがないと、厳しい学問の世界では失敗に負けて自滅する。これもやはり、人間の幅と、余裕に帰着する問題である。

 自分はこう信じるので行動するが、間違っていたら大いに叩いてくれ、というのが幸ある人間の本当の姿だろう。これが意外と大きな可能性を生み出す態度だと思う。失敗から出発して、新しいクリエイションを生み出すかもしれない。

 直接役に立たないことに意味がある・・・小澤征爾さんが、ある指揮者志望の若者の質問に唖然としたことがあると話していた。「その若い人は、立派な指揮者になるためにはどんなふうにしたら一番無駄なく、早くなれるでしょうか、と訊きに来た」というわけだ。こんな質問には彼は笑って相手にしないようだ。・・・彼の素晴らしい点は、一見、無意味なことをプラスに変えてなにか楽しむことを見出す才能を持ち合わせていることだ。

 人間は、あまりにも目先の目的のためだけに勉強したり努力したりしていて、その目的がだめとなるといっぺんに潰れてしまう場合が少なくない。一方、あまりはっきりした目的を決めているわけではないが、その過程を楽しみ、過程自体に意味を見出して努力しているとすれば、それは半永久的に続くだろう。受験生があれだけ勉強するのは、受験という目的があるからだという意見があるが、目先の目標でもないと、全然勉強できない若者については、そうかもしれない。しかし、そういうショートレンジの目的なんかなくても勉強が楽しいという人は、優れた人間だと言えるだろう。・・・お金をかけて作った元の大型機械は無用の長物となったのに比べて、頭のなかで作ったブール代数の方は、非常に役に立ってきた。そういうロングレンジで見た場合、抽象的で実際の役に立ちそうにもないものが、後にたいへん役に立つこともあるわけで、目先の目的に合わせた研究ばかりからは期待できない大きな成果を上げることがある。

優秀な数学者は、外国人、日本人にかかわらず、他人の仕事にも関心が深く、よく勉強しているし、真似るべきものはどんどん真似る。・・・他人の仕事を学んで自分なりに作り直せるくらいまで技術の力が進歩すればしめたものだ。

直接、教室では使わないものをたくさん持っていること、背後の教養に支えられた豊かな判断力に基づく的確でユニークな視点を持っていることこそが、 理想的な先生だと僕は思う。・・・数学の教材を教えるだけということはそんなに難しいことではないが、数学の思想にまで及んで語るということは非常に勇気のいることだし、ある意味で責任も感じなくてはならない。技術的な面は論理で片付くから、自分が責任を持つ必要がない。論理だけ教えるのは実に容易いことだ。思想を説くと、そんな考え方はおかしいと言って叩かれる材料にもなりかねない。・・・どんなレベルのクリエイションにしろ、とにかくクリエイションをすることには、知識や技術の他に、もう一つ、勇気というものが必要である。場合によっては賭けとも言える。だめかもしれないし、大当たりかもしれない。

自信というものは、一つは失敗を経験し、その結果、失敗してもまた立ち直れるのだということを知ること、もう一つは成功を経験し、自分もやれば出来るのだという可能性を発見すること、この積み重ねから、自然に生まれてくる。

 自分の中に原点のないことは、ものすごく不安なことだと思う。子供が自分の原点を見つけるのは、

  1. 少々のリスクを恐れず自分を試してみること。
  2. 自分にあった、生きたモデルを発見すること
  3. 自分とは異質と思われる人に接して、対照的に自分を発見すること

 学校を卒業して実社会へ出た者が、それから研究者になるにしても、商売を始めるにしても、学校で習ったことというのは、それほど役に立たない、という事実は周知のことだと思う。学者になる場合も同じで、本職としての道を歩き始めてから、必要に迫られて学んだことしか、ほとんど直接の役には立っていない。・・・学校時代に学んだことは、実際に役立つということより、本職になってから学ぶことの準備とか、心構えの上で役に立つ、というのが、最大の効用である。僕が学校の数学で何を学んだかといえば、数学と聞いて頭から怯えるということがないという、つまり度胸を学んだと言える。・・・学力というのは学んで身につけた知識のことではなく、将来役立つ学力とは学び取る力であって、それを養うことに意義がある。新しい問題が起こり、それ手について必要な知識を学ぶ必要が生じた時に、いかに早く正確に学び取って応用できるか、という能力が、本当の学力と言えるだろう。

確実に伸びる人間の決定的な特徴というのは、今、自分にはに何がわかっていて、何がわかっていないか、を分かっているということ。・・・本当にわかっていない、ということを見ぬくのに手間が掛かるし、中途半端に分かっていることを本格的に分からせるための修正というのは、白紙から出発するよりも大変なことなのだ。

先生自身が、教えることをもっとしっかり把握して、何が大切で、何がそれほどでもないかという選択眼を持つこと。教科書に書いてあることは、全部同じように大切だ、と考えるような先生は、その学科に対する考え方は、まだ幼稚だと言っても、過言ではない。

可変思考 (光文社文庫)

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