勝間式食事ハック

  • 自分が食べている量の割に痩せない、あるいは太っていくと感じている人は、間違いなく加工食品あるいは非常に糖質や脂質が多い外食の虜になっているはずです。
  • さらに問題なのが 低脂肪や、低糖を謳った加工食品は、実際にはさほどヘルシーではないということです。これらは全てカラクリがありまして、低脂肪の場合は砂糖を増やして、低糖の場合は脂肪を増やしておいしくしたりして、味をごまかしています。まあ、それには理由があって、そうしないと消費者がおいしいと思わないので売れないのです。

 

  • プラントベース・ホールフードには、「プラントベース」「ホールフード」の2つの意味が含まれています。
  • プラントベースとは、食べるものは植物性食品を中心にするという意味です。・・・動物性食品の中に含まれる脂肪、すなわち、飽和脂肪酸が様々な病気の元になるからです。
  • 飽和脂肪酸の問題点は、常温で固体になっていることです。それに私たちは古来、飢餓防止のため、カロリーが高いものが大好きで、脂肪を心の底からおいしいと脳が感じてしまうため、脂肪が手に入るとそれを際限なく食べようとします。
  • ホールフードという概念は何かというと、「むやみやたらに食品を生成や抽出、すなわち、過度な加工をしない」という考え方です。

 

  • やりたいことは何かというと、例えばキャノーラ油や大豆油のように、食物から分離された油を積極的に摂らないということです。油を摂りたければ大豆を食べたり、ゴマを食べたりすればいいのです。
  • 砂糖も同様で、さとうきびから分離されていますから、野菜やお米がもともと持っている甘味を上手に引き出してやって、わざわざ砂糖を加えないのです。野菜や芋類

 

  • 適切に食材を調達する技術
  • 適切に食材を加工する技術

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  • それでは肉の代わりに何を食べればいいのでしょうか?答えは簡単でして、植物
    性食品をしっかり摂っていれば実はその中にタンパク質が結構含まれているので、玄米や全粒粉、青菜やキノコ、豆類などを食べていればタンパク質の量は十分です。
  • もし心配なら、ビタミン群のうち唯一、植物性食品ではなかなか摂りづらいビタミンB12サプリメントを2週間に1粒程度飲めば、不足分は解決できます。

 

  • 私たちが肥満に悩む理由もとても単純でして、カロリーが高くて量が少ない食べ物をお腹いっぱい食べたら必然的に過食になるからです。
  • 加工食品でない植物性の生鮮品、例えば野菜や、豆や、キノコや果物をお腹が膨れるほど食べたとしても大したカロリーにはなりません。
  • 私たちが太ってしまう理由は以下の3つです。
  1. 精製した穀物の摂りすぎ
  2. 精製した砂糖の摂りすぎ
  3. 肉を含む油の摂りすぎ
  • よくベジタリアンで不健康そうな人がいますが、それは単純に食べている量が足らなすぎるのです。野菜で十分にタンパク質を補おうと思えば、3食きっちり食べる必要があります。また前にも書きましたが、野菜だけでは足りないので穀物もしっかり摂りましょう。

 

  • スチームコンベクションオーブンの特徴は、人がそばに張りついていなくても、大量の食材を適温で調理できるということです。
  • このオープンは、効率的にたくさんの料理を均一に仕上げられるため、ホテルやレストラン、学校給食などでは欠かせない調理器となっています。そして、かつてコンピューターが企業などの独占になっていましたが、それがパソコンになったのと同様に、同じ機能で小型のものが今、家庭用に普及し始めています。業務用だと何十万円も何百万円もするものばかりですが、似た機能の家庭用のものが5~10万円ほどの価格で手に入るようになりました。具体的な機種名としてはヘルシオウォータオーブンが一番有名です。
  • せっかく様々な技術革新があるのですから、情報技術だけではなく調理技術も恩恵を受け、私たちのお財布の許す範囲で、徹底的にその技術の進歩を使った調理器具を使いこなすことをお勧めします。
  • 調理というとなぜか手作りを重んじる傾向がありますが、正直私は手作りというものは信じていません。「ばらつきが多いこと」の代名詞だからです。
  • もちろん人間国宝のようなクラスの人や三ツ星レストランのシェフが、自分の経験と勘に基づいて状況判断をしながら、様々なアレンジメントを加えることについては全く反対しません。しかし、しょせん私たち素人が手作りをするのであれば、機械に作ってもらったほうがよほど正確です。
  • 私がオール電化でもIHレンジ台はあまり好きではないのは、明らかにそれはガス代の劣化コピーだからです。ガスであれば遠火の強火など、火加減ができますが、IHレンジですと、そもそも鍋やフライパンそのものを振動させて発熱をさせていますから、使い勝手が非常に悪いのです。
  • もし電気を使いたいのであれば、IH式でもヒーター式でも構いませんが、いずれ
    にしても閉鎖式で温度管理まで一体化しているものでないと、私は意味がないと思っています。
  • ほとんどの食材には熱を加える必要がありますが、熱の加え方として、
  1. 伝導熱
  2. 輻射熱
  3. 対流熱
  • などの方法があります。それぞれの調理器具はどのような熱の伝え方をしているのかということを考えると、食材に一番合った加熱方法を取ることができます。
  • 伝導熱というのはフライパンなどを通じて食材に直接熱が伝わる方法です。食の調理方法では、私は伝導熱は全くお勧めしていません。時間がかかる上にムラがあり、食材をまずくする方法のひとつだと思っています。
  • 伝導熱の最大の難点は、フライパンなどの鉄に直接触れる部分しか加熱されないことです。だからこそ人間がなんらかのかたちで、菜箸やターナーでかき混ぜないけないのです。しかも温度にばらつきがありますし、食材もいじりすぎなので、これでおいしい食事を作るのは至難の技です。
  • 輻射熱の代表はオーブンやグリルです。空気を温めて、その温かい空気が食材を囲むことで調理が行われます。輻射熱の料理の問題は何かというと、空気で温めるので、「食材が酸化しやすくなる」ということです。食材が酸化をするということは、錆びるということですから、基本的にはあまりおいしくなりません。オープンでおいしいのは、中の蒸されている部分であって表面の乾いた部分ではありません。表面に焦げ目ができるとおいしく感じる人も多いと思いますが、これは「メイラード反応」と言って、体に良くない老化物質であるAGE(終末糖化産物)ができあがっている証拠ですから、あまり好ましくありません。
  • 輻射熱で作ったものは酸化が進むので、それで温め直すと大しておいしくないのです。正直、伝導熱で作ったものも、輻射熱で作ったものも、できあがった直後はおいしいのですが、冷めるとおいしくなくなるのはそういう理由です。
  • ではどうするかというと私の食事ハックのお勧めは、「対流熱」を中心に調理を行うことです。滞留熱は主に水または水蒸気を使います。つまり水で煮るか、水蒸気で蒸すということです。
  • 蒸しを使う利点は、食品が酸化しづらく、水分が残り、AGEができにくいということです。しかも茹でたり焼いたりするよりも加熱が均一になり時間も早いのです。
  • 自宅のタオルをいちいちクリーニング屋さんに持って行く人はほとんどいないと思います。なぜかというと全自動洗濯機で自宅で洗ったほうがよほど簡単で早くて安いからです。全く同じような環境を自炊でも整えればいいだけなのです。洗濯乾燥機なら買えるけれども、自炊に対する器具を揃えないというのは頻度からいうと本末転倒です。なぜなら洗濯の回数よりも炊事の回数のほうが多いからです。
  • 私たちが食事を工業製品にしてしまったことで失われた最も大きなものは、「食物繊維と微量栄養素」でした。
  • いわゆるカロリーと、三大栄養素と言われているような、糖質、タンパク質、脂肪に関しては加工食品で十分取れるものの、食物繊維やビタミン、ミネラルが失われてしまいました。
  • なぜプロの料理が美味しくて、アマチュアの料理はばらつきが大きいかと言うと、加熱の部分が安定しないからです。
 
  • ビストロとヘルシオの大きな違いがわかりました。それは何かというと、「ビストロのような一般的なオーブンレンジは空気で調理をするが、ヘルシオのようなウォーターオーブンは水蒸気で調理をするので、食品が空気に触れづらく、酸化がしづらいため、よりおいしい」ということなのです。
 
  • 糖質制限については近年、一時期よりも旗色が悪くなってきています。糖質制限をすると確かに一時的にメタボ体型からすっきりするのですが、だからといって長生きはしないのです。
  • 結局動物性タンパク質や脂肪に頼った食生活になるため、コレステロールの量が多くなり、心臓や腎臓にも負担がかかります。
  • 際限なく砂糖やポテトチップを食べるぐらいであれば肉を食べたほうがまだマシということなのですが、初めからしっかりと野菜や玄米、全粒粉を食べることができれば、肥満とは無縁ですし、血糖値が上がることもありません。
天然酵母の全粒粉パン
  • パンの歴史を繙くと、イーストが出てきたのはつい最近であって、もともとは各地の天然酵母で小麦を発酵させて膨らませるのが基本でした。パンを発酵させる最大の目的は小麦の中に入っている栄養を引き出すためであって、膨らませるためではないのです。
  • なぜ今、天然酵母の茶色いパンがほぼ絶滅してしまったかというと、天然酵母を起こすのに24時間、発酵から焼き上がるまで7時間半かかるからですね。

 

なぜ揚げ物はおいしく感じるのか?
  • 高カロリーの加熱手法の最たるもののひとつに「油で揚げる」があります。私たちが満腹になるか否かはカロリーではなく、胃にどのくらいの食べ物が入ったかによって決まります。ある意味、質ではなく量なのです。
  • とにかく私たちはついついカロリーばかりに目が向いてしまいますが、一定の量、例えば1食当たり500~600グラムを食べるということを前提として、その中でどれだけ的確な栄養素を摂るのかということに着目すると、高カロリーで栄養が少ないものには手が伸びにくくなると思います。ではなぜ油で揚げたものはおいしいのでしょうか?答えは簡単で、「余計な空気に触れて酸化をしたり、あるいは水に茹でられてその旨味成分が水の中に逃げたりしていないから、味が凝縮している」
  • そうならば予め別の方法を使って、「旨味を閉じ込めたまま加熱をできないか」と考えたほうが早いです。つまり、茹でたりする場合、水の中に旨味を逃さずに、かつ油で揚げるような形で余計なカロリーを摂らない加熱方法を考えればいいのです。
  • ホットクックやヘルシオのウォーターオープンは水蒸気を使って旨味を閉じ込めたまよの調理を実現します。「水蒸気を使う」というと、どうしても減塩のイメージが強いのですが、実際には減塩よりは素材の旨味を逃さない加熱方法と考えたほうがわかりやすいと思います。
  • 同じようなコンセプトの調理器具はホットクックだけではなく、バーミキュラやストウブ、ル・クルーゼなどもあります。
  • ただバーミキュラやストウブ、ル・クルーゼなどは、ガスやIH台で使うのが基本
    なので火加減を自分で厳密にコントロールするのが大変なのです。またこうした無水や真空に近い状態にする鍋は、構造がしっかりしているため重いので、一度しまいこんでしまいますと次に使うときに出すのがなかなか大変です。
  • なぜ、これまで油で揚げるという方法が多かったかというと、それが、
  1. 大量に一度に調理ができる
  2. 複雑な調理器具を必要としない
  • というメリットがあったからです。
  • ホットクックは外壁で含めるととても大きくて、それだけ大きいものを用意して
    ようやく2.4リットルだけ鍋が使えるわけです。このような構造のものを業務用に
    全部用意をしたら大変です。
  • つまり玄米や全粒粉のパンなど、業務用では調理に時間がかかりすぎて実現できないような贅沢を自宅でできるようにしたり、油で揚げるといったような簡便な調理方法でなく、高級レストランでしか使えないような水蒸気を使うようにしたりと、贅沢な調理方法を可能にするのが自炊のメリットなのです。
  • そういう意味では、「無水または真空で作った料理はだいたいおいしい」と覚えておけば、加熱の仕方はバッチリです。
  • 皆さんは前に質問した通り、揚げ物がおいしいのは知っていますよね?それが低カロリーで同じぐらいか、もっと美味しかったら何の問題もないと思いませんか?
  • とにかくホットクックを使っても、ヘルシオウォーターオーブンを使ってもいいのですが、水蒸気で蒸すか、食材の水分で蒸し焼きにするという手法を使ってしまえば、誰でも料理の達人です。
 
  • 「体にいい塩は、海水と同じミネラル分の割合を持つ塩で、ナトリウム77.9%、塩化マグネシウム9.6%、硫酸マグネシウム6.1%、硫酸カルシウム4%の構成比で成り立っているが、工業的に作られた精製塩は、成分でいえば99.9%以上が塩化ナトリウムで、ミネラルバランスのいい塩を選ぶべき」
  • つまり、私たちが普段塩だと思ってるのは塩化ナトリウムであって、塩ではないのです。塩というのは塩化ナトリウムだけではなく、マグネシウムやカルシウムを含んでなければ塩とは言えません。そして、塩化ナトリウムばかり食べるから、減塩が必要になるという考え方です。
  • 醤油の塩分の含有量はだいたい16%、味噌はだいたい12%です。なので、0.6%という数字を、それぞれの値で割ってあげれば、食材などの総重量に対して適した醤油や味噌の比率を簡単にもとめることができます。実際に計算してみると、醤油は3.75%、味噌は5%になります。
  • つまり野菜が蒸し上がり、そこに味付けをしたいと思ったら、その野菜の重量に対して、塩だったら0.6%、醤油だったら3.75 %、味噌だったら5%を加えて和え
    ればできあがりです。
  • 水を使って煮物を作るときも同じで、水と入れた野菜や豆などの総量に対して、
    油だったら3.75 %、味噌だったら5%を加えてください。
  • 私の知り合いのミシュランで三ッ星のお寿司屋さんは米の水分量も調味料も、
    全て測るそうです。三ツ星のお寿司屋さんが測っているのに、私たち素人が測ら
    ずにうまくいくわけがありません。
 
  • もし丸ごと食べるのであれば、スムージーでいいのではないかという発想があります。単純な野菜ジュースや果物ジュースを飲むよりは、よほどスムージーのほうが私もマシだと思います。
  • しかし、スムージーの難点は何かというと、自分の口で噛み砕いていないので、まず唾液の中に入っているアミラーゼと食物がうまく混ざり合わないことと、口で食べるよりも大量の野菜や果物を摂りすぎてしまうため、食物繊維、特に不溶性の食物繊維が体に入りすぎて大腸に負担をかけてしまうのです。
  • 口で噛み砕いて食べることは「食べすぎ」のストッパーにもなります。満腹感が得られますし、適量でちゃんととまるのです。

yamanatan.hatenablog.com

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世界の一流企業は「ゲーム理論」で決めている――ビジネスパーソンのための戦略思考の教科書

  • コンサルティング会社マッキンゼーが1800人以上のビジネスリーダーを対象に行った調査では、重要な事業判断を下す際に2つ以上の選択肢を検討するリーダーはほぼ半数であることがわかった。競争相手の反応まで事前に検討するリーダーとなれば、さらに少ない。ゲーム理論をもっと有意義に取り入れていれば、それは当然、組織に優位性をもたらすはずだ。第2に、ゲーム理論は行動を起こすための洞察力をもたらす。私たちの周囲ではさまざまなゲームが繰り広げられているーその多くは私たち自身にはほぼ制御不能だが、ゲーム理論を通じて概要を把握していれば、他者を出し抜いて、その先の展開を理解・予測できる。戦略コンサルティング会社のリーディングカンパニー、モニター社の企業金融部門名誉会長トム・コープランドが指摘している。
  • 「寡占状態が赤字になりやすい理由も、生産能力過剰と供給過剰のサイクルも、最適な選択肢が現れる前に現実的な選択肢に走る傾向も、ゲーム理論で説明がつく」
  • 第3に、これがもっとも重要な点なのだが、ゲーム理論には組織文化を変容させる力がある。組織はゲームの「プレイヤー」となるだけでなく、組織自体が、そこでさまざまなゲームが展開される「ゲーム盤」でもあるのだ。部署間、部下・上司間、オーナーと経営陣、さらには株主や債権者においてもゲームが生じる。全員がともに伸びていける文化と構造を、その組織のリーダーがつくり出しているのなら、ゲーム理論はビジネスのポテンシャルを最大限に開花させる後押しになる。
  • もっと生産的なゲームをしていくために、企業はこれまでと異なるタイプのゲームプレイヤー(「柔軟で、知的厳密性を備え、不確実性に正面から対峙できる人材)を採用・育成し、さらには戦略策定プロセスに対する全員の有意な貢献を促す
    (「オープンで率直であると同時に、偏りのない徹底的な議論の追求を通じて、
    変動要素のすべてを真摯かつ政治的圧力なしに検証できる文化」をつくることによって)必要があるのだ。しかも、ゲーム理論が役立つのはビジネス戦略の策定においてだけではない。経営陣にゲーム認識力があれば、従業員の士気向上から、買い手やサプライヤーとの関係性構築まで、あらゆる面で変容を促していくことが可能となる。
  • ゲーム認識力がビジネスにどれだけの功績をもたらすか。そのポテンシャルをもっとも明白に示した人物といえば、おそらく、ゼネラルモーターズ(GM)の伝説的リーダーであったアルフレッド・スローンをおいてほかにいないだろう。現代のマネジメントの頂点にある者の中でも、スローンはゲーム認識力の使い手の鑑と言っていい。
  • 本人の筆による名著『GMとともに』にありありと浮かび上がっているとおり、
    自動車市場のゲームに対する彼の鋭い理解は、GMのみならず業界全体を大きく変容させた。たとえばスローンは、消費者における流行と憧れという要素の重要性を認識し、毎年新しいデザインの車種を発売して中古車から新車への乗り換えを奨励している。同様に、ディーラーにとって何がインセンティブとなるかを理解し、それまでの戦略の詰めの甘さを把握して、自動車メーカーとして初めて売れ残り在庫を買い戻す制度を導入した。統合型会計システムを採用したのもGMがバイオニア的存在だ。
  • 何より重要な点として、スローンは、部下同士の競争というゲームを理解していた。各部署のマネジャーには、自分の管轄の利益だけを追求したいインセンティブがある。スローンはこの競争心というゲームのゲームチェンジを図り、現代企業に見合った新たな組織構造を考案して、部署同士に同盟を組ませた。これはアメリカのビジネスに、今日にも継続する絶大な影響を与えている。

 

  • 成功するビジネス戦略とは、単に見つけたゲームをプレイすることではない。プレイするゲームを主体的に形成していくことだ。ブランデンバーガー・ネイルバフ
  • ゲーム理論が最大の威力を発揮するのは、展開されているゲームを認識し、有利なゲームチェンジの方法を考えていくところにある。本書では、そこまで踏み込んで読者にゲーム理論を紹介するとともに、読者自身がゲームチェンジャーとなるための道を示したい。ビジネスでもプライベートでも、参戦するゲームを自分が主体的に形成していくことで、戦う前に勝利できるようにしたいのだ。

「未来の自分」との戦いをいかに制するか?ーダイエットの本当の敵

  • 敵ではなく、仇でもなく、おのれのやましい心が人を破滅させる。仏陀
  • 私を帆柱の中ほどに縛りつけろ。まっすぐに縛れ。私が逃げ出せないようにしっかりと。私がほどけと懇願したら、なおさらきつく縛れ。ホメロスオデュッセイア
  • 科学雑誌『アペタイト』が先日、パソコン作業中のチョコレート消費量に関する研究を掲載した。被験者の前には、チョコレートを盛ったボウルがでんと置かれる。被験者はパソコン作業の合間に好きなだけチョコレートをつまんでも構わない。ただし作業に入る前に、まず15分きびきびとウォーキングをするか、あるいは15分じっと座って考えごとをするか、どちらかのタスクをこなさなければならない。運動すればカロリーを消費するのはもちろんだが、それ以前に、運動は一般的に美徳とされる行為だ。ウォーキングをした被験者のほうが自分にちょっとしたご褒美を許し、余分にチョコレートをつまむと考えるのが自然である。ところが結果は反対だった。運動をした被験者のチョコレート消費量は平均15.6グラム、静かに考えごとをした被験者のチョコレート消費量は28.8グラム。運動をしたほうが食べる量は少なかったのだ。
  • なぜこうなるのか。先行する理論によれば、運動は脳内の化学物質の組み合わせに影響を与え、食欲を抑制して、チョコレートのような嗜好品への渇望を抑える。そう考えてみると、運動を選ぶというのは「未来の自分」とのゲームだ。運動をすることによって、チョコレートを食べたがる未来の自分の欲望を変えてしまうのである。
  • たとえば私の場合、ランニングの時間がとれるのは基本的に朝しかない。そしてスナック菓子をつまむチャンスは主に午後にやってくる。「朝のデービッド(私)」は別に走りたくなどないのだが、走っておくことによって「午後のデービッド」が頻繁につまみ食いをするのを防ぐというわけだ。ランニングをしたあとはスナック菓子をそれほど食べたがらないのであれば、つまみ食い問題は解決である。「走らなければ午後のデービッドがつまみ食いをする」と先読みして、「朝のデービッド」はランニングシューズに足を入れる。
  • 「未来の自分」が減量の努力をするようなインセンティブを、どうやって与えればいいだろうか。
  • 経済学者イアン・エアーズとバリー・ネイルバフは、2006年に『フォーブス』誌に掲載された論文で、この問題を奇抜な方法で解決する新ビジネスを提案している。その名も「減量債券」。ダイエットをしたい人は1000ドルを払って、エアーズとネイルバフから減量債券を買う。すると、あらかじめ設定した目標体重を維持している限り、一般的な相場を上回る率で配当が得られる。体重が増えるのは購入者側の不履行であり、これをするとエアーズとネイルバフの儲けが増える。
    ダイエットをしたい人にとっては、減量と維持のインセンティブが大きいので、これが助けになるというわけだ。減量債券は、「現在の自分」から「未来の自分」へ、ダイエット継続のインセンティブを与える手段だ。

コミットミントと「先行者になること」との関係

  • コミットメントは、相手の選択に影響を与えられるタイミングでなければ(そして、相手がはっきりとそのコミットメントを認識できなければ効果がない。ゆえに、コミットするなら「先行者」となる、つまり相手が決定する前にコミットしてみせる必要がある。・・・戦略的見地から先行者となることの真の意味・・・

エアビーアンドビーを独り勝ちさせたマーケットの欠陥

  • 個人または法人が所有する別荘や住宅を貸しに出し、個人がそれを予約して宿泊する「バケーション・レンタル・バイ・オーナー(VRBO)という制度がある。このVRBO仲介で市場を大きく押さえているのが、ホームアウェイという企業だ。ホームアウェイ・ドットコム、VRBOドットコム、バケーションレンタルズ・ドットコム、ベッド・アンド・ブレックファースト・ドットコムといった人気サイトを多く運営し、「(全体で)紹介している宿泊先は32.5万軒以上」と謳っている。これほど多くの選択肢があるのだから、すべての出品内容の正確性を把握するのは困難だ。当然と言えば当然ながら、貸し出す住宅について一部のオーナーが虚偽の記載をして、それが審査をすり抜けて掲載されてしまう場合がある。これを表現する「SNAD(significantly not as described 説明と著しく違う)」という用語まで生まれている。
  • viven25というハンドルネームでホームアウェイ・ドットコムを利用するユーザーが、ウェブサイトのコミュニティ掲示板で、SNADに遭遇した体験を萼ている。「書いてあったことは、何もかも、ひどい誇張でした。家からビーチまでは徒歩圏内ではなく(車でも、早くて15分)、大型のシチュー鍋もなく(14人で泊まれると書いてあったのに)、食器洗浄機は壊れているというありさま。まだまだ挙げだしたらきりがないです」
  • とはいえ、少なくともこのユーザーの場合は、泊まる場所が存在していた。消費者の権利を主張する活動家クリストファー·エリオットは、2011年11月に投稿したブログ記事「バケレン詐欺問題の深刻化」で、さらに不幸な目に遭ったタニア・リーベンという、ユーザーの話を紹介している。リーベンはVRBOドットコムを通じて、マウイのコンドミニアムを6週間借りる契約を交わし、オーナーに4,300ドルを送金した。ところが、オーナーのアカウントはハッキングされていて、代金は詐欺の犯人に奪われてしまったのだ。なお悪いことに、コンドミニアムのオーナーもVRBOドットコムも彼女の損失に対して何も責任を負わず、失ったお金、そして休暇も、戻ってはこなかった。
  • ゲーム理論の見地から言えば、これは「手番のタイミング」に問題がある。借り手は、宿泊先が説明どおりかどうか確認する前に、代金を払って予約しなければならない。そのため悪質なオーナーには虚偽の商品を出品するインセンティブがある。幸い、その後登場したエアビーアンドビードットコムというサイトは、抜本的に新しいビジネスモデルで、この問題を解決している。エアビーアンドビーのアプローチでは、支払い義務が発生するのは宿泊開始から24時間後。借り手(エアビーアンドビーではゲスト」と呼ぶ)は家の様子を確かめられるので、虚偽だった場合は支払いをしなくてよい。貸し手(「ホスト」)側はこれを予期して正確に説明しようというインセンティブを抱くし、アカウントをハッキングして詐欺を働いても利益が得られないことになる。
  • こうしたシステムなら、全員が勝者だ。借り手は詐欺やSNADの心配をする必要がない。唯一敗者となる可能性があるのはホームアウェイである。ホームアウェイのシステムではこれと同等の信用性を構築できないので、エアビーアンドビーのモデルが広がれば市場を奪われる可能性が高い。創業まもないエアビーアンドビーに2011年7月の時点で1億ドルの評価額がついたのも、そういう理由なのだろう。ホームアウェイCEOのブライアン・シャープルズは、『ウォールストリート・ジャーナル』紙の取材に対し、心配はしていないと語った(「向こうもなかなかいいサービスだが、うちほどではない」)が、それはおそらく悠長すぎる。心配したほうがいいし、むしろエアビーアンドビーの仕組みを学習したほうがいい。借り手が「先攻」とならないシステム、つまり宿泊先の品質を確認してから代金を払えるシステムをつくるべきだろう。

 

  • 警察が2人の犯罪者を逮捕した。最大で懲役5年となる犯罪だ。だが、彼らはもっと悪い犯罪(武装強盗など)にも手を染めている可能性が高い。こちらは最大で懲役20年。そこで2人を別々の独房に入れ、こう告げる。
  • 「年貢の納め時だぞ。武装強盗の件も自白しろ。お前ら2人のうち、どっちが自白するか、それによってお前が刑務所で過ごす年数も変わってくる。もしお前だけが自白したら、そのまま無罪放免にしてやろう。警察に協力したということだからな。どっちも黙秘したら、両方とも5年間、臭い飯を食ってもらう。2人とも自白したら10年。お前が黙秘して、あっちだけが自白したら、お前は20年だ」

 

  • 現実世界を悩ませている重大なゲームの多くは、囚人のジレンマだ。ビジネスにおいては、競争それ自体が囚人のジレンマとなりうる。・・・競争のインセンティブを少なくする、あるいは撤廃する、信頼性の高い制度を作るなど、様々な方法でビジネス界はジレンマの解消を図っている。
  • 囚人のジレンマの最も重要な特徴は、このように、解決可能なゲームとして戦略的問題を整理できる点ではないだろうか。実際のところ、ゲーム理論は、囚人のジレンマからの「回避ルート」を5種類も提示している。
  1. 規制
  2. カルテル
  3. 報復
  4. 信頼
  5. 関係性
  • たとえば政治問題は「資本主義か、それとも社会主義か」という視点だけで切り取られることが多いが、ゲーム理論に対する深い理解があれば、個人の自由と責任、そして集合的行動といった要素を正しくとらえた実のある話し合いになるだろう。個人のインセンティブがより大きな公共善と衝突し、それゆえに全員が自己利益を追求すると全員が損をするシチュエーションは、まさにゲーム理論で考察すべき領域だ。

タバコ広告の禁止が招いた「真逆の結末」

  • 20世紀半ばのタバコメーカー各社は、膨れ上がる市場で少しでも多くのシェアを確保するべく、あの手この手を尽くして競いあった。マルボロマンなど、タバコブランドの象徴的キャラクターが誕生したのも、そうした手段の一つだ。
  • だが、喫煙がもたらす健康被害の真実が広く知られるようになってからは、公共保健にかかわる各種団体が、こうした広告の影響を懸念するようになる。広告が一般市民を喫煙習慣に誘い込んでいる、と考えたのだ。1967年には連邦通信委員会(FCC)が、タバコのコマーシャルを放送するテレビ局は喫煙の害を強調した公共広告も流さねばならぬ、と義務づけた。
  • 議会はさらに踏み込んで反応し、1970年に「公衆衛生紙巻きタバコ喫煙法」を制定。タバコのパッケージに警告文(「公衆衛生局長官は、喫煙は有害であると判断しています」)の記載を義務づけるとともに、アメリカのラジオおよびテレビ局で流すタバコ広告のいっさいを禁じた。そのかわりとして、禁煙を訴える公共広告も差し止めたほか、連邦裁判所に起こされる将来のタバコ関連訴訟に対し、タバコメーカーは責任を負わぬものとした。
  • この法律の制定は1つの分水嶺だった。だが、多くのアメリカ人が知らない事実がある。パッケージの警告表示を除き、その他の禁止令は基本的にタバコ業界からの提案で制定されたものだったのだ。もちろん、タバコ会社の幹部には今後の免責付与を望む気持ちがあった。訴訟になれば倒産や廃業の可能性があるし、投獄すらされかねない。だが、なぜわざわざテレビ広告とラジオ広告を禁止させたのだろうか。
  • 第一に、明白な理由としては、政府がこれ以上圧迫的な規制へ向かうのを押しとどめるという意図があった。第二の理由として、広告をあきらめればFCCの禁煙キャンペーンもやめさせられる。『ニューヨーク·タイムズ』紙が1970年の記事で指摘したとおりだ。
  • 「タバコ業界は、コマーシャルがビジネスにもたらす効果よりも、禁煙キャンペーンがビジネスにもたらす害のほうが大きいと理解し、それならば両方を捨てたほうが純益になると判断したのである」

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  • つまり、業界全体の広告を一律に禁止させることが、業界全体にとっての勝利の道だったのだ。
  • 特に「一律に」というのがゲームチェンジのカギだった。広告が禁止されるまで、それぞれのタバコ会社には自社商品の広告を出しつづけるインセンティブがあったのだ。この状況を理解するために、タバコ広告のゲームを定型化してペイオフ·マトリクスに整理している。
  • このゲームにおいては、自社ブランドを宣一伝するのが支配戦略だ。自社ブランドを宣伝すれば、市場シェアを獲得するというメリットがある。そのメリットは、広告を出せばもれなくついてくるFCCの禁煙メッセージによって市場全体が受けるダメージよりも優先される。だが、両社が広告を出しつづけていると、市場シェアを奪いあおうとする双方の試みがほぼ相殺され、FCCの禁煙キャンペーンによって双方が弱体化する。
  • 両社が「広告を出す」という支配戦略を選べば、両社が損を被るのだから、タバコ広告ゲームも囚人のジレンマの一例だ。
  • 広告を出さないほうが「純益になる」という発想を奇異に感じる読者もいるだろう。そこでもう少し掘り下げて考えてみたい。1970年のタバコ広告問題が囚人のジレンマであるとすれば、広告禁止という新しい規制によって、タバコ会社にとっての利得とインセンティブは変化した。ゲームが変わったのだ。もはや「広告を出す」ことは支配戦略にならない。むしろ、各社が法を破って広告を出しつづければ、それは最悪の帰結を招くと考えられる。各社とも「出さない」ほうが好ましい帰結になるというわけだ。しかも、広告を出すことによって生じるコストとリスクが消え、結果的に各社とも利益が増える。実際、まさにこのとおりの展開になった。
  • タバコ広告禁止の経緯は、社会科学者がイベント·スタディとして注目するユニークな事例である(イベント·スタディとは、企業活動に関する何らかの情報の発表が、その企業の市場価値にどのような影響を与えるか分析·研究すること)。タバコ業界が投じた広告費と、業界が得た利益の額を、禁止令施行前と施行直後で比べてみれば、明らかに禁止令が原因で生じた変化だけが見えてくる(より長期的なトレンドは多様な要因が組み合わさつている可能性がある)。経済学教授ジェームズ・L・ハミルトンが1972年に発表した論文「タバコ需要について広告、健康への不安、タバコ広告禁止」によれば、1970年と比べて1971年は「広告費が20-30 %減」。そして「1971年上半期の業界収益は前年同期比で30 %増」だった。
  • 免責を確保したうえに、収益が30 %も伸びたのだ。まさに一挙両得となった理由は、タバコ業界がタバコ広告をめぐる真のゲームを、規制当局よりもよく理解していたからだった。FCCの禁煙推進派は、タバコ広告が人々に喫煙を始めさせていると想定していた。そうでなければ、大手タバコ会社が巨額を投じて毎年広告を打つ理由はないだろう、と。しかし、「ビッグ·タバコ」というのは総称だ。そこには熾烈に戦う個々のタバコ会社がいる。彼らにしてみれば、お互いから既存の喫煙者を奪いあうのが広告の第一目的であって、新たに喫煙を始めさせるという狙いは二の次だった。
  • 規制当局が当初のタバコ会社同士のゲームを真に理解していたら、その囚人のジレンマに彼らを縛りながら業界全体を弱体化させていくことができたはずだ。実際のところ、広告禁止令が出るまで、タバコ業界は自分 たちのビジネスを殺す禁煙キャンペーンを金銭的な面で完全にーしかも「自主的」にー支える格好になっていた。

 

  • 経済学も、人間が非最適行動をするという現実をかねて認め、それを意思決定モデルの一部として取り入れている。政治学者ハーバード·サイモンは、「限定合理性」に関する長期的な研究(その始まりは1940, 50年代にさかのぼる)を評価され、1978年にノーベル経済学賞を受賞した。サイモンの経済学的考察の基盤となっていたのは、人間は直面する選択に対してたいてい限定的な情報しかもたない、という見解だ。そして、その限定性ゆえに、発見的な問題解決法(ヒューリスティクス)、すなわち経験則によって「それで事足りる(グッド·イナフ)」の結果を得ていく傾向がある、という観察である。
  • では、何が「グッド·イナフ」か判断するにはどうしたらいいか。方法の1つは実験していくことだ。経済学では、ここで言う実験を「探索(サーチ)」と呼ぶ。探索理論(サーチ理論)は、もっとも重要な経済理論の一分野だ。
  • エドワード・コナード・・・配偶者をを見つける最高かつもっとも合理的な方法を説明している。
  • 「測定(calibration)」の時間をしばらくとること。可能な限り多くの相手とデートをして、結婚市場はどんなものであるか感覚をつかむ。それから選択フェーズに入る。このフェーズの目的は永続的な伴侶を選ぶことだ。測定フェーズで出会ったなかで最高の女性よりも、さらに相性のよい女性に最初にめぐりあったら、その女性が結婚すべき相手だ。

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ダイヤモンドは永遠の輝き

  • デビアスはビジネス競争の一般的な法則には従わない。同社は長らく、その理念のもとで経営を行ってきたのである。オッペンハイマーは、同じく1999年の基調講演で、こうも述べている。
  • 私が会長を務めるデビアスは、世界でもっとも有名で、もっとも長く経営が続いている独占事業である、と喜んで自称したい。シャーマン氏の戒律を破る(シャーマン法、つまり反トラスト法に違反するという意味)ことこそ、我々の方針の目指すところだ。ダイヤモンド市場を制圧し、供給を管理し、価格を制御し、ビジネスのパートナー企業と共同行為を行うつもりはございません、などとうそぶくつもりはない。・・・デビアスの試みはデビアスと、ダイヤモンド生産者のすべてに利するだけでなく、消費者の利益にもなると信じて疑わない。
  • デビアスの選択が「消費者のため」というのは疑わしく聞こえるかもしれない。だが実際には、ダイヤモンド市場に完璧な自由競争が存在しないほうが、消費者にとっては確かに得なのだオッペンハイマーの主張を今一度思い出してみよう。「投資をする(ダイヤモンドの婚約指輪を買う人は(デビアスカルテルを)支持している」という彼の言葉に偽りはない。ダイヤモンドの婚約指輪を所有する人にとっては、それができる限り価値をもったままであってほしい。ダイヤモンドに限らず、あらゆる耐久財にも当てはまることだ。不動産もしかり。住宅を所有している人は、当然ながら、住宅価格を高く維持する方針を支持するに決まっている。
  • 興味深いのは、オッペンハイマーの言葉の奥に暗黙的にこめられた主張のほうだ。デビアスカルテルによってすべての消費者が得をする、という表現には、
    まだダイヤモンドの婚約指輪を買っていない消費者も含まれている。結婚を控えた人たちは、本質的に約束を買うものだからだ。ダイヤモンドの値段は絶対に下がらない、ゆえに彼らの指輪は「永遠に」その象徴的価値を保つ、という約束を買っている。自由市場はそんな約束を守れないが、デビアスは守った。1世紀以上も。
  • しかし、デビアスが約束を守りつづける日々は終わりを迎えた。近年のダイヤモンド市場は、分裂と細分化を始めているからだ。1999年には高級ジュエリー·ブランドのティファニーが、カナダのダイヤモンド鉱山の株式買収を発表。将来的にはデビアスからのダイヤモンド調達を行わない旨を宣言した。2003年には、カナダの採掘グループ「エイバー・ダイヤモンド・コーポレーション」が高級宝石商ハリー・ウィンストンを買収し、アメリカ、日本、スイスに店舗を構えている。つまりは採掘業者が販売業者と手を組み、デビアスによる独占取引の必然性を回避するようになったのだ。
  • デビアス独占体制は崩壊した。もはや、高いコストをかけてまで価格を円滑かつ安定的に維持するインセンティブをもったプレイヤーはいなくなったという意味だ。2001年の『フォーチュン』誌の記事には、デビアス取締役のガイ・レイマリーの発言が掲載されている。
  • 「世界を覆い尽くしてすべてのダイヤモンドを買い押さえようという気はない。売値に近い、もしくは超える価格でダイヤモンドを買っても、我が社にとって何の得があるというのか。馬鹿げている。市場の60%を押さえる今の状態で完全に満足している」
  • 「世界を覆い尽くす」。そして、高い代償を払ってでも、すべてのダイヤモンドを確保する。それはこれまでのデビアスの事業戦略の原則だった。しかし競争のすべてを吸収するには多大なコストがかかる。そのコストを呑む意欲がなければ、独占的な権力、あるいは独占的な利益の維持などかなわない。デビアスが世界のダイヤモンド供給を一手に押さえようとは思わない、と認めたレイマリー氏の発言は、事実上、デビアスが独占体制の維持をあきらめたということを意味している。実際に2000年から2005年にかけて、世界のダイヤモンド供給におけるデビアスのシェアは65 %から45 %にまで縮小した。この市場に起きた潮目の変化を裏づける数字である。
  • デビアスがかつてのデビアスでなくなったのだとすれば、ダイヤモンドの価格は遠からず、かなり変動的になっていく可能性がある。自由競争が主流となっている一般的なコモディティと同じだ。ダイヤモンドの価格が変動すれば、上昇であれ下落であれ、そのたびごとに販売業者にとっては痛手になるーダイヤモンドの価値は「永久不滅」であるという消費者の信頼が損なわれ、永遠の愛のシンボルとしてふさわしいというステイタスを失っていくからだ。
  • こうした変化の波は一夜にして実感するものではない。数十年かかるかもしれないが、いずれダイヤモンドの婚約指輪が完全に地に堕ちるときが来たならば、それは雪崩のように一気に進むと考えられる。

www.paulzimnisky.com

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  • メキシカン・スタンドオフは、「相互確証破壊(MAD)」と言われるゲームの一例である。MADゲームの最大の特徴は、どちらかが激しい先制攻撃をして、相手を苦しめても、そのあとで相手が破壊的な反撃をする力をもっていることだ。このMADゲームのもっとも有名な例が、冷戦中のアメリカとソ連の関係だった。

 

  • (p154)たとえばコカインの売人のほうが、自分の評判を重視しているとしよう。一度の取引で長年の評判をつぶしたくはないので、つねに約束を守っている。つまり売人は信頼性のあるプレイヤーだ。この売人が「先にカネを払ってくれ。そしたらヤクを渡す」と約束してみせる(コミットする)。
  • 買い手はその約束について思案する。代金を払ったとしても、売人が約束を守らなければ、薬物は手に入らない。だが自分が代金を払わなければ、薬物は間違いなく手に入らない。「代金を払わない+薬物が手に入る」という帰結は、この場合成立しえない。売人の実績を考えると、評判を重視していることがわかるので、今回の約束も守ると信頼できる。

 

  • (p160)カーディーラーと自動車メーカーは、複数の理由から、中古車認証という第三者的なシステムを挟むことによって得をしている。第1の理由は、中古車購入者が買った車に満足すれば、同じメーカーで新車を買う可能性が高いこと。
    シカゴ自動車貿易協会(CATA)の元会長、ジェリー・シゼックがカーズ・ドットコムの記事で語っているとおりだ。
  • 「認定中古車を提供する理由の1つは、それが自動車メーカーにとって、購入者を囲い込む手段になるからだ。中古車で興味を引き、満足させることができたなら、その購入者は新車購入の際に同じブランドを選ぶと考えられる。その後さらに新車を購入する際もリピーターになると期待できる」
  • 第2の理由として、品質認定を受けることで、その中古車自体が高く売れるという利点がある。差額が800ドルから1300ドルほどもあれば、たいていは認定検査費用を相殺できる。ディーラーにとっては、ふつうに中古車を売るより認定中古車のほうが儲けが出るというわけだ。
  • しかし、だとすれば、買い手個人が自主的にメカニックを雇って検査をすればいいのではないか。中古車販売業者ADESAの副社長、トム・コントスが、カーズ・ドットコムで説明している。
  • 自分で入念に車を検査するか、メカニックを雇って検査させ、さらに延長保証サービスも加える。そこまでできるなら、擬似的な認定中古車となるだろう。・・・自分で検査する能力と時間がある人にとってはそのほうがいいだろうし、節約にもなる。

 

これは実に稀有な本だ。初めてゲーム理論を知る読者を専門用語なしで導きつつ、同時に、最高の戦略が往々にしてゲームチェンジを伴う様子を斬新な視点から描き出している。あらゆる場面で推薦したい1冊。

 ——アルヴィン・ロス 経済学者 2012年ノーベル経済学賞受賞

ビジネスの戦略を語るなら、多様な競争の状況にあてはめられる総括的な考察を提示しつつ、その考察を深く掘り下げて実用的な戦略形成を披露する具体例も提示することが望ましい。本書には、まさに分析と実践、その両方がふんだんに詰まっている。

 ——R・プレストン・マカフィー 元グーグル・チーフエコノミスト

エコノミクス・ルール

この本を読むことで多大な恩恵を受けることが予想される読者は、大きく3タイプいるように思う。
  1. 自分は経済学を理解していると錯覚し、的はずれな批判を繰り返す大半の人文学者及び自然科学者、及び「非主流派」経済学者
  2. ミクロ・マクロ経済学の学部経済学コア科目を一通り学んだ学部生(とくに経済学的思考に対して、何らかの気持ち悪さを感じている学生と経済学的思考を盲信している学生)
  3. 誘導系モデルを用いた統計分析を行い、経済学のモデルを「実証」しているつもりになっている実証経済学者

上記に理論経済学者を含めていないのは、さすがに真っ当な理論経済学者は、本書で書かれているような事実を十分に理解していると「仮定」しているためである。

もちろん上記以外の読者にとっても学ぶことが多い本だと思うので、経済学の初学者を除いたすべての人にとって一読の価値はあると思う。初学者は読んでも議論の意味がよくわからないと思うので、他の本から勉強を始めたほうがいい気がする。

 

  • この本は、ハーバード大学でロベルト・マンガベイラ・アンガーと共に数年間教えた政治経済学の授業をきっかけに生まれたものだ。ロベルトは、彼らしい独特なやり方で、私に経済学の強みと弱みについて真剣に考えさせ、経済学の手法で有益だとわかったものを明らかにするよう後押ししてくれた。ロベルトが言うには、経済学はアダム・スミスカール・マルクスのような崇高な社会理論を構築することをあきらめてしまったために、無味乾燥でつまらない学問になってしまったというのだ。
ja.wikipedia.org
  • それに対し私は、経済学の強みは規模の小さな理論を立てるところにあると指摘した。物事の因果関係を明らかにしーたとえ部分的なものであったとしてもー社会的現実を解明するための状況に応じた考え方のことだ。そして、資本主義システムがどのように機能しているのかや、世界中の富と繁栄を決定するものは何かといった普遍的理論に関する研究より、謙虚な姿勢で積み上げられた控えめな科学のほうが役に立つ傾向にあると私は論じた。彼を納得させることができたとは決して思わないが、彼との議論が私にある種の衝撃を与えたことをわかってもらえたらと思う。
  • 私の新しい所属先であるプリンストン高等研究所には、経済学の経験に基づく実証主義とは極めて対照的な人文学的ないし解釈的アプローチが息づいていた。研究所にやってきた多くの訪問者ー経済学と並ぶ学問である人類学、社会学歴史学、哲学や政治学の人々ーと出会うと、経済学者に向けられた心の奥底から発する強い疑いの目に驚かされた。彼らにとって経済学者は分かり切ったことを言ったり、単純な枠組を複雑な社会現象に無理に当てはめて失敗を犯したりするような存在だった。周りにいた数少ない経済学者が、社会科学における知識豊富な馬鹿者として扱われていると思えたこともあった。つまり、数学や統計学には優れているが、それ以外のことでは役に立たないというのだ。
  • 皮肉なことに、私はかつてこの種の態度をー反対側から 見たことがあった。たくさんの経済学者たちが集まる場をうろついて、彼らが社会学や人類学について何て言っているのかを見てくればいい!経済学者にとって、他の分野の社会科学者たちは、事実や数字よりも思想を扱っており、節操がなく、冗長で、実証的な裏付けに乏しい(あるいは)誤って実証分析の落とし穴にはまっている存在になっている。経済学者は、どのように考えれば結果を得ることができるのかを知っているが、他の学者たちは堂々巡りを繰り返すだけというのだ。この時に、私は反対側から向けられる疑いの目に対して備えておくべきだったのかもしれない。
  • 経済学の外部から繰り出されてきた批判の多くは的外れだと私は思った。経済学者が実際何を行っているのかについて、あまりにもたくさんの誤解があったのだ。そのため私は、経済学にとって必須の分析に関する議論や実証に目を向けることによって、他の社会科学の実践のあり方もある程度改善できるのではないかと思わずにはいられなくなった。
  • しかし、このような事態を招いた責任は他ならぬ経済学者自身にあることも明らかだった。経済学者がうぬぼれていることや、世界を考察する際に特定の理論に執着することが多いことだけが問題なのではない。経済学者は他人に自分たちの学問内容を説明するのが下手くそでもあるのだ。この本の大半は、世界がどのように動いているのかに対する様々な解釈や、公共政策が引き起こす様々な結果を示すたくさんの、そして今も増え続けている枠組を経済学が持っていると示すことに費やしている。しかし、非経済学者が経済学から決まって耳にするのは、市場、合理性、利己的行動に対するひたむきな賛歌のようなものだ。経済学者は、社会生活について条件付きの説明ー市場(そして市場における政府の介入)がその背後にある固有の条件次第で、いかにして効率性、公平性そして経済成長に対し
    て異なる結果を生み出すのかに対する明白な説明を行うことを得意にしている。しかし、経済学者は状況に関係なくどこでも成立する普遍的な経済の法則について宣告しているように思われることが多い。
  • 私は、このような分断を埋めるための本ーそれは経済学者と非経済学者の両方に向けたものだーの必要性を感じた。経済学者に対する私のメッセージは、自らが実践する科学を説明する優れたストーリーが必要とされているということだ。私は、科学を実践する者たちが陥りがちな罠を明らかにするとともに、経済学の中で次々に生まれている役立つ業績を目立たせる新たなフレームを提示するつもりだ。非経済学者に対する私のメッセージは、この新しいフレームの下では経済学に対する一般的な批判の多くは無効になるということだ。経済学には批判すべき点がたくさんあるが、称賛すべき(そして見習うべき)点もたくさんある。
  • 自然科学を模範としているところにも理由の一端があるのだろうが、経済学者はモデルを誤って用いる傾向がある。あるモデルを唯一のモデルとして、どんな状況にあっても関連づけたり適用したりする間違いを犯しやすいのだ。経済学者はこのような誘惑に打ち勝たなければならない。環境が変化し、一つの前提から別の前提に視点が移るのに合わせて、モデルを慎重に選び直さなければならない。異なるモデルを、もっと柔軟に使い分ける方法を学ばなければならないのだ。
  • 本書は、経済学の称賛と批判の両方を行うものだ。この分野の核にある部分ー知識を生み出す上で経済モデルが果たす役割は擁護するが、経済学者による経済学的手法の扱い方や、モデルの(誤った)使い方については批判をする。本書での私の議論は、経済学者の「党派的な見方」とは無縁である。経済学者の多くは、この分野に対する私の見方、特に経済学がどのような意味で科学と言えるのかについての見方について、同意してくれないと思う。
  • 他の社会科学を専攻する経済学以外の専門家と話していると、経済学が外部からどう見られているかが分かって困惑することがしばしばある。彼らの不満は、よく知られている。経済学は物事を単純化し過ぎていて視野も狭い。文化や歴史、背景や条件を無視して、自分たちが普遍的であるかのような主張をする。市場なるものが、本当に存在するかのように考えている。暗黙の価値判断を持ち込んでいる。そのくせ経済状況の変化について説明も予想もできない。これらの批判は大部分が、経済学とは何かを見誤っているところから来ている。実際の経済学には多様なモデルが存在しており、特定のイデオロギー的志向を持ったり、唯一の結論を導いたりするものではない。もちろん、経済学界でその多様性を反映させることができていないのだから、誤りは経済学者自身にあるとは言える。

モデルの多様性

  • 経済学者は、社会的相互作用の目立った側面を掴まえたモデルを構築する。こうした相互作用は、財やサービスの市場で起きている。市場とは何かについて、経済学者は幅広い合意を持っている。個人、企業、あるいは他の集合体が買い手と売り手になる。対象となる財・サービスには、ほとんどのものが含まれる。官職や地位など、市場価格が存在しないものもだ。市場は局所的、地域的、国家的、あるいは国際的でありうる。バザールのように物理的に構成されている場合もあるし、長距離交易のようにバーチャルな場合もある。伝統的に経済学者は、市場がいかに機能するかという問題に夢中になっている。市場は資源を効率よく使っているか?改善の余地はあるか、改善できるならどうやって?交換から得られた利益はどう分配されるのか?市場以外の制度の機能に光を当てるためにモデルを使うこともあるー学校、労働組合、政府などだ。
  • では、経済学のモデルとは何なのだろう? 要素間の特殊な関係の働きを、交絡要因を隔離して、単純に示したものと理解するのが最も簡単だ。モデルは原因に焦点を当てて、それがシステムを通していかなる結 果をもたらすのかを示そうとする。モデルを作るとは、全体の中のある部分と別の部分のつながりがどのようなものであるかを明らかにする、人工的な世界を作ることであるー要素が複雑に絡み合った現実世界を、漠然と見ているだけでは識別できないつながりだ。経済学のモデルは、医者や建築家が用いる物理モデルと大差ない。病院で見かけるプラスチック製の肺のモデルは、人体の他の部分から切り離された呼吸システムに焦点を当てている。建築家が作るモデルは、家の周辺の風景を示すものもあるし、内部のレイアウトを示すものもある。経済学者のモデルも同じだが、物理的な構築物ではなく、言葉と数式を用いる点で異なっている。
  • よくあるモデルは、経済学の入門科目を取った人にはおなじみの供給ー需要モデルだ。右下がりの需要曲線と、右上がりの供給曲線で構成され、交点で価格と数量が決まる。この人工世界は、経済学者が「完全競争市場」と呼ぶもので、消費者と生産者が無数にいる。全員が経済的利益を追求しており、誰も市場価格に影響を与えることができない。このモデルはたくさんのことを捨象している。人は物質的な動機の他にも、違う動機を持っている。合理性は感情によって曇らされたり、認知的短絡を起こしたりする。生産者は独占的に行動することもある、などだ。しかし、このモデルは現実の市場経済の単純な働きを解明してくれる。

寓話としてのモデル

  • 経済モデルを、寓話のようなものだと考えることもできる。名前のない、どこにでもある場所(ある村、森)に住む2、3人の登場人物が出てくる小話で、彼らの振る舞いや相互の交流から、ある種の教訓となる結末が導かれる。登場人物は人間の時もあるし、擬人化された動物や無生物の場合もある。寓話はシンプルだ。少ない言葉で語られ、登場人物は貪欲や嫉妬のような型どおりの動機で動く。寓話話はリアルである必要はないし、登場人物の人生を精密に描く必要もない。物語の筋を明確にするためにリアリズムを犠牲にし、不明瞭さを少なくする。重要なのは、寓話には誰にでも分かる道徳が含まれているということだ。正直が一番だ、最後に笑う者こそ勝者だ、同病相憐れむ、水に落ちた犬を叩くな、などである。
  • 経済学のモデルも似ている。シンプルで抽象的な環境を前提にしている。仮定の多くが現実的である必要はない。本物の人間や企業が住んでいるように見えても、登場人物は高度に定型化された振る舞いをする。生き物でないもの(「ランダムショック」「外生的パラメータ」「自然」)もしばしば登場し、行動に影響を与える。明確な原因、結果や条件式が、物語の筋となる。そして誰もが分かる道徳ー経済学者が政策的含意と呼ぶものがある。自由市場は効率的だ、戦略的な場面で機会主義的に行動すると全員の厚生が悪化する、インセンティブは重要だ、などである。
  • 寓話は短く、要点は明瞭だ。メッセージに誤解の余地はない。ウサギとカメの物語は、着実に、ゆっくり歩んでいくことの重要性を訴えている。物語の核になる部分を取り出せば、他の多様な環境にも応用できる。経済モデルを寓話と一緒にすると、「科学的」な地位が損なわれると思われるかもしれない。しかし、両者の主張は、全く同じように作用する。競争的な供給ー需要の枠組を学んだ学生は、市場の力に敬意を持ち続ける。囚人のジレンマを乗り越えようとするなら、協調の問題を考えないわけにはいかない。モデルの科学的な細部を忘れてしまった時でも、世界を理解し解釈するテンプレートは残るのだ。
  • この類比は、経済学者の職業的専門性を軽視するものではない。経済学者は、論文に書いた中小モデルが、寓話と本質的に変わらないと認識し始めている。優れた経済理論家のアリエル・ルービンシュタインは次のように述べている。「モデル」という言葉は「寓話」や「おとぎ話」より科学的に聞こえるかもしれないが、私には大きな違いがあるとは思えない。」哲学者のアレン・ギバードと経済学者のハル・ヴァリアンの言葉では、「経済学のモデルはいつもある物語を語っている。」同様に、科学哲学者のナンシー・カートライトは「寓話」という用語を、経済学や物理学のモデルに対して使っているが、経済学のモデルのほうがより比喩的だと考えている。道徳が明快に語られる寓話と違い、経済学のモデルから政策的含意を引き出すにはいっそうの注意と解釈が必要になる、とカートライトは言う。この複雑性は、モデルが一つの文脈的真実のみを取り上げ、あくまで特殊な条件に基づく結論を導いているという事実から来ている。
  • 多少の違いはあるが、寓話との類比は有益だ。寓話は数え切れないほどあり、それぞれの寓話が環境の異なった条件の下で行動する指針を与えている。また、寓話が導く道徳は、しばしば矛盾しあっている。ある寓話は信頼や協力の美徳を称賛しているが、別の寓話は自分をもっと信じるよう促している。あるものは事前の準備を称え、別のものは過剰に準備し過ぎると危ないと警告している。手持ちのお金を使って人生を楽しめというものもあれば、雨の日に備えて貯金すべきだというものもある。友達は持ったほういいが、友達が多すぎるのは良くない。それぞれの寓話が、一つの限られた視点から道徳を語っている。ただし全体を合わせると、疑いと不確実性が助長されるのだ。
  • そのため特定の状況に合う寓話を選ぶには、判断力が必要とされる。経済学のモデルを用いる時にも、同じような洞察力が必要になる。異なったモデルが異なった結論を出すという点は先に見た。自己利益に基づいた行動が双方にとって効率的(完全競争モデル)か、浪費的(囚人のジレンマモデル)かは、背後にある条件をどう見積もるかで変わってくる。寓話と同じように、競合する利用可能なモデルを選択する上で、優れた判断力は不可欠である。幸い、証拠の検証が、モデル選びに有益な導きを与えてくれる。その過程は、科学より技芸と言うべきである。

 

実験としてのモデル
  • モデルを寓話になぞらえるのがお気に召さなければ、研究室の実験になぞらえてもいい。これは、驚くような類比かもしれない。寓話がモデルを単純なおとぎ話にしてしまうとすれば、研究室の実験との比較は、モデルに過剰な科学的装いを与える危険があるからだ。事実、多くの文化圏で、研究室の実験は科学的尊敬の最高峰に位置している。白衣に身を包んだ科学者が行う実験は、世界がどのように動いているのか、ある特殊な仮説が本当に正しいのかをめぐる「真実」に到達するための手段である。経済学のモデルが、それに近づくことなどできるのだろうか?
  • 研究室の実験が本当にそうなのか、考えてみよう。実験室は、人工的な環境を作為的に設定したものだ。実験の対象となる物質は、現実世界の環境から隔絶される。研究者は、仮説上の因果関係のみに光を当て、他の潜在的に重要な影響要因を排除できるよう実験をデザインする。例えば、純粋に重力の影響を見たい場合、研究者は真空で実験を行う。フィンランドの哲学者ウスカリ・ マキが説明しているように、経済学のモデルを構築する場合も、絶縁(insulation)、隔離(isolation)、識別(identification)の同じ方法が用いられる。主な違いは、研究室の実験が、因果関係を観察するのに必要な隔離を物理的環境の操作によって行うのに対して、モデルの場合は因果関係の前提を操作する点にある。モデルは心理的環境を構築して、仮説の検証を行うのだ。
  • 次のような反論があるかもしれない。研究室実験は、環境は人工的かもしれないが、作用はまだ現実の世界で起きている。少なくとも一つの条件下で、何が起きるかは分かる。反対に、経済モデルは心の中でしか展開されない完全な人工的構築物だ。もっと大きな違いもある。実験の結果は、現実の世界に適用する前に何度も外挿(extrapolation)を要求される。実験室で起きたことが、実験室の外で起きるとは限らないからだ。例えば、薬の効果は、実験室の設定ー「実験的制御」ーで考えられたもの以外の現実世界の条件と混じり合うと、得られないかもしれない。一つの例を与えてみよう。コロンビアで、私立学校のバウチャーを無差別に配布したところ、教育効果が大きく改善した。だからと言って、同じプログラムがアメリカや南アフリカなどでも同じ結果をもたらすという保証はない。最終的な結果は、国によって違う多くの要素に依存する。所得水準、親の選好、私立と公立の質的差、教師や学校運営者を駆り立てるインセンティブーそれらの要素すべて、他の多くの潜在的に重要な事柄が結果に関係してくる。「あそこで効いた」ということから「ここでも効く」という結論を導くには、多くの追加的なステップが必要である。
  • 研究室(あるいは野外)のリアルな実験と、われわれが「モデル」と呼ぶ思考実験の間にある隔たりは、一般に考えられているより小さい。どちらも、その結果を必要な時と場所に適用する前に慎重な吟味(extrapolation)を必要とする。適切な吟味を順番に行うには、優れた判断力と他の情報源からの証拠、構造的推論の組み合わせが必要である。実験の価値は、その実験が行われた文脈の外側にある世界について、何を教えてくれるかで決まる。そのためには同一性を識別し、異なった設定でも並行関係を見出す能力が必要となる。
  • リアルな実験と同様、モデルの価値は特殊な因果関係を取り出し、識別する能力に宿る。現実世界の因果関係は、その作用を曖昧にする他の因果関係と並行して現れるので、科学的説明を試みるすべての人にとって複雑である。経済学のモデルは、この点で優位性があると言えるかもしれない。偶有性ー特殊な前提条件への依存ーがモデルには組み込まれているからだ。第三章で見るように、確実性が欠如していることで、われわれは複数の競合モデルから現実をよりよく記述することができるのだ。

 

  • ジョンの脳波論のように重要な仮定が明らかに事実に反する時、モデルの有効性を疑問視するのは完全に正しく、必要でさえある。この例では、モデルは単純化され過ぎるあまり、われわれを惑わせていると言うことができる。この場合の適切な反応は、もっと適合的な仮定を持った別のモデルを作ることであり、モデルを諦めることではない。悪いモデルへの解毒剤は、良いモデルを作ることなのだ。
  • 究極的には、仮定の非現実性を避けることはできない。カートライトが言うように、「非現実的な仮定を用いているからという理由で経済モデルを批判するのは、ガリレオの斜面落下運動の実験が完全に摩擦のない球体を用いたと言って批判するようなものだ。」しかし、われわれが蜂蜜の壺に落ちた大理石にガリレオの加速度の法則を適用しようとしないように、このことが重要な仮定が総じて現実とかけ離れたモデルを用いる言い訳にはならない。

 

  • 物理科学の標準からすると、経済学者の用いる数学はそれほど先進的ではない。多変数微分積分最適化問題の基礎があれば、たいていの経済学理論にとっては十分である。それでも、数学的形式主義は読者にある種の投資を要求する。経済学と他の社会科学の間にわかりにくさの壁を作るのだ。これが、経済学者でない人がこの職業に抱く疑念を高める原因にもなっている。数学のせいで、経済学者は現実世界から引きこもり、抽象の構築物の中で暮らしているように見えてしまう
  • 今日に至るまで経済学は、大学院で必須の修行期間を経ていない人にとって不可解なままの、ほぼ唯一の社会科学分野となっている。経済学者が数学を用いる理由は誤解されている。洗練とか、複雑さとか、高度な真理への要求とはあまり関係ない。経済学で数学は主に明晰さと一貫性の二つの役割を果たすが、どちらもその栄光を求めてのことではない。第一に、数学はモデルの要素ー仮定、行動メカニズム、そして主たる結果ーを確実で透明なものにする。ひとたび数学の形式で記述されると、モデルが言ったり行ったりするととは、読むことのできる人には理解しやすいものになる。この明快さは偉大な美徳に属するが、十分に高く評価されていない。われわれは今もなお、カール・マルクスジョン・メイナード・ケインズヨーゼフ・シュンペーターが本当は何を言おうとしていたのか、議論を戦わせている。三人は経済学分野の巨人だが、自分たちのモデルをほとんど(すべてというわけではないが)言葉で説明した。反対に、ポール・サミュエルソン、ジョセフ・スティグリッツケネス・アローが、ノーベル賞をもらった理論を開発していた時、心の中で何を考えていたのかは誰も気にしない。数学モデルが要求するのは、証明の細部に気を配れということだけだ
  • 数学の第二の価値は、モデルの内的一貫性を保証するというものだー簡単に言うと、結論が仮定から導けるかどうかである。これは平凡だが、不可欠な貢献だ。議論の中には、単純で自明過ぎるものもある。他の議論には、より慎重な扱いを要求するものもある。認知バイアスのせいで、見たい結果だけを導く場合には特にそうだ結果が純粋に間違っている時もある。重要な仮定を取り除くと議論が急に明示的ではなくなることもしばしばだ。こういう時、数学は有益な検証手段となる。ケインズ以前の経済学者の巨頭で、最初の本格的な経済学の教科書の著者、アルフレッド・マーシャルは優れたルールを持っていた。数学を簡略化された言語として用いよ。それを言葉に翻訳し終えたら数学は燃やしてしまえ!私が学生によく言うのは、経済学者が数学を使うのは彼らが賢いからではなく、十分に賢くないからだ。

 

  • こんな冗談がある。ドブリューが1983年にノーベル賞を受賞した時、ジャーナリストが経済の先行きについての彼の見解を知りたいと声をかけてきた。彼はしばらく考えた後、こう続けた。「n種類の製品とm人の消費者からなる経済を考えてみよう。」
  • 第一定理は、見えざる手の仮説を実際に証明している点で偉業といえる。すなわち、ある一定の仮定の下で、市場経済の効率性は、単なる推測や可能性ではなく、前提条件から論理的に導き出されるものであることが示されているのだ。この結果は数学のみを用いて示されているので、実際に正確な計算式を得ることができる。この結果がいかにして生み出されたのか、モデルによってわれわれは正
    確に知ることができるのだ。特に、モデルを用いることによって、効率性の実現を確実にするために必要な具体的な仮定が明らかにされている。 
  • 見えざる手の定理を満たすために必要な仮定は、十分条件であって必要条件ではない。言い換えると、仮定のうちのいくつかが満たされない場合であっても市場は効率的なものとなり得るのだ。このため、アロー=ドブリューの基準が完全に満たされていない場合であっても自由市場は望ましいものだと主張する経済学者もいる。

 科学的進歩、一つの時代に一つのモデル

  •  経済学者に経済学を科学たらしめるものとは何かを尋ねると、次のような答えが返ってくるだろう。「それは科学的手法を用いているからだ。われわれは、仮説を立ててから検証する。ある理論が検証に失敗すれば、その理論を捨てて別の理論に置き換えるか、その理論の改良版を提示する。その結果、世界をよりよく説明する理論が開発されて、経済学は進歩していくのだ。」
  • これは素晴らしい話だが、経済学者が実際に行っていることや、経済学が実際にどのような進歩を遂げているのかとは、ほとんど関係していない。第一に、経済学者の研究の多くは、最初に仮説を構築した後に現実世界の事実に向かい合うという、仮説演繹法とは大きく異なるものだ。より広く行われている方法は、既存のモデルでは説明できていないように思われる特別な規則性や出来事に応答してモデルを構築するというものだー例えば、銀行が企業に貸し出しを行う際に、高金利を課す代わりに、資金供給量を制限するという、一見したところ理に適っていない行動が挙げられる。研究者は、このような「常軌を逸した」出来事について、よりうまく説明することのできる新しいモデルを開発している。
  • モデルを生み出す思考方法には帰納的な要素が多く含まれている。そして、モデルは特定の経験的事実を説明するために具体的に考案されたものであるため、同様な現実に直面した場合にそれを直接検証することができない。言い換えると、信用割当の存在は、それ自身が最初に理論を構築する動機になったものであるため、その理論を検証するために用いることができないのだ。
  • さらに、演繹的な仮説検証アプローチに正しく従ったものでさえ、経済学者が生み出した研究の多くは、厳密に言うと実際に検証可能ではない。これまで見てきたように、経済学の分野は矛盾した結論を生み出すモデルにあふれている。しかし、経済学者の扱うモデルの中で、専門家にきっぱりと否定されて明らかに誤ったものとして捨て去られたものはほとんどない。多くの学術活動が、様々なモデルに対して実証的な支持を与えることを目的として行われている。しかし、これらの作業は概ね当てになるものではなく、結論がその後の実証分析によって弱められる(覆される)ことが多い。その結果、専門家の人気を集めるモデルの変遷は、事実の存在そのものよりも、一時的なブームや流行、あるいは適切なモデル構築のやり方についての嗜好の変化によって起こる傾向にある。
  • 専門家についての社会学は、この後の章で取り上げる。より根本的なのは、社会的現実は移ろいやすいために、経済学のモデルによる検証は本質的に困難であり、不可能でさえあるということだ。第1に、研究者が他の仮説の妥当性について明確な結論を導き出させるようなはっきりとした証拠を現実社会が提供してくれることは滅多にない。最も関心を集める問題ー経済成長を引き起こすものは何か?財政政策によって経済は活性化するのか?現金給付によって貧困は削減されるのか?ーは実験室で研究することはできない。一般的に、得られるデータには相互作用がごちゃごちゃ入り組んでいるため、探し求めている原因をはっきりと見つけることは難しい。計量経済学者が最善を尽くしているにもかかわらず、説得力のある因果関係を示す証拠を得ることはとても困難なのだ。
  • より一層大きな障害は、どんな状況にも有効な経済モデルを求めることは一切できないということだ。物理学においてさえ、不変的法則が多数あるのかどうかについて議論されている。しかし、私が本書で何度も強調してきたように、経済学は別ものだ。経済学では、状況がすべてなのだ。ある状況において正しいことは、別の状況においても正しいものである必要はない。競争的な市場もあれば、
    そうでない市場もある。ある状況においてセカンド・ベストの理論による分析が求められていたとしても、他の状況では違うかもしれない。金融政策における時間非整合の問題に直面している政治制度もあれば、そうでないのもある。その他もろもろだ。例えば国有資産の民営化や輸入自由化について、全く同じ政策介入が異なる社会で実施されたとき、多くの場合その影響が大きく異なっていることが観察されるのは驚くべきことではない。

 

  • 私は、実証的検証がどんなときでも必ずうまく機能すると主張したいわけではない。しかし、決定的な実証データが得られないときでさえ、モデルは見解の相違の原因を明らかにするための筋の通った建設的な議論を可能にする。経済学では、政策論議を行う際には、あるモデルと別のモデルを競わせるのが普通だ。一般的に、モデルによる後ろ盾のない見解や政策的処方が支持を得ることはない。そして、いったんモデルが生み出されれば、両者が現実世界についてどのような仮定を置いているのかが、すべてはっきりするようになる。このことによって意見の不一致が解決することはないかもしれない。実際、それぞれが現実を解釈しようとする方法が違う場合には、両者の見解の相違は解決しないのが一般的だ。しかし、少なくとも、何について意見が合わないのかについて、両者が最終的に
    同意することは期待できるだろう

 

  • 経済学者の特殊なモデル構築のしきたりに対する愛着ー合理的で将来を予想できる個人、よく機能する市場などはしばしば、彼らの周囲にある世界との間の疑う余地のない摩擦を見過ごさせる。イェール大学のゲーム理論家のバリー・ネイルバフは大抵の経済学者よりも鋭い判断力の持ち主だが、そんな彼でさえ面倒を起こしている。ネイルバフや他のゲーム理論家がある日の深夜、イスラエルでタクシーに乗っていた。運転手はメーターを倒さず、本来メーターが示すよりも降りる時には安い料金でいいと約束した。ネイルバフと同僚たちは運転手を信用する理由がなかった。しかし彼らはゲーム理論家で、以下のような推論をした。彼らが目的地に着けば、運転手は交渉力をほとんど持たず、乗客が喜んで払うのとちょうど同じ額を受け入れるはずだ。彼らは、運転手の申し出はよい取引で、うまくいくと踏んだのである。目的地に着くと、運転手は二千五百シケルを要求した。ネイルバフは拒否し、代わりに二千二百シケルを申し出た。ネイルバフが交渉を試みる間、激怒した運転手は車のドアをロックし、乗客を中に閉じ込め、危険なほど速いスピードで彼らが乗車した地点まで車を走らせた。彼らを縁石に叩き出し、こう叫んだのである。「二千二百シケルで行ける距離がどれくらいか分かっただろう。」
  • 結局明らかになったのは、標準的なゲーム理論は、現実に起きたことの貧弱なガイドにしかならないということだ。少しの帰納があれば、ネイルバフと彼の同僚は、最初から、現実世界の人々は理論家のモデルが前提とする合理的なオートマトンのようには振る舞わないと認識できたはずだ!

 

  • MIT 、イェール、UCバークレーは政策を評価しモデルを検証するフィールド実験を運営する主な中心地だ。フィールド実験の明らかな欠点は、それらが経済学の中心問題の多くにほとんど関係していないということにある。例えば財政政策や為替レート政策の役割といったマクロ経済学の大問題を検証するのに、経済実験がどの程度役立つのかを知るのは難しい。そして、例のごとく、実験の結果は注意深く解釈されなければならない。というのも、それらの結果は他の前提条件の下では適用できないかもしれないからだー外的妥当性のいつもの問題である。

モデルと理論

  • 読者の中には、私がこれまで「理論」という言葉を使うことをなるべく避けてきたことに気付いた人がいるかもしれない。「モデル」と「理論」は同じ意味で用いられることがあり、とりわけ経済学者にそのような傾向があるのだが、これら二つの言葉は同じものと考えないほうがよい。「理論」という言葉には野心的な響きがある。一般的な定義では、理論とは、ある事実や現象を説明するために述べられる一連の考えや仮説のことを指す。理論の中には、実験や検証によって推定されたものもあれば、単なる主張に留まっているものもある。例として、物理学における一般相対性理論とひも理論の二つを取り上げよう。アインシュタインの理論は、その後の実験研究によって完全に裏付けられたものと考えられている。その後に発展したひも理論は、すべての力と粒子の統一を目指した物理学の理論だが、それを支持する実験結果はまだ乏しい自然淘汰に基づくダーウィンの進化論は、その正しさを示唆する証拠が数多く存在するが、種が進化するまでにかかる時間の長さを考えると、進化論を直接実験によって証明することは不可能である。
  • 自然科学分野におけるこれらの例のように、理論には全般的かつ普遍的な妥当性があるものと考えられている。北半球でも南半球でもーそして異星人の生命にさ
    えもー同じ進化論が適用されるということだ。しかし、経済学のモデルは違う。経済学のモデルは、状況によって変わるものであり、ほぼ無限の多様性がある。経済学のモデルは、せいぜい部分的な解釈を与えるものであり、特定の相互作用のメカニズムや因果関係の経路を明らかにするために設計された抽象概念を主張するに過ぎない。これらの思考実験では、潜在的に存在しうる他の要因を分析の枠組から外すことによって、限定された要因がもたらす影響を隔離し識別しなければならない。そのため、多くの要因が同時に作用しているような場合は、経済学のモデルでは、現実世界で起こっている現象を完全に解明するにはいたらない。
  • モデルと理論について、両者の違いと重なり合う部分を理解するため、まずは次の三種類の問題を区別しておきたい。
  • 第一に、AがXに及ぼす影響とはどのようなものかという、「何」を問う問題がある。例えば、最低賃金の上昇が雇用に及ぼす影響はどのようなものか?資本流入が一国の経済成長率に及ぼす影響はどのようなものか?政府支出の増加がインフレに対してどのような影響をもたらすのか?などがある。これまで見てきたように、経済学のモデルは、これらの問いに対してもっともらしい因果関係の経路を説明し、それらの経路が特定の状況にいかに依存しているのかを明らかにすることによって、その答えを提示する。たとえ適切なモデルが存在していると十分確信することができたとしても、これらの問いに答えることは将来の予想を行うことではないことに注意しなければならない。現実の世界では、分析している効果と並行して多くの事柄が変化している。最低賃金の上昇が雇用を減少させると予想することは正しいことかもしれないが、現実の世界では、その予想とは関係なく雇用者が従業員への給与支払いを増やすような全般的な需要の増加が混在しているかもしれない。このような分析は、経済学のモデルに適した分野である。

 理論とは実のところ単なるモデルの寄せ集めに過ぎない

  • これまで見てきたように、経済学の理論は、あまりにも一般化されてしまったために現実世界に対して実際にはほとんど役に立たないか、あるいはあまりにも特定化されてしまったために、せいぜい現実の特殊な一面を説明できるに過ぎないかのいずれかになっている。この難問を、私は具体的な理論をとりあげて説明してきたが、これは経済学のいずれの領域でも妥当するものだ。資本主義の普遍的法則を発見したと主張した理論家を、歴史は常に裏切ってきた。自然とは違い、資本主義は人間が生み出したものであり、それゆえ柔軟な構造物なのだ。
  • もっとも、「理論」という用語が使われる頻度から判断すると、経済学は理論で溢れている。ゲーム理論、契約理論、サーチ理論、成長理論、貨幣理論などなどだ。しかし、用語に騙されるべきではない。実際、これらの理論の一つひとつは、状況に応じて注意深く用いられる特殊なモデルの集まりである。それぞれの理論は、研究の対象となる現象について万能の説明を与えるというより、むしろ
    分析道具の一つの組み合わせを提供しているのだ。それ以上のものを要求しない限りは、理論はとても有益であり適切なものになりえる
  • 五十年近く前、最も独創的な精神を持つ経済学者の一人だったアルバート・ハーシュマンは、社会科学者による「強引な理論化」に対して不満を言い、壮大なパラダイムの追求がいかにして「理解の妨げ」になり得るかを語っていた。網羅的な理論を構築しようという衝動によって、偶発的事件が果たす役割や、現実世界で生じうる様々な可能性から学者が目をそらしてしまうことを心配したのだ。経済学の世界で今日起こっていることの多くは、より穏健な目標を目指している。それは、ある時期に生じた一つの因果関係を理解するための研究なのだ。多くの問題は、大それた野心でこの目的を見失ってしまうときに生じる。

ja.wikipedia.org

 

  • 経済学者の理論は適切に検証することができないという批判がある。実証分析は決定的な結果を与えるものではなく、それによって誤った理論が排除されることは滅多にない。経済学は、一連のモデルが好まれたと思えばまた別のモデルが好まれるというようにゆらゆらと揺れ動いており、その原因も実証分析によって示された事実であることは少なく、むしろ好き嫌いやイデオロギーによるものであることが多い。経済学者が自らを社会という世界における物理学者と見なしているのであれば、この批判は意味がある。しかし、前にも述べたように、自然科学との比較は誤解を招く。経済学は社会科学であり、普遍的な理論や結論を探求するのは不毛なことなのだ。モデル(あるいは理論)はせいぜい状況に応じて有効なものでしかない。普遍的な実験検証や反証を期待しても、あまり意味はない。
  • 経済学は、潜在的に適用可能なモデルの集まりに、過去のモデルが見落としていたか、あるいは無視していた社会的現実を捉えた新しいモデルを加えることによって進歩する。新しい状況に遭遇した経済学者の反応は、その状況を説明するモデルを考えることだ。また経済学は、より良いモデルを選択するーモデルと現実世界の状況をより良く適応させるーより優れた手法が見つかることによっても進歩する。・・・これは科学というより技芸に近いものであり、注目されていない経済学の価値なのだ。モデルを扱うことの利点は、モデル選択の際に必要とされる諸要素ー重要な過程、因果関係の経路、直接的・間接的な含意ーがすべて明白で誰の目にもわかることにある。これらの要素があることで、経済学者がモデルと現実の状況が一致しているのかを、たとえ正式な検証や決定的なものでなく、略式で示唆的なものであったとしてもチェックすることが可能になる。
  • 最後に、経済学は予測に失敗していると非難される。神は、占星術師の見栄えをよくするために経済予測の専門家を創り出した。これはジョン・ケネス・ガルブレイス(彼自身も経済学者である)による皮肉だ。近年起こった証拠物件Aは、世界金融危機だ。これは、大多数の経済学者が、マクロ経済と金融は今後ずっと安定すると思い込んでいたときに発生した。前章で説明したように、このような誤った認識は、経済学によくある盲点、すなわち一つのモデルを唯一のモデルと間違えたことによって生じたもう一つの副産物だった。逆説的だが、経済学者が自身のモデルとより真摯に向き合っていれば、金融革命や金融グローバリゼーションがもたらす結末について自信が持てなくなり、その結果金融市場が引き起こす損害に対してもっと懸命に備えていただろう。
  • しかしながら、どのような社会科学も、予測を行ったり、予測の基礎となる判断をしたりするべきではない。社会生活の動向を予測することはできない。社会の推進力として作用しているものが多すぎるのだ。モデルの言葉に置き換えると、これまでにまだ構築されていないものも含めて、未来にはたくさんのモデルがあるのだ!経済学やその他の社会科学に期待できることは、せいぜい条件付きの予測をすることだ。つまり、その他の要因がそのまま一定である状況において、個々の変化から一つを選び、それがもたらすであろう結果をわれわれに教えてくれるということである。優れたモデルとはそのようなものだ。そのようなモデルは、ある程度大規模な変化がもたらす結果や、いくつかの要因が他の要因を圧倒するほど大きくなるときに起こる影響の目安を提供してくれる。大規模な価格操作は欠乏を生み出すだろうということや、凶作によってコーヒー価格が上昇するだろうということ、平時に中央銀行が貨幣を大量に供給するとインフレが生じるだろうということについて、われわれは十分確信できる。ただしこれらの例は、「その他すべてのことが同じ」ということが妥当な場合に成り立つ想定であり、そこで生じる予測は条件付き予測といったほうがふさわしい。問題なのは、妥当と考えられる多くの変化のうち、どれが実際に発生するか推測することや、それらが最終的な結果に対してどれほどの重みを持つのかについて、ほとんど確信を持つことができないということである。そのような場合、経済学には自信よりもむしろ注意深さや謙虚さが求められる。

多様性の欠如

  • 経済学について最もよく聞く不満の一つに、経済学は部外者を避ける同好会のようだというものがある。批判者によると、この排他性によって経済学は狭量なものとなり、経済学に対する新しく代替的な見方に閉鎖的になってしまっているというのだ。彼らが言うには、経済学はより包括的に、より多様に、そして異端の手法もより歓迎するべきなのだ。
  • このような批判は、学生がよく言うものだ。その理由の一つに経済学の教育法がある。例えば、1年秋に、ハーバードの有名な経済学入門コースであるeconomics 10、これは同僚のグレゴリー・マンキューが教えているのだが、その授業を一部の学生がボイコットしたことがある。学生が不満だったのは、コースの内容が経済科学の振りをした保守派のイデオロギーの宣伝であり、永続的な社会格差を助長するものだということだった。マンキューは抗議した学生を「見識が足りない」として退けた。彼は、経済学はイデオロギーを持っておらず、政策に関する結論を理路整然と考えて正しい答えにたどり着けるようにするための単なる道具にすぎないのだと指摘した。

ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ

ストーリー自体は知っていたので、世界有数のグローバル企業の創業者()にどれくらい忖度したプロットになっているか(どのくらいレイを悪く描くか)が個人的な関心でした。一言でいうとバランスよくできていたように思います。

スティーブ・ジョブズが典型例ですが、カリスマ経営者は基本的に自己中のサイコ野郎が少なくなく、中でもレイ・クロックは最終的にマクドナルド兄弟からマクドナルドを奪ったくそ野郎です。もちろん彼がいなければマクドナルドはグローバル企業になれず、片田舎のレストランとして生涯を終えていた可能性も高いため、貢献は認めないといけませんが。

劇中でマック兄が「お前は何も生みだしてないだろ」的なことを言って激昂する場面があります。たしかにマクドが(少なくとも初期に)成功した理由はマック兄弟が発明したスピード生産方式であり、レイの貢献度はゼロです。また、現在のリース+フランチャイズ方式を思いついたのは、ソネンボーンであってやはりレイではありません。レイ以前にもマクドの生産方式に目を付けた人は数多くいたとマック弟が語っていることを考えると、数学者のハーディが「ラマヌジャンを見出したことを数学に対する自分の最大の貢献」&デービーが「私は科学上の発見を随分したが、私の生涯最大の発見は、ファラデーを発見したことだ。」と語っていたように、「マクドナルドを見出したことをレイの最大の貢献」というのもやや厳しいところがあります(そもそもマクドナルドは地域では成功していたわけですし)。

https://en.wikipedia.org/wiki/Harry.J.Sonneborne

結局本人が語っているように、自分が信じているものに全財産(どころか借金してレバレッジまでかけて)ぶっこむ山師の才覚とその判断を信じ続けるpersistence(固執)・・・病的な執念が彼の成功のヒミツだったんだろうな、と感じました。

その問題、経済学で解決できます。

  • 歴史的に見て、経済学は理論中心の学問だった。大きな進歩といえばまず、ありえないほど頭のいい人たちが難しい数理モデルを書き上げ、世界の仕組みに関する抽象的な定理をそこから導き出す。でも、コンピュータの計算能力が爆発的に高まり、膨大なデータが手に入るようになった1980年代から1990年代に、経済学業界は変わった。実証研究、つまり現実のデータの分析に焦点を当てる経済学者がどんどん増えていった。ぼくみたいなの、つまりきらびやかな理論的洞察にたどり着けるほど自分はぜんぜん賢くないのを思い知った若輩者の経済学者にとって、なんか面白いことが見つからないかとデータを漁って過ごすのは、別に恥ずかしいことではなくなっていた。スティーブン・レヴィット

 

  • 最近のはやりといえば「ビッグデータ」だ。データを山ほど集めて積み上げ、パターンを見つけ出す。ビッグデータを使えば面白い結論が導き出せる。ビッグデータはすばらしいけれど、大きな問題を抱えてもいる。ビッグデータを使ったやり方の背後にあるのは、因果ではなく相関に大きく頼った分析だ。デイヴィッド・ブルックスもこう言っている。「億千万のものごとが互いに相関しあい、またデータをどう組み立てるか、何と何を比べるかで、そうした相関が違ってくる。意味のある相関を意味のない相関と区別するためには、何が何を起こしているか、因果を仮定しないといけないことが多い。つまり、結局人間が理屈を考える世界へと逆戻りだ」
  • ビッグデータにはもう1つ問題があって、それはとにかく大きいのでどう掘り進んだらいいのかなかなかわからないことだ。企業はものすごくたくさんのデータを持っていて、そんなデータをもうどうやって見たらいいのかわからなくなっている。企業はなんでもかんでも集めて、そのあげく圧倒されてしまっている。考慮するべき変数のありうる組み合わせがたくさんありすぎて、どこから手をつけていいのかもわからない。ぼくたちの仕事は、実地実験を使って因果関係を推定しようということに焦点を絞っていて、データを作り出す前に、関心のある因果関係についてよくよく考える。だから「ビッグデータ」なんてものでたどり着けるよりもずっと深いところまで手が届くのだ。

 

  • ジョン・リストは、1995年に博士号を取って仕事探しを始めたとき、そういうのとはまた別の種類の差別に直面した。ジョンは数件の実地実験をやり遂げ、150件を超える学界の仕事に応募していたが、採用面接までたどり着いたのはたった1件だけだった。あとになって、ほとんど同じ条件の人たちが、40件ほど応募しただけで30件の採用面接に呼ばれたのを知った。ジョンとそういう他の人たちとの主な違いは、ジョンが博士号を取ったのがワイオミング大学で、他の人たちが博士号を取ったのはハーヴァードとかプリンストンとかの「ブランド」校だったことだった。雇い主は応募者をふるいにかけるのにそういう情報を使うのだ。実質的に「持てる者」と「持たざる者」を差別しているのだった。

 

  • カーシの人たちとの実験で、性差に関する長年の争点についていくつかわかったことがある。もちろんぽくたちがそうやって女性の振る舞いを調べたのは世界のほとんどとは違う社会だ。でもそこがミソなのだ。父系社会の文化的な影響を可能な限り引っぺがせる。カーシ族の場合でいうと、女性は平均で、男性の平均よりずっと高い割合で競争を選んでいる。もっと簡単に言うと、狂言回しは生まれだけじゃないってことだ。カーシ族では育ちは王様ーというかこの場合女王様ーなのである。
  • ぼくたちの調査によると、適当な文化の下では女性は男性と同じぐらい負けず嫌いになるし、女性のほうが男性より競争を好む、そういう状況がたくさんある。それなら、仮に男性が女性より自然と競争を好むのは進化によるものだとしても、競争力があるかないかを決めているのはそんな進化だけではないということになる。文化的なインセンティヴがそうなっていれば、普通の女性のほうが普通の男性より競争を好むだろう。

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  • よくある仮定によると、女性は男性よりも、漁業資源や牧草地といった公共財に配慮ができる。ぼくたちはカーシ族と近くに住むアッサム族の村でこの仮定を検証した。アッサム族の村は父系社会だ。検証には経済学の標準的なゲームである「公共財ゲーム」を使った(この呼び名は、人びとが全体のために、手入れの行き届いた国立公園やきれいな空気といった公共財を提供できるようお金を出し合うときに起きることを模しているところから来ている)。
  • それぞれのグループに次のような同じ指示を与える。「このゲームでは、コミュニティのために投資を行うか、それとも自分に投資を行うかを選択してもらいます」。参加者の一部には次のように伝える。「自分に投資したお金は1ルピーあたり1ルピーの報酬を投資した人にもたらします。グループ交換に投資したお金は1ルピーあたり1.5ルピーの報酬を、投資した人ではなく、グループ全体にもたらします」
  • カーシ族の社会についてここまででわかっていることから推測して、カーシ族の人たちのほうがグループ全体のためによりたくさん投資する傾向があるのではないか、そう思った皆さん、正解です。カーシ族は男性も女性も、アッサム族の人たちより、グループにたくさんお金を投資している。基本的に、カーシ族のほうが男性も女性も、身勝手な人が少ないことがわかった。この結果からこんな疑問が湧く。女性が「仕切る」社会はぼくたちがこんにち生きている社会と大きく違っているのだろうか?

 

  • 対照的に「利得フレイミング」グループの生徒たちには、前回より試験の点が上がったら試験が終わってすぐに20ドル貰えると伝えた。でも20ドルは試験の前に
    は受け取れない。お金は彼らの目の前にないわけだから、彼らは点がよくなれば20ドルを得る立場にある。3つ目のグループの生徒たちには、前回より点が上がった人にはそれぞれ20ドルあげるけれど1カ月後だと伝える。4つ目のグループでは点が上がった人は3ドルのトロフィを授与される。ぼくたちは実験では必ず対照グ
    ループを設定している。このグループにはご褒美はあげない。ただ、がんばって前回よりいい点を取ろうと励ますだけだ。
  • ぼくたちの設定したインセンティヴはものすごい効果を上げた。全体の成績は100点満点で5点から10点の改善を見せ、郊外のお金持ちの子弟に迫るところほで行った。ご褒美が出るなんて、生徒たちは試験が始まる直前まで知らなかった。なのに成績は目に見えてよくなった。ということはつまり、人種間の成績格差は知識や能力の差ではなく、単に、試験を受けるに当たっての生徒のやる気が原因の大きな1つだということになる。
  • この結果から、何が生徒をやる気にさせるかを理解するのがとても大事なのがわかる。彼らは試験なんてあんまり興味がない。でも、お金によるインセンティヴを与えられると成績は跳ね上がった(ああいうインセンティヴだけじゃなく勉強して準備する時間も与えたらどんなことになっていたか考えてみてほしい)。この実験の目的は他の学校でも使えるインセンティヴの仕組みを設計することではなかった。ぼくたちが求めていたのは、成績格差の原因は知識の違いなのか、試験自体を受けるときのがんばりの違いなのかを区別できる分析用具だった。この疑問の答えがわかれば、格差を埋めるために打つべき手を考えられるはずだ。
  • そのうえで、インセンティヴはそれぞれのグループで違った働きをした。具体的には、年上の生徒たちはお金にとてもよく反応したが、年下の子たちはむしろトロフィのほうがお気に召していた。2年生、3年生、そして4年生の子たちは、試験の前に3ドルのトロフィを見せられて、成績が12 %もよくなった。とても大きな反応だ。実のところ、これは学年の人数を3分の1減らすとか、先生の質を大幅に改善するとか、それぐらいのことをやらないと期待できない反応の大きさなのである。・・・インセンティヴはお金の姿を取らなくても構わない。場合によっては、そして人によっては、トロフィ(あるいはお花、あるいはチョコレートーそれこそなんでも)が、大きな力を発揮する。
  • ぼくたちの予想したとおり、生徒に事前にご褒美を渡したほうがーそのうえで成績が上がらなければそれを取り上げると脅したほうがー事後にお金を渡すと約束するよりも、試験の成績はずっと大幅に改善した。実は、1カ月後に20ドルあげるよと約束しても成績はまったく改善しなかった。ここでもやはり、インセンティヴは「負けたら取り上げる」みたいな形のほうが「勝ったらご褒美、後であげる」みたいな形よりうまくいくようだ。それがどうしてだか考えるために生徒の立場に立ってみよう。成績が上がったらお金をあげるよと言われた場合、新しいスケートボードを買おうなんてことを、試験を受ける前から考えていれば成績は大幅に上がるだろう。幼い子やティーンエイジャーだと、この世は今がすべてだ。ぼくたちの実験で、彼らをやる気にさせるのは本当はどんなことかがわかった。
  • ぼくたちが得た結果によると、先生たちがいったん手にした報酬を取り上げられるかもしれない可能性に直面すると、生徒たちの成績は数学で約6%。国語で約2%跳ね上がった。この手のインセンティヴは、先生たちがチームで働くととくにうまくいくようだ。全体として、生徒たちの成績は4%から6%改善した。この結果は驚異的というほかない。

 

  •  『差別の経済学』での研究を講演して世界中を初めて回ったとき、他の経済学者がよく口にする不満は「こんなの経済学じゃないでしょ」だった。煎じ詰めると、彼らのベッカーに対する異論はこんなふうだった。「この研究がどうでもいいとかつまらないとか言ってるんじゃない。言ってるのは、こういうのは心理学とか社会学とか、そういうのをやる連中にやらせとけってこと」。それが変わりだしたのは1960年代に公民権運動が起きたときだった。すぐに世の人たちは差別と経済学という問題にものすごく興味を持ち始め、真剣にこの問題を扱った本といえば、ベッカーが書いたものしかなかった。
  • 「急に、影響力の大きい人たちがぼくの本を読み始めた。それからは雪だるま式だった」とベッカーは言う。1971年に同書は2回目の改訂とともに再版され、
    今では古典的著作に数えられている。この本でぼくたちの差別に関する認識が完全に変わったからだ。1992年にノーベル委員会がベッカーにノーベル記念経済学賞を授与したとき、委員たちは『差別の経済学』をとくに誉めそやしていた。「ゲイリー・ベッカーの分析はおうおうにして物議をかもし、最初は懐疑や不信を持って迎えられた」。ベッカーの受賞を発表するプレス・リリースで、ノーベル委員会はそう述べている。「それでもベッカーはくじけず、自分の研究を貫き通し、経済学者にも彼の考えや手法を受け入れる人がだんだん増えていった」

 

  • 実は、同性愛のカップルがどんな扱いを受けるかは、販売担当者の人種に強く影響されていた。(アフリカ系やヒスパニック系の)少数民族の販売担当者は、多数民族(つまり白人)の販売担当者よりも、同性愛のカップルを差別する割合が高かった。同性愛のカップルが値段を尋ねると、少数民族の販売担当者は多数民族の販売担当者より、平均で1233ドル高い値段を提示している。そればかりか、少数民族の販売担当者は同性愛のお客に接すること自体避けているようで、試乗しませんかとかもっと安い車はいかがですかとか提案することさえ少なかった。つまり少数民族の販売担当者は同性愛の人たちとやりとりするぐらいなら販売手数料を喜んで諦める傾向があることになる(だからって少数民族の販売担当者はどいつもこいつもそんな態度だってことではない。そういう人が多かったというだけだ)。
  • 買い手が同性愛のパートナーだという態度を取ると、少数民族の営業担当者は車を売るインセンィヴをやり過ごしてしまう。そんなことになっている理由として1つ考えられるのは少数民族の人たちは、自分は信心深いと認識していることが多く、そして宗教の多くが同性愛は間違っていると教えていることだ。一部の研究によると、信心深い人たちは、性的指向は選択するもので、生まれつきのものではないと信じていることが多い。ピュー研究所の信仰と国民生活フォーラムが2007年に行ったアンケート調査によると、アメリカの黒人は「さまざまな面でアメリカ国民一般よりも顕著に信心深い」。(そんな可能性を示唆するのは、ぼくたち自身の研究も含め、太りすぎとか同性愛とかといった状態について人間は「選択」できると感じる場合、人はそういう状態の人を差別する傾向がある、との研究結果があるからである。つまり、自分でなんとかできることなのに、ということだ)。

 

  • 「あなたが何が好きで何が嫌いか、企業は膨大な情報を溜め込んでいる。でも彼らがそんなことをするのは、あなたが面白い御仁だからと言うだけではない。彼ら走れば知るほどお金が儲かるのだ。」それでもなお、別にかまわないというのもありうる。情報を集めてそれでお金を儲けて、いったい何がいけないんだろう?いけないのは、企業がそういう情報を使って消費者をひどい目に合わせているからだ。セイラーの解決策は、企業はあなたに、あなた自身に関するデータを開示しなければならない、という法律を議会が作ればいい、というものだった。情報の中身を知れば、どれが自分に不利に働くのかがわかる。あるいは、自分のニーズに合った製品やサービスを見つけられる。あなたに関する情報をあなたと共有しないといけないなら、企業もあなたの利益に反するような使い方はとてもしにくくなるだろう。そういう企業のせいでぼくたちはとても複雑な選択をする羽目になっていて、データがないと賢い消費者として行動できなくなっている、セイラーはそう主張している。
  • セイラーの解決策はいい出発点だ。でも本当にああいう差別をなくしたければ、自分に関するデータを自分で手に入れられるようにならないといけないし、さらに、企業がそういうデータをどんなことに使っているのかわからないといけない。
  • 結局、差別の仕組みをもっと深く理解すればその分だけ世界は必ずよりよい場所になるのだ。1992年のノーベル賞受賞記念の晩餐会で講演したとき、ゲイリー・ベッカーはこう言っている。「経済学の目では、どうやっても人生はロマンティックには見えてきません。でも、世界のあちこちに蔓延する貧困、苦しみ、危機は、ほとんど全部、なくていいはずのものであり、それらに触れるたび、経済や社会の仕組みを理解すれば人びとの幸せに大きな貢献ができるのだとの思いを強くするのです」。あなたが今では差別をより深く理解してくれて、インセンティヴが偏見ある行動と決定的に結びついているのをわかってくれたと思いたい。

 

  • 興味深いことに、宝くじの要素を加えると、寄付を募るだけの場合よりも、寄付の総額はだいたい50 %ほども増えた(ぼくたちはこれを宝くじ効果と名づけた)。宝くじを付け加えると寄付をする人は増えた。寄付を募るだけの場合に比べて、寄付をしてくれた人はだいたい2倍になった。寄付を募る人たちにとって、宝くじは「いいひとリスト」を作る道具になる。つまり将来の募金運動のときにあてになる、積極的に寄付をする人たちの大きなグループだ。その意味で、宝くじは寄付を募る人にとって「2度おいしい」。つまり、そのときの募金がよりたくさん集められる可能性が高くなるし、同時に、将来寄付を集めるときのいいひとリストを広げられる。
  • また、さもありなん、という発見が他にもあった。寄付を頼みに来る人が美しければ美しいほど、集まる寄付は大きくなる。ぼくたちはこれを「美形効果」と名づけた。容姿の魅力を測るために、最初の面接のとき、IDバッジを作ると言って、寄付を集めて回る人たちのデジタル写真を撮った。そうしておいて、勧誘担当者3人分の写真をファイルに収めた。ファイルをカラーで印刷し、152人(メリーランド大学カレッジパーク校の学部生)にそれぞれ別個に容姿を評価してもらった。
  • 評価する人たちはジーンなどの勧誘担当者の容姿を1から10の尺度で評価する。ジーンは8点の高い評価をもらっていて、能力の点では同程度だが容姿の評価は6点である他の女性より50 %ほども多く募金を集めた。まあ当然といえば当然なんだろうが、男性が訪問に応えた場合、勧誘担当者は女性であるほうが募金はたくさん集まる。ジミーはスタンよりずっと魅力的だとの評価を受けていて、スタンより集めたお金は多かった。でも、女性のほうが男性である彼らより、たくさんお金を集めている。
  • ぼくたちにとって興味深かったのは、美形効果が存在するということそのものではなかった。美形効果の大きさだった。美形効果は宝くじ効果に匹敵するぐらいの大きさだったのだ。つまり、勧誘担当者の美しさが6点から8点に上がると、宝くじの話を付け加えるのと同じぐらい寄付が増えているのだ。
  • 美形はともかく、宝くじは長い目で見て本当に寄付に意味のある違いをもたらしてくれるのだろうか?最初の実地実験から何年も経ってから、ぼくたちは別の実地実験を行うべく、同じ地で再び寄付を募った。当時、宝くじに惹かれて寄付をした人たちは、その後も高い割合で寄付をしていることがわかった。でも、以前ジーンの美しさにつられて寄付をした男性たちは、別の同じぐらい美しい人が勧誘にやってこないと寄付をしてはくれなかった。
  • 美形効果が生涯を通じて寄付を呼び込んではいないのはぼくたちにとって驚きではなかった。大昔にカワイコちゃんがやって来たってだけでは、慈善活動を支え続ける理由にはならないのだ。それでも、宝くじに惹かれて寄付をした人たちは、その後何年も寄付を続けていた。これは、慈善団体は結果を出すことに賭けていると参加者に感じさせる設定の実験ととても似ている(その話はこの後すぐ)。最初にシードマネーを投資するのと同じように、宝くじは、その慈善団体が「なにごとかを得るためになにごとかを差し出している」というシグナルの働きをする。加えて、その慈善団体は末永く活動を続けるというシグナルにもなる。

 実験しないと生き残れない

  • ぼくたちはみんな、人が寄付をするのは他の人を助けたいからだと決めつけている。でも実地実験が何度も何度も示したように、本当はだいたいの人が寄付をする理由はもっと自分本位だ。哀しいことに、慈善団体はまだそれがわかってない。人に財布を開けさせようと、慈善団体は脈々と受け継がれてきたノウハウや公式に頼ったいろいろな手口を使ってきた。シードマネーで33 %はすでに調達できていると発表したり、3対1のマッチング・ギフトを実施したり、ダイレクトメールで支援を訴えたり、そんなやり方だ。そんなやり方をすることで、彼らはお金を取りこぼしている。
  • さまざまな実験スマイル・トレインでのキャンペーン、シエラ・クラブ、中央フロリダ大学、国中の街角なんかのさまざまな場所で行われた実験の結果を見ると、慈善活動への寄付について長年用いられてきた仮定の一部は穴がありすぎて、水は漏れっぱなしみたいだ。正直、きれいな女の人が頼めば男どもの寄付する額が増えるなんていうのはあんほり驚くところじゃないけれど、スマイル・トレインに寄付する人たちが封筒を開ける可能性は、封筒の写真でこちらをじっと見つめている子どもが自分と同じ人種であるときのほうが高いというのは驚きだった。カーリー・サイモンの声色で言うと、ぼくたちは(みんな)「うつろだ」。
    つまり見栄っ張りだ。そしてぼくたちは、自分で決心してあえて慈善活動に自分のお金を投じたと感じないと気が済まない。ぼくたちの結論は単純だ。慈善団体は前任者から引き継いだ定石を捨てて、もっと実験をしないといけない。そうしないと競争に勝ち残れない。

 

  • 管理職は変化に伴う不確実性や未知の事柄に腰が引けたりすることもある。新しいことを始めず、これまでのやり方をなぞっていれば、慣れもあるし、うまくいっている間は、その方が安全な気もする(「壊れてないなら直しちゃだめだ」)。また管理職は、会社の業績を高めるために解決策を提供し、難しい判断を下すのが仕事だと思っている。つまり、会社が直面する難題に対して、自分は最初から答えをもっていないといけない、そう思っているのだ。実験なんてやらかせば、自分はわかってないですって言いふらすようなものだし、自分が持っているはずのノウハウに傷がつくかもしれないーそれじゃ仕事ができてないみたいに見えるじゃないか、そういうことだ。
  • そういう壁を乗り越える道は2つある。トップダウンボトムアップだ。まず、会社の経営陣は、よくある「目先の利益を上げろ、話はそれからだ」という脳みそのあり方を変えて、クックやマキャリスターがやったように、会社の業績を改善する実験を奨励し(それこそ報い)ないといけない。このやり方をするなら、実験を計画して実行し、データを分析し、結論を引き出せるよう人を雇い、訓練しないといけない。次にボトムアップのやり方なら、組織のもっと下位の人たちが小規模の実地調査を行って結果を管理職に報告し、管理職の人たちに実験を行うことに伴うコストとメリットをわからせないといけない

プラットフォームの経済学

デジタル時代の基礎教養、教科書です。白眉は11章。クラウドを活用できない(どころか理解できない)日本の古きよき大企業がなぜ今のような苦境に陥り、そして今後どうなっていくのか、一目瞭然です。
 
  • チェスのグランドマスターであるエドワード・ラスカーは、こう語った。「チェスの複雑なルールは人間にしか作ることができない。だが碁のルールは、さらにエレガントで、有機的で、崇高なまでに論理的だ。宇宙に知的生命体が存在するとしたら、まちがいなく彼らは碁を打つだろう」。

 

  • マイケル・レドモンド(日本棋院九段)は、こう語る。「先を読み、こう打つのが正しいと確信する。なぜ正しいと感じたのか、説明することはできない。ただわかったのだ」と。べつに、碁の名手がとりたてて口下手だというわけではない。人間は、自分の知っていることすべてにつねにアクセスできるとは限らないのである。たとえば他人の顔を見分けるとか自転車に乗るときなど、どうやってそれができるのか誰しもうまく説明できないだろう。暗黙の知識を明示するのはむずかしい。このことを、20世紀に活躍したハンガリー出身の物理化学者にして社会科学者のマイケル・ポランニーは、「われわれは語れる以上のことを知っている」とみごとに言い表している。
  • 以来、明示できない暗黙知が存在することを「ポランニーのパラドックス
    と呼ぶようになったが、これがコンピュータに碁を教え込むうえで決定的な障害となってきた。人間が碁の戦略を言葉にできないとしたら、いったいどうやってプログラムを書けばよいのか。いくつかの経験則をプログラムに書くことはできるとしても、それでは名手に勝つことはできまい。

 

あとから見れば当然のことが、なぜそのときは気づかないのか?

  • 後知恵でははっきりわかる技術の進歩が、当事者にとってなかなか理解できないのはなぜだろうか。それも、聡明で経験豊富で、そのうえ当の技術の変化に最も影響を受ける人や企業が、最も理解するのが遅いのはなぜだろう。
  • さまざまな分野で行われた研究は、同じ結論に達している。旧来の技術に習熟し、知識と経験を積み、現状で成功し繁栄しているからこそ、次に来るものが見えないのである。だから、新しい技術の潜在性にも、それがもたらす変化にも気づかなかった。このような現象は、「知識の呪い」とか「現状維持バイアス」などと呼ばれている。現状を大きく転換あるいは転覆させるような何かに対して心の目が閉じてしまう傾向は、現状での成功者に必ずと言っていいほど備わっているものだ。
  • 工場への電気の導入は、まさにその一例である。電気への移行期については多くの研究が行われており、研究者の意見はおおむね一致している。経済学者のアンドリュー・アトクソンとパトリック・J・ケホーは「電気への移行期の始めの頃は、メーカーはそれまで蓄積した膨大な知識を放棄することをいやがった。彼らの目には、電気は蒸気機関をいくらか上回るという程度にしか見えなかったからだ」と指摘する。経済史家のポール・デービッドとギャビン・ライトは、電気の可能性に気づくのがあれほど遅れたのは、「それまでの仕事のやり方や製品のあり方を根本的に変えるような組織の変革、さらには意識改革が必要だったからである」と結論づけている。

 

  • 私たちは、歴史から、また近年の研究、最近の事例や動向、私たち自身の調査から、多くのことを学んだ。そこから導き出したいくつかの結論は、きっと読者にとって価値のあるものだと信じる。本書を読み進むとわかるように、その多くは経済学に根ざしている。なぜ経済学なのか、と読者は思われただろうか。その疑問に対するみごとな答は、オーストリアの経済学者カール・メンガーが1870年にしてくれた。「経済学という学問は・・・人々が自分のニーズを満たすというつつましい行動をとるときの条件に関心がある」。もうすこしくわしく言えば、経済学は、組織や個人が自分たちの置かれた環境をどう理解し、どのように未来を形成していくか、また、人々が自己の目的実現のためにモノやサービスや情報を収集・交換したら何が起きるかを研究する学問である。経済学がこれらについて生み出してきた多くの知識と理論が、マシン、プラットフォーム、クラウドの今後を分析する土台になっている。

 

  • 2106年10月に、Microsftの研究部門が驚くべき発表をする。同社のニューラルネットワークが「会話における音声認識で人間と同等の役割を果たす」ことに成功したというのである。彼らのシステムは、決められたテーマに関する議論でも、家族や友人との会話でも、プロのトランスクリプショニスト(テープ起こし)よりも正確だった。この結果について意見を求められた言語学者のジェフリー・パラムは「生きているうちにこの日が来るとは思っていなかった。1980年代には、連続音声認識を完全に自動で行うのはあまりに困難だと考えていた・・・ところがエンジニアは、統語解析もまったく使わずに、この偉業をやってのけた・・・彼らが使ったのは、純粋な工学と、膨大なデータに基づく統計モデルだけだ・・・それなのに私は、この日が来るとは思いもしなかっただけでなく、絶対に来ないことに自信満々で賭けていたのだ」。
  • 伝説的な計算機科学者フレデリック・ジェリネクは、「言語学者を一人クビにするたびに、音声認識システムの精度が上がる」と語ったとされる。この発言は、人工知能の開発がルールに基づくアプローチから統計的アプローチに移行した理由を端的に説明しているといえよう。2010年代半ば頃には、音声認識システム開発チームの大半から言語学者は姿を消した。時を同じくして、性能の飛躍的向上が世界を驚かせたのである。これからも世界は何度も驚くことになると私たちは確信している。

 

  • 2015年の世界のプラスチック生産量は、2億5000万トンに達した。現代の自動車では、大きさも形もまちまちなプラスチック部品が1台当たり2000個以上使われている。ブラスチック部品を作るには、まず金型を作らなければならない。金型に熱く溶けた樹脂を流し込み、強い圧力をかけて型の隅々まで行き渡らせ、その後に冷却して成形する。
  • 金型が必要だということは、三つのことを意味する。第一に、型から数万数百万個を生産するのだから、非常に精密でなければならない。精密加工ができる材料であることに加え、耐久性も求められる。これらの条件を満たすとなると、高価にならざるを得ない。第二に、型を作る必要上、生産する部品に制約が課される。単純な形状のものなら問題ないが、たとえば噛み合う部品を一つの型から成形することはできないし、内部形状があまりに複雑だと型から外せない。また部品が複雑になるほど型も複雑になるため、溶かした樹脂を型の中に空隙なく均等に流し込むことがむずかしくなる。第三に、型から成形する場合には、加熱と冷却がポイントになる。十分に冷えてないうちに型から外すのはもちろんダメだが、必要以上に冷却するのは非効率だ。ところが型が冷える速度は一様ではない。部品の精度と生産効率との精妙なバランスをとることが要求される。
  • こうした中、30年ほど前から、さまざまな技術者がそもそも型は必要なのか、と考え始めた。そして紫外線硬化樹脂メーカーに勤務していたチャック・ハルが、紫外線硬化樹脂にレーザーを照射して硬化させた層を積み重ねて物体を造型するアイデアを考案し、1980年代に特許を取得する。これが光造形方式と呼ばれる最も古い方式で(現在も主流である)、当時はラピッドプロトタイピングと呼ばれていた。読んで字の如く、模型を短時間で作る技術である。その後、インクジェットプリンターの原理を応用し、ノズルから材料を噴射して造形するインクジェット方式が開発され、3Dプリンターという名前が定着した。方式はどうあれ、一層二層材料を積層して造形する積層造形技術であり、型がいらない点は共通する。
  • 型が不要の造形方式によって、大きな可能性が開けた。まず、GEの3Dプリンター開発プロジェクトに携わったルアナ・イオリオ曰く、「複雑な形状がタダになる」。つまり、単純な形状でも複雑な形状でもコストは変わらない。どちらも非常に薄い層の積み重ねという点では同じだからである。中空構造や複雑な内部形状もお手の物だ。また粉末状の金属にレーザーを照射して焼結することで、金属材料も扱えるようになった(粉末焼結積層方式)。チタンなどの硬い金属は機械加工がむずかしいが、このやり方なら容易に造形できる。つまり硬度もタダになると 言えるだろう。
  • 複雑な形状にも硬度にも余分のコストがかからないとなると、従来の多くの制約が緩和される。たとえば、プラスチック部品を作るための金型には水管が配置され冷却のスピードアップを図っているが、3Dプリンティング技術を使えば、より効率的な形状の水管を最適配置することが可能になる。これは、コンフォーマル冷却ソリューションと呼ばれている。その結果冷却効率が大幅に向上し、部品の製造時間は20~35%短縮されると同時に、品質も向上した。

 

  • 人間の感情や社会的衝動とうまく付き合いながら仕事を進める能力は人間ならではのものであり、この状況はかなり先まで変わらないだろうと私たちは考えている。・・・セカンド・マシン・エイジが進行するにつれ、人間とマシンの新たな組み合わせが考えられそうだ。意思決定や判断、予測、診断といった仕事はマシンに任せる。そして、マシンの下した決定なり判断なりを必要に応じてわかりやすく説明し、受け入れるよう説得するのが人間の仕事になる。
  • たとえば、医療はその代表例となるだろう。病気や症状の診断は基本的にパターンマッチングであり、医療情報のデジタル化と機械学習の進歩などのおかげで、コンピュータは人間を上回る成果を上げるにいたっている。放射線医学、病理学、腫瘍学などきわめて専門化した分野では、診断技術のデジタル化がまだ進んでいないとしても、すぐに進むと断言できる。マシンの診断結果を人間がチェックするのは結構だが、主たる判定者はマシンであるべきだ
  • だが大方の患者は、マシンから診断結果を聞かされるのはいやだろう。患者の置かれた状況に共感し、つらい知らせを受け入れやすくしてくれる専門医から説明を受けたいはずだ。そして診断が確定してからは、医療のプロフェッショナルたちが患者に接し、社会的衝動を受け止め、治療を滞りなく受けられるようによい関係を築くことが大切になる。治療の手順がきちんと守られないと、患者の健康にとってよくないことはもちろん、アメリカでは処方薬だけで年間2890億ドルの無駄になっているという
  • 未来の進化した医療システムにおいても、人間の役割はけっしてなくならず、むしろ重要な価値を持ち続けるだろう。ただし、今日と同じ役割を果たすわけではなさそうだ。有能な診断者やヒッポとしてではなく、感情の機微を理解するケアコーディネーターとして表舞台に登場することになると考えられる。
  • 未来の病院には人工知能と人間と犬が雇われることになりそうだ。AIの仕事は患者の診断である。人間の仕事は診断結果を理解し、患者に伝え、治療に当たることだ。犬の仕事は、AIの診断結果にケチをつける人間に噛み付くことである。

 

  • 1990年代半ば頃のアメリカでは、フィルムの現像を頼んだり、できあがった写真を取りに行ったりするためにショッピングモールに立ち寄る人がかなりいた。1997年の時点で、フィルム、カメラ、現像代を含む写真関連産業は年商100億ドルを誇る一大産業だった。1995年に消費者向けの最初のデジタルカメラであるカシオのQV10が発売されたが、当時はさほどヒットしていない。900ドルという価格は高すぎたし、内蔵メモリに保存できるのは低解像度(0.07メガピクセル)の写真96枚だけだったからである。1世紀の歴史を誇る老舗Kodak (コダック)の株を買っている投資家たちは、カシオなど敵ではない、デジタルカメラなど恐るるに足らない、と考えていた。1997年第1四半期に、Kodak時価総額は3100億ドルと過去最高を記録している。

 

  • インターネットは、無料という概念を二つの方向に押し広げたという点で、とりわけ強力なネットワークだ。第1に、インターネット経由で楽曲なり写真なりのコピーを送るのに追加費用はかからない。というのも、いまでは大方の人が従量制ではなく定額制で契約しているからだ。だから、一度契約してしまえばあとはいくら使おうと料金は変わらない。第二に、すぐそこに送るのも、地球の裏側に送るのも、料金は変わらない。インターネットの構造上、物理的な距離は無関係だからである。ジャーナリストのフランシス・ケイルンクロスは、情報伝達の阻害要因が一つなくなったことを指して「距離の死」と表現した。

 

増殖するプラットフォーム

  • プラットフォームの経済学、ムーアの法則、そして組み合わせ型イノベーションは、多くの産業、とりわけ既存の大手企業を驚愕と混乱に巻き込んでいる。ここでは、eコマースの巨人Amazonによる驚きのイノベーションを紹介しよう Amazonは企業規模が拡大するにつれて、さまざまな新しいニーズに直面するようになった。たとえば、顧客の注文履歴をすべて保管し、以前に購入していた商品をカートに入れたらメッセージでお知らせできるようにしたい、また顧客がほんとうに欲しいものをリコメンドできるようにしたい・・・などである。このほか、アフィリエイトの支払計算を高速化したい、広告費の処理を合理化したい、といった課題もあった。そこでCEOのジェフ・ベゾスは最高情報責任者兼上級副社長リック・ダルゼルに、システム間の「インターフェースの強化」を任せる。強化するとは、ここではどのシステムへのアクセスもつねに一定の手続きで行うようにし、便宜的なショートカットなどはいっさい排除するという意味である。かくしてダルゼルは社内のシステムを総点検することになった。要はすべて標準的なインターフェースで統一する作業で、じつに面倒ではあるが、技術的に目新しいところは何もない。この作業が完了した暁には、Amazonには分散型ITインフラが整備されたことになる。つまり開発チームは、必要なときに必要なだけコンピューテイングリソースやストレージリソースにアクセスして作業し、全体として生産性と俊敏性を高めることが可能になった。
  • そしてAmazonは、自分たちが強力な新しいリソースを手にしたことに気づく。ストレージスペース、データベース、処理能力といったITリソースがモジュール化され、いつでも必要に応じてくっつけたり切り離したりできるのである。しかもAmazonの高速インターネット接続をもってすれば、世界中のどこからでも瞬時にアクセス可能だ。どうだろう、これだけのリソースを使いたがる人がいるのではないか? データベースを構築したいとか、ウェブサイトを立ち上げたいとか、とにかく何かITリソースを制作したいが、そのために必要なハードウェアやソフトウェアを自前で整えるほどの資金はないとか、買ってすぐ陳腐化したりメンテナンスやセキュリティ対策に頭を悩ますのはいやだという人がきっといるのではないだろうか?
  • というわけでAmazonは2006年にAmazon Web Service (AWS)を開始する。AWSクラウドサービスのプラットフォームであり、最初にリリースされたのは、ストレージサービスとコンピューテイングサービスだった。はやくも1年半後には、29万人以上がこのプラットフォームを利用したと同社は発表している。その後、データベースやアプリケーションなど新しいツールやリソースを増やしていき、現在も急成長を続けている。2016年4月には、AWSAmazonの総収入の9%を占め、営業利益のなんと半分以上を上げた。ドイツ銀行のアナリスト、カール・ケアステッドは、エンタープライズIT業界で史上最速ペースで成長した企業としてAWSを挙げている。この発言にAmazonの株主はさぞ喜んだにちがいない。実際、AWSがサービスを開始した2006年7月11日からの10年間で、Amazonの株価は2,114%(一株35.66ドルから753.78ドルへ)も上昇している。
  • プラットフォームの破壊的威力を示す好例として、音楽業界を外すわけにはいかない。音楽業界はプラットフォームの大波に三回も翻弄された。CDなどの売り上げは、2000年から2015年までの15年間で370億ドルから150億ドルへと半減している。この時期に人々が音楽をあまり聴かなくなったわけではない。
  • ふつうの消費者が音楽を入手する主な手段といえば、iTunesが登場するまでは、アルバムな買うことだった。2002年(iTunes登場の前年である)におけるCDの販売量では、アルバムとシングルの比率はじつに179対1だったのである。だが消費者がほんとうに聴きたいのは、アルバムの中の1曲か2曲程度であることが多い。だいたいは、ラジオか何かで耳にしたことのあるヒット曲である。だから、アルバム全体をリスナーに味わってもらいたいアーティスト(およびアルバムを売って収入を増やしたいレコード会社)と、お気に入りの一曲か二曲だけを聴きたい大方の消費者との間には、ミスマッチが存在していた。AppleiTunesは、このミスマッチを消費者が望む方向にすっぱりと逆転させたのだった。消費者は、完全な楽曲を瞬時にiTunesで手に入れることができる。無料ではないが、アルバムを買うことを考えればはるかに安上がりだ。
  • それまでひとまとめになっていて切り売りできなかったものを切り離す、というのはプラットフォームに共通する特徴の一つである。iTunesは、アンバンドリングを当たり前にしたと言えるだろう。消費者がiTunesのやり方を支持したとなれば、著作権者としても無視するわけにはいかない。ネットワークの規模が拡大し高速化するにしたがって、楽曲のアンパンドリングはますます魅力的になった。考えてみてほしい。1曲ずつ録音されたCD10枚を消費者の元に届けるとしたら、1枚だけのときに比べてコストは10倍かかる。となれば、10曲をひとまとめにして1枚のCDに収録するほうがよい。これが、アナログの経済学である。だがネットワーク上では、ビットを送るコストは事実上ゼロである。となれば、楽曲を切り売りするのになんの不都合もない。これが、ネットワークの経済学である。
  • とはいえ、アンバンドリングで話は終わらない。Netscapeネットスケープ)の元CEOジム・バークスデールはかつてこう言った。「金を稼ぐ方法を私は二通りしか知らない。バンドリングとアンバンドリングだ」。そして彼の言うとおり、音楽に関しては両方が当てはまった。渋々ながら楽曲の切り売りに同意した著作権者たちは、今度は音楽プラットフォームの第3の波に脅かされることになる。それが、Spotify (スポティファイ)やPandora (パンドラ)に代表される音楽ストリーミング配信サービスだ。このサービスでは、巨大な音楽ライブラリから1曲ずつ聴くもよし、無限の組み合わせのプレイリストを作るもよし、ユーザーの傾向からサービス側がおすすめしてくれる曲を流すもよし、と言う具合に魅力的な提案をしている。
  • 無料、完全、瞬時の環境に出現したもう一つの予想外の出来事は、モノが従来とはちがう新しいやり方で再びバンドルされるようになったことである。とりわけ音楽サブスクリプション(定額制音楽配信サービス)のような情報財は、売る側にすれば一曲ずつ切り売りするより利益が大きいし、消費者にとっても時間の節約になる。大方の消費者は、次にどの曲を買おうかなどということに頭を悩ますよりも、毎月すこしばかりの料金を払って聴き放題にするほうを好む。この現象は、心理学でも(意思決定をするのは、とくに支出が絡む場合、面倒である)、経済学でも(モノをバラ売りするよりうまくバンドルして売るほうが儲かる)説明がつく。だがモノがデジタルでない場合には、このビジネスモデルは成り立たない。大量のモノをバンドルするとなれば、中には使わないモノも含まれるだろう。使わずに終わるモノの限界費用がほとんどゼロなら(音楽配信がそうだ)、そういうモノが含まれていても問題ではない。だがそのモノがアナログなら(たとえばレコードやCDなら)、全然使いもしないものを大量に送りつけるのはコストがかかり、利益を損なうことになる。
  • 定額制の音楽配信が消費者に支持されることがわかると、ストリーミング配信サービスは爆発的な勢いで伸びていった。2016年前半には、ストリーミング配信がアメリカの音楽関連収入の47%を占めるにいたる。Spotifyは地上波のラジオ音楽番組に倣って著作権者に利益を分配しているが、その金額は、平均するとリスナー1人1曲当たり0.007ドルにすぎない。しかもラジオ聴取者は気に入った曲のCDをあとで買うかもしれないが、Spotifyのリスナーはまずもってそんなことはしない。一カ月100ドル足らずを払えば聴きたいときに聴きたい場所で何度でも聴けるのだから。この意味で、ラジオ局とレコード会社は持ちつ持たれつの関係にあったが、Spotifyは、レコード会社に取って代わるものとなっている。かくしてストリーミング配信サービスは、消費者の購買行動を変えた。聴きたい曲だけをばらして買っていた消費者が、今度はサブスクリプションという新しい形でバンドルされた楽曲を買うようになった。
  • 大物シンガーソングライターのテイラー・スウィフトは2014年11月に、自分の曲をSpotifyから引き揚げると発表し、「ファイル共有とストリーミング配信は、アルバムの売り上げを激減させた。アーティストはこの打撃に立ち向かうべきだ」と述べた。だが大方のアーティストは、大勢に逆らうつもりはないようだ。無料、完全、瞬時のアーキテクチャはあまりに強力で、到底無視できないということだろう。
  • この先、同じパターンがもっと増えるにちがいない。経営学者のジェフリー・パーカー、マーシャル・バン・アルステイン、サンギート・チョーダリーは著書『プラットフォーム革命』の中で「プラットフォームが出現した結果、従来の経営手法のほとんど全部が覆されようとしている。われわれは不安定の時代を迎えており、どの企業、どの経営者もその影響から逃れられない」と書いているが、まったくその通りだと思う。

プラットフォーム戦争

  • プラットフォームで先陣を切ったAppleApp Storeがはなばなしい成功を収めると、当然ながら、負けてはならじと追随する者が現れた。追随した企業の戦略からも、プラットフォームの経済学についてさらにいくつかのヒントを学ぶことができる。
  • 2005年にGoogleは、ほとんど無名のスタートアップAndroid (アンドロイド)を5000万ドルで買収した。ハイテク系著名ブログであるEngadget (エンガジェット)は当時、「GoogleがなぜAndroidを買収したのか、理解に苦しむ Androidは誰も聞いたこともないスタートアップで、携帯電話用のソフトウェアを作っているらしいということしかわかっていない」と書いている。だが数年のうちに、同社がAppleのプラットフォームに対抗できる価値を持っていることがはっきりした。Googleの事業開発担当上席副社長を務めるデービッド・ラウィーは2010年に、あれは我が社の「最高の買い物」だったと述べている。じつはこの買い物は、あやうく成立しないところだった。というのもAndroidの創設者アンディ・ルーピンは、Googleへの売却が決まる数週間前に韓国を訪れ、Samsung (サムスン)に買収を持ちかけていたからだ。

成功するプラットフォームの特徴

  • 本章で取り上げたプラットフォーム戦争の勝者にはどんな特徴があるだろうか。また、これから繰り広げられるバトルではどうだろう。もちろんプラットフォームのタイプによってバトルの内容はちがってくるが、すでに私たちは勝利を収めたプラットフォームがどういうものか、知っている。まず、ハイペースで成長すること、そしてプラットフォームの所有者と参加者の両方に価値を提供できることだ。そのほかに、次のような特徴を備えている。
  1. 早い時期に地位を確立する。一番乗りである必要はない(現にAndroidは二番手だった)。だがあまりに出遅れると、潜在的参加者がすでにプラットフォームの選択を決めてしまい、ネットワーク効果が働いて手も足も出なくなる。
  2. 可能な限り、補完財の優位性を活かす。補完財のペアのうち、一方の価格が下がれば他方の需要が増えるからだ。
  3. プラットフォームをオープン化し、幅広く多様な供給を募る。それによって消費者余剰が拡大する。とくに、無料で供給される場合がそうだ。参加者が無料で利用できるものが増えるほど、ペアの補完財の需要曲線は外側にシフトし、需要が増える。
  4. プラットフォームをオープン化した場合でも、参加者に一貫性のある心地よいエクスペリエンスを提供するために、供給サイドに対して一定の基準を示し、
    審査を行う。
  • さきほどのAppleGoogleの例からわかるように、完全に閉じたシステム(第三者からの補完財の提供をいっさい認めない)と完全にオープンなシステム(プラットフォームがもたらす価値を十分に共有できない)との間でうまくバランスをとる方法は一つではない。だがともかくも、ちょうどよい落とし所を探る努力はしなければならない。
ユーザーエクスペリエンスを高める
  • 先ほど挙げた項目に加えてもう一つ成功するプラットフォームの運営者が必ずやっていることがある。それは、プラットフォーム参加者に提供するユーザーインターフェースとユーザーエクスペリエンスに非常にこだわり、つねに改善に努めることだ。ユーザーインターフェースとは、人間がマシンとの間で情報をやりとりするためのしくみのことである。たとえばiPhoneでは、タッチスクリーン、ホームボタン、マイク、スピーカーといったものがユーザーインターフェースに当たる。インターフェースは、ユーザーが気持ちよく使えて、できるだけ直感的にわかるものがよい。アインシュタインは「すべてのものは、これ以上単純化できないというところまでシンプルに作られるべきだ」と言ったとされるが、最良のインターフェースもまさにそうである。
  • ユーザーエクスペリエンスは、製品やサービスの利用を通じて得られる体験のことで、非常に幅広い概念であるが、ごく単純化して言えば、使ってみて気持ちがよかった、楽しかった、とても便利だった、といったことである。デザイナーのエド・リーは、二枚の写真を使ってユーザーインターフェースとユーザーエクスペリエンスのちがいを明快に説明している。曰く、スプーンはユーザーインターフェースで、シリアルの入ったボウルはユーザーエクスペリエンスだそうだ。
  • すぐれたユーザーインターフェースとユーザーエクスペリエンスが重要な役割を果たした例として、Facebookが挙げられるだろう。大方の人は忘れているかもしれないが、Facebookは世界初のソーシャルネットワークではないし、世界で初めて大人気になったソーシャルネットワークですらない。先行したのはFriendster (フレンドスター)で、2002年からサービスを開始していたし, MySpace (マイスペース)も2003年には発足し、夢中になっているユーザーは大勢いたから、強力なネットワーク効果がすでに生じていたはずだ。その証拠に、News Corporation (ニューズ・コーポレーション)はMySpaceを2005年に5億8000万ドルで買収している。
  • だが時が経つにつれて、どちらのプラットフォームもユーザーの期待に応えられなくなった。Friendsterは、ユーザーが増えるにつれてサイトが遅くなるなどパフォーマンスが低下する。MySpaceのほうは、ユーザーに自分のスペースをデザインする自由裁量の余地を与えすぎた。ウェブデザインを手がけるフェーム・ファウンドリーは、公式ブログに次のように書いている。
  • あなたの知人の中で、自宅の設計のできる人がどれだけいるだろうか。あるいは、玄関に飾っても恥ずかしくない絵を描ける人がどれだけいるだろうか。たぶん、ほとんどいないだろう・・・すぐれたウェブデザインも同じだ。ウェブデザインはアートであって、ふつうの人がそう簡単にできるものではない。ところがMySpaceはそう考えなかったらしい。ユーザーに好きにやらせた結果、まったく見るに耐えないような代物が氾濫することになった・・・対照的にFacebookは、サイトの基本となる枠組みを設けて制限する方式を選択した。このちがいが、成否を分けることになった。MySpaceを買収したNews Corporationは、結局は買収時の1割以下の3500万ドルで2011年に売却している。

 

  • 金融部門でも、既存事業者が規制でもっとプラットフォーム企業に対抗している。2015年6月にエコノミスト誌が「なぜフィンテックは銀行を殺せないのか」という衝撃的なタイトルの記事を掲載したが、そこで取り上げられた金融イノベーションの大半は、決済、為替などのプラットフォームである。記事では、既存の銀行は規模の点でも「自由裁量でお金を貸せる点でも新規参入者よりはるかに有利だが、この優位性の大半は、保護されているからこそだと指摘する。「その代表例が、当座預金口座だ。誰でもただで安全にお金を預けておくことができ、いつでも自由に引き出したり小切手を振り出したりできる。シリコンバレーには、手厚く保護された金融業に手を出したいと考える人間はほとんどいない」。
  • ただし、仮に保護政策が今後もずっと続けられたとしても、銀行はいずれ不安に苛まれることになるという。その不安とは、「いずれ金融サービス業は公益企業の一種になるのではないか、ということだ。言い換えれば、厳しい規制の下で多数の店舗を展開する、地味でほとんど儲からないビジネスに成り下がることだ」という。その可能性は大いにあるだろう。いや金融だけでなく、他の多くの産業にその可能性がありそうだ。おそらく大方の産業分野で、プラットフォームに参加しない事業者は、いくらすぐれた製品を持っていても利幅とシェアの縮小に直面することになるだろう。

 

  • 製造企業がこれだけ奮闘しても、利益の大半はプラットフォーム企業へ行ってしまう。ある推定によると、 2015年に世界のスマートフォン事業が生んだ利益91%はAppleの懐に入ったという。しかも驚いたことに、翌年にはこの偏りはさらに大きくなった。BMOキャピタル・マーケッツのアナリスト、ティム・ロングによると、2016年第3・4四半期には、世界のモバイル機器メーカーの営業利益の103.9%をAppleが上げたという。サムスンが0.9%を上げた。残るメーカーはみな赤字である。
  • スマートフォンに関して唯一Appleに対抗できるプラットフォーム構築に成功したのはGoogleだが、そのGoogleの財務報告によると、Androidおよび関連モバイルサービスは損益分岐点に到達していない。そうは言っても、Androidの収益は巨額だ。2016年1月にOracle (オラクル)の弁護士が法廷で述べたところによるとOracleJava関連の著作権を侵害されたとしてGoogleを訴えていた)、Android事業の収入は310億ドル、利益は220億ドルに達するという。

交差弾力性、乗り換えコスト

  • 二面市場の価格付けには、多くの戦術的・戦略的判断が関わっている。たとえばクレジットカード市場では、なぜ消費者が(キャッシュバックやマイルなどの形で)お金をもらい、小売事業者は(手数料の形で)お金をとられるのだろうか。逆ではいけないのだろうか。ここで重要になるのが、さきほど説明した価格弾力性である。すこしばかり値下げをするだけでどれほど多くの利用者を追加的に獲得できるだろうか、逆にすこしでも値上げをしたらどれほど多くの利用者を失うだろうか。価格弾力性の高い側で値下げをして、低い側で値上げをするのが賢い戦略だが、話はここでは終わらない。次に問題になるのは、「交差弾力性」である。需要の交差弾力性とは、財Aの価格変化により財Bの需要がどれだけ変化するのかを把握する指標のこと(交差弾力性が正の財は代替財、ゼロの財は独立財、負の財は補完財と呼ばれる)だが、二面市場の交差弾力性では、市場の一方の側で値下げをしたら、反対側ではどうなるのかを問題にする。交差弾力性が高いほど、市場のもう一方の側に与える影響は大きくなる。
  • クレジットカードの場合、これらの要素を勘案すると、消費者の側で値下げをして小売事業者の側で値上げをするのが得策になる。あるカードを持つコストが小さいか、ゼロか、それどころかマイナスなら、大勢の消費者がそのカードを持ちたがるだろう。大勢の消費者が持っているなら、市場の反対側にいる小売事業者はそのカードの取り扱いに乗り気になる。たとえ手数料が少々高くても、である。その結果、プラットフォームの持ち主であるカード会社は、シェアを拡大し、利益を増やすことができる。
  • またネットワーク型の産業では、乗り換えコストも価格付けの重要な要素となる。あるネットワークから別のネットワークへの乗り換えが容易なら、集客に投資する意味はあまりない。いろいろと魅力的な特典を用意して勧誘したところで、相手はそれをポケットに入れ、翌日にはあっさり乗り換えてしまう可能性があるからだ。だが乗り換えが高くつくとなれば、最初に大勢を取り込むことによって、バンドワゴン効果が発動する可能性が高くなる。バンドワゴンとは楽隊を乗せてパレードの先頭を走る車のことで、バンドワゴン効果とは「バスに乗り遅れるな」「勝ち馬に乗れ」という心理を煽ることを意味する。そうなると、他の人たちもそれっとばかりに追随する。最初の特典の効果がなくなっても、誰も乗り換えようとはしない。乗り換えコストが嵩む(かさむ)ということもあるが、みんなが乗っているバスから降りたくないからだ。利用者がこのような状況に置かれることを、経済学では「ロックインされた」と言う。
  • ネットワーク効果が強力に働くケースでは、当然ながら大勢が利用しているネットワークのほうが、利用者の少ないネットワークよりも、これから選ぶ人にとっては魅力的になる。したがって、大きいネットワークほど容易に集客でき、ますます優位に立つ。別の 言葉で言えば、ネットワーク効果が強力に働く市場では「勝者総取り」現象が起きやすい。となればネットワーク型のビジネスでは、とにかく最初だけでも価格を下げてできるだけ早く利用者を増やそうというインセンティブが働く。

計画経済はどこがまちがっているのか?

  • 計画経済は、「計画の出発点となるべき社会全体の網羅的な全情報を単一のセンターに集めることは不可能」だから絶対にうまくいかない、とハイエクは主張した。だが今日では、技術の力で精密なモニタリングが行えるのだから、情報の集約は十分に可能ではないだろうか。あらゆる生産装置にセンサーを取り付けると同時に、市場調査やソーシャルメディアのサーチを行なって需要動向を調べ、それを単一のコア、すなわち巨大な分配最適化アルゴリズムに投入すれば、最適な計画が立てられるのではなかろうか。ハイエクは、そうは考えない。仮にそのようなアルゴリズムが存在するとしても、実際に必要な情報のすべては収集できない。ある時ある場所という環境に依存する知識、すなわちそこにいて「そのリソースの最適な利用を熟知している個人」の知識まで集約することはできないからだ。
  • ハイエクは、ポランニーのパラドックス(われわれは語れる以上のことを知っている)に類することが経済全体に当てはまるのだと示唆したように思われる。自分が知っていること、持っているもの、欲しいものをすべて話すことなど誰にもできない。となれば、巨大なアルゴリズムにはほんとうに必要な情報が投入されないことになり、そこからアウトプットされるのはじつに偏った非生産的な計画になるだろう。これは言ってみれぱ、善意の塊だが少々ピントのずれた叔父さんが、あなたが去年ほしかったが今年はもう興味のないものを町中探してクリスマスにプレゼントしてくれるような行動を、国家を挙げてやろうとするようなものだ。中央計画委員会が国民の最善の利益だけを考えて行動したとしても(この仮定を書き出してみただけで、まずもってあり得ないことがわかる)、渦度の一極集中は政府による常時監視と不条理な官僚支配を招くことになるだろう。
  • ではコアのいない自由市場経済は、どうやって運営されるのだろうか。人々が政府からの過度の監視や規制を受けずに自由に取引することによって、かつ価格という指標を使うことによって、である。モノの値段は、需要と供給を均衡させるだけでなく、決定的に重要な情報をまったくコストをかけずに経済全体に伝達する役割を果たす。ハイエクの言葉を引用しよう。
  • ある一つの資源が不足したら、一つも命令を出さず、ほんの一握りの人しかその原因を知らなくても、数万数十万の人々がその資源を節約するようになる。つまりまさにすべきことをするようになる。これはじつに驚嘆すべきことだ……もしこの価格というシステムが意図的に人間が設計したものであって、価格の変動に導かれて行動する人々が自分たちの決定は直接の目的をはるかに超えた意味を持つと理解しているのであれば、このメカニズムは人間の知恵がもたらした最高傑作の一つだと誇ることができただろう。が、残念ながらそうではない。

 検証・取り消し可能性

  • ソフトウェア開発で「来る者は拒まず」という方針が(家を建てる場合よりはるかに) うまくいくのは、ある参加者が付け加えた新しいピースがきちんと動くかどうかが比較的容易に検証でき、だめとなったら比較的容易に削除できるからだ。たとえばプリンタドライバーだったら、指定されたページをちゃんとプリントアウトできなければならない。もしできないようなら、それをオペレーティングシステムから取り除く必要がある。ソフトウェアのクオリティは、コードを点検する、実際に動かしてテストする、などの方法でチェックできる。ここが、ソフトウェアの開発が小説や交響曲の創作と大きくちがうところだ。小説の場合、誰かの付け足した章が作品の出来栄えをよくしたかどうか、判断するのはむずかしい。クラウドの開発したLinuxが世界で最もポピュラーなオペレーティングシステムになったのは、クオリティを判断する客観的な基準が設定可能だったおかげだと言えよう。
  • またソフトウェア開発では、開発中のすべてのバージョンを上書きせずに保存しておく習慣がある(それができるのも、無料、完全、瞬時というビットの世界の経済特性のおかげだ)。だから、もしコードの一部が不具合だったら、その部分を含まないバージョンにかんたんに戻せる。仮に参加者の誰かが悪意をもっていても、あるいは単に無知であっても、ソフトウェア全体に取り返しのつかないようなダメージを与えることはできない。したがって開発プロジェクトをオープンにし、参加者の資格を問わないスタンスをとることが、他のプロジェクトに比べてはるかに容易である。

 

  • 今日のテクノロジー系大手企業は、シュンペーターやクリステンセンやヒッペルの指摘を真剣に受け止めているらしい。彼らは、自分たちを破壊しかねないイノベーションクラウドが生み出していないか、絶えずスキャンしている。では、ほんとうに破壊的イノベーションを発見したらどうするのか。それを潰したり、圧力をかけて倒産に追い込んだりするのは下策だ。買ってしまって取り込むのである。というわけで二2011~16年にAppleは70社を、Facebookは50社を、そしてGoogleは200社近くを買収している。
  • 多くの場合、買収する側はすでに競合する製品やサービスを持っていることが多い。たとえばFacebookはメッセージング機能も写真共有機能を持っていたが、それでもWhatsAppとInstagramを買収した。Facebookほどの大手にしてみれば、ちっぽけなスタートアップなど取るに足らないと見逃すことも十分に可能だ。だが自前の機能よりスタートアップのイノベーションのほうが好まれ急速に浸透している兆候をクラウドの中に見て取ったため、敢えて買収に踏み切った。この種の買収はだいたいにおいて、高い買い物になる FacebookInstagramに10億ドル、 WhatsAppには200億ドル払った。だが破壊されることに比べれば安いものだと言うべきだろう。

クラウドを活用してトレーダーの仕事を変える

  • 私たちは、現在繁栄している既存企業の多くが、ここ数年のうちにクラウドベースの強敵に直面するだろうと予想している。すでにその強敵が現れている分野もある。素人にはわかりづらいが、自動投資がそうだ。
  • 人類の長い歴史において、株であれ、国債であれ、貴金属その他のコモディティや不動産であれ、とにかく資産投資の決定を下すのは必ず人間だった。現実に買い注文を出す操作は自動化されていても、あれを買うとか売るとか決めるのは人間であって、マシンではなかった。この状況は、1980年代に変わり始めた。数学者のジェームズ・シモンズがRenaissance Technologies (ルネッサンス・テクノロジーズ)を、コンピュータ科学者のデービッド・ショーがD. E. Shaw (ディー・イー・ショー)をそれぞれ起業し、コンピュータを使って投資決定をするようになったのである。彼らは膨大なデータを収集し、さまざまな状況で資産価格がどうふるまうか、定量モデルを構築してテストし、いつ何を買い何を売るかという人間の決定をアルゴリズムで置き換えようとした。
  • この狙いは当たった。アルゴリズム取引を行ういわゆるクオンツ投資ファンドは、めざましい運用成績を上げている。D. E. Shawは2016年10月時点で400億ドル以上を運用しており、同社のファンドのリターンは2011年までの10年間で平均12%に達した。ジョン・オーバーデック(AI研究者で、16歳のとき国際数学オリンピックで銀メダルを取った経歴の持ち主)が創設したTwo Sigma (ツーシグマ)は60億ドル規模のファンドを運用しており、10年間の平均リターンは15%を記録した。だがどのファンドのリターンも、Renaissanceの成績の前では霞んでしまう。同社が運用するファンドMedallion(メダリオン)は社員のみを対象とするものだが、なんと1990年代半ばの運用開始から20年以上にわたり、年間平均リターン(手数料差引前)が70%を上回るのである。合計利益が550億ドルに達したとき、Bloomberg Marketsのウェブサイトで「おそらくは世界最大の利益製造機」と紹介された。
  • プログラマーにして起業家のジョン・フォーセットは、金融業界で働いていたとき、クオンツ系ファンドの運用成績に感銘を受けた。そして、コアの投資会社ではこの方式が十分に活用されていないのではないかと憂慮する。フォーセットの推定によれば、2010年の時点で全世界には3000-5000人のプロのクオンツ投資家がいた。彼が言うには、「これでは少なすぎる。クオンツ投資は最先端の投資手法だと私は信じているが、現状ではこの手法が十分に行き渡っていない。人間だけで運用するファンドと、人間+マシンで運用するファンドがあったら、後者のほうがいいに決まっている」。
  • フォーセットはアルゴリズム取引を誰もが活用できるようにすべきだという信念から、ついに2011年にジャン・ブルデシュと一緒に起業し、クオンツ投資プラットフォームQuantoplan (クォントピア)を構築する。Quantoplanにはクラウドベースのアルゴリズム開発環境が用意されており、利用者は自作のアルゴリズム(テンプレートを編集して作成できる)を動かして、さまざまな状況(好況・不況、高金利・低金利など)でどうなるか試すことができる。そのためにQuantoplanでは過去のデータ(15年分のアメリカの株価および先物データ)を使って「バックテスト」ができるようにしてある。フォーセットのチームはたいへんな時間と労力をつぎ込んで、このバックテスターを大手機関投資家の持っているツールに劣らないものに仕上げた。
  • このほかQuantopianには、手数料、スリッページ(注文時の表示価格と実際の約定価格との乖雕)、マーケットインパクト(自分が行う大量売買が価格水準におよぼす影響)を自動計算する機能が備わっている。もちろん、実際の証券取引口座に接続して現実のアルゴリズム取引を実行することも可能だ。価格の推移の追跡、記録の保管、法規順守のチェックなどもできる。さらに定期的にコンテストも開催し、賞金を出している。
  • フォーセットは、必要な機能を備えた信頼性の高いプラットフォームを用意し、「アルゴトレーダー」の卵たちを呼び込むことができれば、自社にとって多大なメリットがあることを承知していた。なぜなら、クラウドが生み出すたくさんのアイデアを活用できるからだ。クラウドソーシングは多くの場合、「ベスト」だけを求める。一番いいナゲットアイスメーカー、一番いいアノテーションアルゴリズムが賞を取り、製品化される、という具合に。二番目や三番目が一番とさほど差がなくても、捨てられてしまう。
  • だが投資アルゴリズムは、そういうものではない。一番と二番が全然ちがう発想に基づくものであれば、一部を一番で、一部を二番で運用することにより、より高いリターンを生むことが可能かもしれない。この分散投資法こそ、かのハリー・マーコウィッツが1990年にノーベル経済学賞を受賞した理由にほかならない。そしてクラウドベースの環境は、まったく毛色の異なる多様なアルゴリズムをもたらすという点で、分散投資の実行に理想的だ。フォーセット自身、「Quantopianを作るときの課題の一つは、互いに相関性の低い投資戦略を見つける確率を最大化することだった」と語っている。
  • そのためにはできるだけ大勢に参加してもらい、クオンツ投資戦略を試してもらうことが望ましい。2016年半ばまでにQuantopianには180カ国から10万人以上が参加し、40万以上のアルゴリズムをテストした。彼らはどんな人たちなのだろうか。フォーセットによると、「共通点としては、モデル構築の訓練を受けるような学位や修士を持っているか、そういう仕事に就いた経験のある人たちだ。宇宙物理学や計算流体力学の専門家もいたし、油田関係もいた。全体としては、金融とは無縁の人が多い。学生もかなりいる。年齢は・・・学部生から定年退職した人までと幅広い」。
  • 参加者の大半は男性で、Quantoplanとしては今後もっと女性を呼び込むことを課題にしているという。「とにかくできるだけ多種多様な戦略が欲しい。いろいろな研究で、男性と女性ではリスクの捉え方が非常にちがうという結果が出ている。たしかに男と女では、投資に対する姿勢が全然ちがうんだ。だから、もっと女性が参加してくれたら……非常に興味深いと思う」。
  • 肝心の参加者の成績は、プロと比べてどうなのだろうか。2016年末までに、Quantoplanは19回のコンテストを主催した。うち4回はクオンツ投資のプロが、1回は従来型投資のプロが優勝した。だが残る14回は、まったくの門外漢が優勝したのである。そして2017年にフォーセットは、真剣勝負をやってみようと考える。何人か優秀な参加者を選んで、独自のアルゴリズムで運用するクオンツ投資ファンドを設立。そのパフォーマンスを既存のクオンツヘッジファンドと比べようというのである。こうすれば、この分野で本物の専門家は誰なのか、決着をつけられるはずだ。
  • 投資業界のコアの中で、すくなくとも大物が一人、Quantopianに絶大な信頼を置いている。著明なヘッジファンドマネジャーのスティーブン・A・コーエンだ。彼は2016年7月、Quantopianに投資するとともに、自己資金2億5000万ドルをクラウドソースのアルゴリズムによる運用に委ねると発表した。コーエンの調査・投資チームを率いるマシュー・グラネードは、「優秀な人材はクオンツ投資における希少資源だが、Quantopianはその人材発掘に革新的なアプローチをとっている」と話す。
  • いまビジネスの世界を大きく変えつつある技術動向は三つあるが、第一に、人間とマシンを新しい形で組み合わせをすべて体現している点で非常に魅力的だ。人間の経験や判断力や直感をデータとアルゴリズムで置き換えることで、投資決定のあり方を変えた。第二に、何かに特化した製品(たとえばバックテスター)を作って売り出すのではなくクオンツ投資のためのプラットフォームを構築した。Quantopianのプラットフォームは、オープンで学歴や資格を問わず、ネットワーク効果が期待でき(よりよい投資アルゴリズムが登場するほど、より多くの資本を呼び込むことができ、多くの資本が投じられるほど、アルゴトレーダーの卵を大勢惹き付けることができる)、便利なユーザーインターフェースとゆたかなユーザーエクスペリエンスを提供するという特徴を備えている。第三に、クラウドをオンラインに結集させ、金融という高度に専門的で重要な産業分野においてコアの専門家に挑戦することを可能にした。
  • さあ、クラウドが運用するファンドは既存のヘッジファンドをアウトパフォームできるのだろうか。結果が待ち遠しい。

www.quantopian.com

11章のまとめ

  • コアの定評ある専門家が、資格も学歴も経験も乏しいクラウドに負けてしまうということが度々起きている。
  • クラウドがコアを打ち負かせる理由の一つは、そもそもコアが問題の解決に適任ではない、つまりミスマッチが起きていることにある。
  • ミスマッチが起きるのは、問題を最も効率的に解くために必要な知識が、じつはその問題とは遠い分野に存在することがあるからだ。新奇な問題の解決に必要な知識がどこにあるのか、あらかじめ見通すのはきわめてむずかしい。
  • コアがクラウド集合知を活用する方法はいくつもある。コアとクラウドは引き離されるべきではない。
  • 今日のクラウドは、コアの助けを借りずとも多くのことを成し遂げられる。技術の進歩のおかげで、建設的な知識共有や意見交換を通じて、クラウドはこれというリーダーがいなくても大きなことをやってのけられる。
  • こうした状況で、既存の大企業はクラウドと協働する新しい方法を模索するようになった。その一方で、クラウドベースのスタートアップは、多くの既存企業に挑戦状を突きつけている。

 

  • だがこの問題を研究してきた経済学者は、おそらく口を揃えて、完備契約は事実上不可能だと言うだろう。世界はきわめて複雑であり、未来はあまりに不確定要素が多く、しかも人間のあらゆる不確定知性も理性も限られている。これらの要素が重なれば、現実の取引において、要素を織り込んだ完備契約の作成は、まずもって不可能と言わねばならない。
  • となると、たとえば長期契約で生産を行なう場合、将来起こりうるすべてのケースを想定した完備契約が結べないため、想定外の事態について事後的な再交渉で契約変更がありうることになる。ここから、一方の当事者が特殊な資産に投資してしまったあとになって、相手方から弱い立場に付け込まれることを恐れ、き投資をしないというホールドアップ問題が起こる。たとえば自動車部品メーカーが、契約相手であるメーカーの車にしか使えない特殊部品を作る機械への設備投資を渋る(機械を据え付けてしまったら、足下を見られて部品の値下げを要求されるかもしれない )、といった事例だ。しかしここで、自動車メーカーがその部品メーカーを買収してしまえば、ホールドアップ問題は生じない。
  • このように、所有権が変わればインセンティブは変わる。別の視点から言えば、
    企業の資産を使って働く社員と、自前の資産を使う独立事業者とではインセンティブはちがう。ここに、企業が資産を持つことの重要な意味がある。資産を誰が持ち、したがってインセンティブがどのように設定されるかということが、企業ひいては経済の効率性にとってキーポイントとなる。
  • 企業が存在する根本的な理由の一つは、市場参加者が必要に応じて都度集まるやり方では完備契約が結べないことにある。完備契約を結べないということは、現実の世界で将来に想定外の事態が起きたとき、誰がどうするかが決まっていないということだ。企業という存在は、この問題に対する解決になる。企業が資産を所有していれば、不完備契約で決まっていないことについて残余コントロール権を行使することになるからだ。これがまさに、企業の所有者(すなわち株主)に代わって経営陣が行う仕事である。
  • 言うまでもなく、このやり方がつねにうまくいくという保証はない。企業の経営陣が優柔不断だったり、無能力だったり、誘惑に負けたり、あるいは単に判断ミスをすることも十分にあり得る。だがまずまずうまくいっているからこそ、企業は現に存在し、存続しているのである。そしてまずまずうまくいっているのは、不完備契約と残余コントロール権の問題が市場の阻害要因となっていたからだ。
完全な分権化には弱点が潜んでいる
  • 以上の点を踏まえると、ビットコインイーサリアム、DAOでなぜ問題が生じたか、理解しやすくなるだろう。ブロックチェーンは、すべてをできる限り分権化すること、つまり、権力から遮断することを目的として設計された。だがそうなると、ものごとが思わしくない方向に進み出したとき、どんな対抗手段があるのか。たとえば中国のファイアウォールの向こう側にマイニング作業が集中するというのは、暗号通貨が当初めざしたこととは逆の方向である。だが、それを軌道修正したり取り消したりすることは、事実上不可能だ。株式市場の大きな潮流を 握りのトレーダーの力で変えることが不可能なのと同じである。
  • 最終決定者がいないままに開発者が仲間割れするのも十分に困った事態だが、重要な作業が独裁的な政府の支配下で行われるというのは、さらに悪い。中国政府には、その気になったら強硬に介入することも辞さないというよからぬ前歴がある。しかしブロックチェーンに関する決まりごとはすべてコードに書かれており、マイニング作業が地理的に集中したらどうする、といった規定は一切ない。このような不完備が重大問題化したときに、乗り出して来て万事を取り仕切る権限を持つ所有権者も存在しない。
  • DAOのトラブルはさらに深刻である。というのもDAOは、権力からの遮断と同時に完備契約を意図して設計されているからだ。大勢の出資者はオンライン環境で参加の意思表示をし、現実の資金を投じた。出資者たちが形成するクラウドがすべてを決定し、それを確認したり評価したりする人は存在しなかった。言い換えれば、管理者もいなければ所有者もいなかった。資金を集め、その出資先に関する提案を受理し、投票数をカウントし、それに従って資金を配分したのは、コードでありブロックチェーンである。と言うよりも、DAOとはコードそのものであり、コードでしかない。完備契約である以上、その決定や結果について事後的に異議を申し立てることはできない。それどころか、集めた資金の三分の一がハッカーに盗まれても、それは正当な結果と言うしかないのである。そして結局
    「ハードフォーク」を行なってハッカーの行為は「なかったこと」にされた。これに対してハードフォークに反対の出資者たちは、このような強硬な決定はまるで所有者がやるようなことだと怒りを爆発させた。しかしイーサリアムの最大の売りは所有者がいないこと、いやもっと根本的には、所有不能だということのはずである。かくしてイーサリアムのコミュニティは分裂した。取引費用理論と不完備契約理論を理解していれば、予測できた結末と言えるだろう。
  • 私たちは二人とも、DAOのように完全に分権化されたクラウドベースの主体が今後の経済において主流になるという見方には懐疑的だ。たとえその主体が技術的にどれほど強固だとしても、そのような主体には不完備契約と残余コントロール権の問題を解決できないからだ。これに対して企業は、契約に明示されていないすべての決定権を経営陣に与えるという形で解決している。スマートコントラクトは興味深いし、有効なツールでもあり、活用できる場はきっとあることだろう。だが、企業が存続する理由となった根本的な問題の答にはなっていない。繰り返しになるが、企業が存在する大きな理由は、完備契約を書くことが不可能だからである。完備契約の実行がむずかしいとかコストがかかりすぎるといったことが理由ではない。
  • では、未来のテクノロジーはどうだろう。技術が進化すれば、完備契約を作成できるようになるだろうか。役に立つ技術はありそうだ。たとえばセンサー技術が進化すれば、契約の進捗状況や当事者の行動を監視することが可能になるかもしれない。またコンピュータの能力が向上すれば、将来起こりうる事態をより精密にシミュレートし、適切な決定を選べるようになるかもしれない。だが一方の当事者にそれができるようになったら、相手方は一段と複雑なことを考え出すだろう。そうなったら、コンピュータはさらに進化しなければならない。このいたちごっこは永遠に続き、結局は契約はつねに不完備ということになるのではないか。

 

  • どんなルートを通ってきたアイデアであれ、マネジャーは真摯に耳を傾け、良し悪しを判断する際にもできるだけバイアスを排除するように努める。新しいアイデアについて、可能な限り実験や試作をしてみることも厭わない。別の言い方をすれば、部下から出されたアイデアをけなして門前払いを食わす従来の役割からは逸脱している。こうした役割転換に居心地の悪い思いをするマネジャーも中にはいることだろう。だが成功しているテクノロジー系企業のマネジャーたちは、
    良いアイデアを捨ててしまうリスクに比べれば、悪いアイデアにも耳を傾けるメリットのほうがはるかに 多いと心得ている。たとえばオンライン学習のUdacity (ユダシティ)では、この方針のおかげでビジネスモデルの転換とコスト効率の大幅改善に成功した。
  • 同社は大手テクノロジー系企業の協力を得て講座を設計しており、プログラミング関連のコースを数多く提供している。すべてプロジェクトベースで筆記試験は行わず、受講生はコードを書いて提出する。提出されたコードはUdacityのスタッフが評価するが、平均して二週間もかかっていた。開発担当のオリバー・キャメロンは、外部に評価を委託したらどうだろうと考える。その顛末について、COOのヴィッシュ ・マキジャニ (のちにCEOに昇格した)が話してくれた。
  • オリバーは手始めに、社内で評価した場合と外部に委託した場合を比べてみようと考えた。一度めに委託したところ、社内評価とほぼ同じような結果が出た。そこで何度か委託してみた。何度やっても、つまりそのたびに外部の評価者がちがっても、社内での評価と遜色ない結果になった。しかも評価に要する期間はだいぶ短くて済む。「これだけあちこちに優秀な評価者がいるなら、なにも社内で評価するにはおよばない」とオリバーが言い出した。そこで私たちは話し合い、外部の評価者への報酬はいくらにすべきかを検討し、何通りかの報酬を試してみることにした。その結果、コストを30%も減らせることがわかったんだ。いや、驚いたよ。そこでわれわれは、評価を外部に委託することにした。
  • 私たちはマキジャニに、外部委託の提案を正式に承認したのか、と訊ねてみた。
    いや。「いいんじゃないか、そのまま続けて」と言っただけだ。それで、オリバーはそうした。創業者のセバスチャン(・スラン)がそういう方針なんだ。

 

  • 新しい市場が次々に出現し繁栄してはいるにしても、だからと言って、企業が過去の遺物に成り下がったとか、テクノロジーを駆使した自律分散型組織の類に取って代わられるにちがいない、といった仮説を裏付けるようなデータはどこにも見当たらない。さらに取引費用理論や不完備契約理論を始めとする経済学の知見は、企業が存続する理由をあきらかにしている。
  • とはいえ、これらの理論に疑う余地はないにしても、これだけに依拠するのはあまりに狭い見方であるとも感じる。たしかに完備契約が不可能で残余コントロール権が重要な役割を果たすという点からだけでも、企業は必要不可欠な存在だということになるかもしれない。だが企業の存在を必要とするもっと重要な理由がある、と私たちは考えている。
  • それは、何か大きなことを成し遂げるのに企業はきわめて適した組織だということである。食料を供給する、健康状態を改善する、エンタテインメントや知識へのアクセスを提供する、物質的な生活条件を向上させる、これらを多くの人に、もっともっと多くの人に、地球全体で実現する……もちろん、こうした壮大な計画にクラウドの革新的なテクノロジーも役に立つだろう。だからといって、コアの基幹技術を支える企業が退場させられることはあるまい。

最新プラットフォーム戦略

原著はいいのだが、翻訳者はあまり信用できないし、訳者はじめにが残念。訳語もあまりこなれていない。ちゃんと研究者に翻訳を頼んでほしかった。
  • B2Bプラットフォームは、サプライヤーに対して何らかの報酬を支払うこともできる。そのためには、買い手に利益をもたらし、そこから得た利益をサプライヤーに還元するのに十分な価値を、フリクションの解消によって創造しなければならない。ところが明らかに、サプライヤーに還元し得るだけの価値は存在しなかったのである。アメリカのほとんどのB2B取引サイトはal.baba.com.cn(後の1688.com.cn)に類似した、オンラインモールであった。
  • 中国と異なっていたのは、アメリカの売り手は、潜在顧客を見つけるためにそれらを利用する必要がなかった、という点である。アメリカのB2Bプラットフォームは総じて、それが低減しようとしたフリクションが十分に大きくなかったために、必要な規模の売り手/買い手の獲得に失敗し、全滅した。価値のパイが小さすぎたのである。初期に参加したバイヤーは、サプライヤーの少なさに失望して去り、初期に参加したサプライヤーは利幅の少なさに失望して、去った。
  • プラットフォームは、参加によって利益を見込めるだけの十分な取引量を確保できないために、売り手\買い手をひきつけることができなかった。プラットフォームは成長せず、間接ネットワークの外部性からのポジティブフィードバック効果を生み出すことができず、風船のようにしぼんでいったのだ。

 

  • シングルサイドビジネスでは、ハーレイ、チェン、カリムの3人が直面した「さて、次の一手は?」という問題は、問題にならない。前途は多難だが、方向は明らかだ。ハムディ・ウルカヤがチョバーニヨーグルトの初回出荷分を売り出そうとした時、彼がやるべきことは、小売店に製品を置いてもらうことだった。そしてロングアイランドの小規模な店3店舗に、彼の製品のすばらしさと消費者の好反応を確信させることで、消費者の需要が生まれた。
  • 一方、マルチサイドビジネスは通常、すぐに「ニワトリと卵」問題に直面する。1998年のオープンテーブルのような、レストランと食事客のマッチメイカーは、その前方にクリアな一本道ではなく、霧深い茂みを見ただろう。まずは登録レストランの確保からはじめよう。レストランオーナーはそのアイデアを気に入ったが、ウェブサイトにはどれくらいのユーザーがいるのか、とたずねる。
  • その返事が「ゼロ」あるいは「少し」であれば、レストランは見向きもしない。マッチメイカーは消費者をウェブサイトに誘導する。消費者はチョバーニヨーグルト同様、そのアイデアを気に入るが、サイトにはレストランがほんの数店舗か、あるいはまったく登録されていないことに気づく。たった1
  • 回の悪印象が、再びサイトを訪れる気をなくさせ、友達にも悪評を振りまく。これが「協調問題」と呼ばれるものだ。どのグループも、別のグループがサービスを利用することに同意するまで、動かないのだ。
  • マルチサイドプラットフォームが協調問題に直面するのは、彼らが売っているものが基本的に、ある顧客グループを別の顧客グループに便利に接続することだからだ。ある顧客グループが棚に並んでいなければ、別の顧客グループに提供するものがない。シングルサイド企業は、この問題にぶつかることはない。通常、洗練されたサプライチェーンから必要なだけ資材を仕入れ、製品をつくり、需要を生み出すことに専念する。チョバーニは、発注した低温殺菌ミルクが届かないかもしれない、といった心配とは無縁である。

 

  • 「出会いを熱望」する顧客グループは、「出会ってもいい」グループへのアクセスを、高く価値づけるだろう。プラットフォームは「出会ってもいい」
    顧客グループの参加に対して補助の支出を惜しまず、アクセスに対してより高く支払うであろう。「出会いを熱望する」顧客グループのメンバーを増加させることで、利益を増大させることができるのだ。これは(やや性差別的かもしれないが)ナイトクラブがしばしば女性を無料で入場させ、無料ドリンクを提供する理由の、シンプルな説明となる。
  • ブエノスアイレスのナイトクラブ・ローズバー(Rosebar)は、この性差を(さらに性差別的かもしれないが)興味深い方法で利用している。クラブは広い座席と無料ドリンクを提供するVIPルームを備える。非常に高い入場料を支払う男性は誰でもVIPルームに入れるが、女性客は非常に魅力的でなければ入れない。この女性たちは一切支払う必要がない。彼らが男性客をひきつけるからだ。女性客は、VIPルーム内の男性客の多くが裕福であることに期待を抱く。たとえそのうち何人かはきわめて不快な人物であっても、だ。
  • ある顧客グループが、プラットフォーム上での取引をコントロールしている場合、プラットフォームはその支配的な顧客グループに各種インセンティブーおそらく助成金ーを提供し、利用を促進する。なぜなら彼らが利用しないかぎり交流がはじまらないからだ。これが、アメリカン・エキスプレスとオープンテーブルが利用者に対して助成金を支出し、WEX Fleet Oneカードが運送会社よりもトラックサービスエリアに対して多く課金する理由なのである。

 

  • 多くのビジネスでは、価格方針を選択する前に、プラットフォームにいくつのグループサイドを載せるのか、あるいはそもそもマッチメイカーとして振る舞うのか否かを選択しなければならない。2007年1月9日、スティーブ·ジョブズがマックワールドコンベンションのステージでiPhoneを発表した時、
    彼はそのビジネスをアプリを含めたすべてをアップルが提供するシングルサイドとして設計していた。この時点では、彼が熟考すべきはiPhone自体の価格をいくらにするかだけだったが、ご存知の通り、ジョブズは後にこの考えを翻したのだ。
  • iPodの成功により、音楽ビジネスでの目覚ましい成功を遂げつつあったスティーブ·ジョブズは、あることを心配していた。「我々のパイを奪うのは携帯電話だろう」。携帯電話メーカーが自身の端末に音楽プレイヤーをインストールすれば、iPodはもはや必要とされなくなる。構築した音楽フランチャイズを守るため、2005年アップルはモトローラと提携してiPodを搭載した端末を開発し、その流通のためにシンギュラー(Cingular=アメリカ最大の携帯キャリア、2007年にAT&Tモビリティとなる)と提携した。そして2005年9月、ロッカー(ROKR)がリリースされるが、評判は芳しくなかった。販売台数も期待に届かなかった。「ジョブズは怒り狂っていた」と評伝で述べられている。

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  • アップルは自社で携帯電話をつくることを決断した。6カ月後の2007年1月9日、ジョブズiPhoneを全世界に発表する。アップルはデザインを担当し、製造はアウトソーシングしたが、アップルが販売するすべての端末はiPhoneだった。アップルは端末を完全なコントロール下に置いたのだ。
  • アップルは、自社のマッキントッシュPCに搭載されているMacOSをベースに、新たな携帯端末向けOSであるiOSを開発し、iPhoneで独占的に使用した。他のハンドセットメーカーはiOSを使用できなかった。
  • またiTunesなどデスクトップ向けアプリのいくつかをiOSに移植し、カレンダーなどいくつかの新アプリを開発し、グーグルマップ、ユーチューブなどのアプリをすべてのiPhoneに搭載した。