なぜ経済予測は間違えるのか

 ポール・クルーグマンは、2009年の講演で、過去30年のマクロ経済学の大部分は、控えめに言ってもとんだ役立たず、悪く言うと明瞭に有害だったと言っている。ロバート・ソローは、2008年、マクロ経済学はデータに厳密な注意をほとんど払っていないことが顕著で・・・このモデルの経験的な実績には穏やかな懐疑でも乗り越えられそうなものは何もない。もっと確かなことは、重大な政策分析について、こうしたモデルに依拠する正当な根拠は何も無いことだ。という見解を述べた。

マイロン・ショールズが言う所では、何かが失敗しているというには、それに代わるものがなければならず、今のところ効率的市場に代わる新たなパラダイムはない

スティーブ・キーンは、非正統派のエコノミストなら誰でも知っているとおり、合理的行動、常に均衡にある市場・・・など、経済学の前提が一式揃っていないと、主流の学術誌に論文を受理してもらうのはほぼ不可能だ。

数理モデルは経済をシュミレートし理解する役に立つ道具だが、その進み方を正確に予言したり、リスクを捉え切ったりすることはできない。著述家でデリバティブのトレーダーでもあるパブロ・トリアナの言葉を引くと、現実はもっと獰猛で御しがたいものだ。ランダムさは乱暴なだけではない。野蛮で閉じ込められず、嫌になるほど馴らせない。それを征服し、制御し、解読する方程式はない。何かが起こりうるなら、それに数学で制約を課すことはできない。あるいは科学史家のイヴリン・フォックス・ケラーの言う所では、自然はロゴスでまとめきれるものではない。それはどこまでも根本的二重性にとらわれている。ある点では理性と秩序の光に従うとしても、非理性と無秩序の闇の力にまみれてもいる。

ヴィルフレド・パレートは科学の部門が増え、天文学が物理学や化学から別れ、自然科学が社会科学と別れるのは、人間の精神が不完全だからに過ぎない。本質的には科学は一つである。その一つとは真理に他ならない。

2001年、ハーヴァードの学生が、大学で働く最も賃金の低い職員の賃金を時給10.25ドルにすることを求めて座り込みをした。・・マンキューは学生は善意でやっているのだろうが、その主張には賛成できない。どこかの期間が心だけでなく頭でも考えるべきだとすれば、その期間は大学だ、と書いた。・・最低賃金は、需要と供給の道具を使えばすぐにわかる。技能や経験が低い水準の労働者について最低賃金を高くすると、その賃金は需要と供給が均衡するレベルを超える。

経済学は「ぼやけた(ファジー)」現実と明瞭に定義された解析的数取の間のピュタゴラス的類比に基づいているという。しかし、経済学には単純だが間違ったモデルを採用するという長い歴史がある。・・代わりとなる指標が、ぼやけて曖昧な、多次元的なものであるとすれば、それは現実もそうだからだ。  

なぜ経済予測は間違えるのか?---科学で問い直す経済学

なぜ経済予測は間違えるのか?---科学で問い直す経済学