特別研究員制度がなければ研究者にはなれなかった

https://www.jsps.go.jp/j-pdab/data/murayama.pdf

  • 村山:1986年に東京大学の大学院に進み、素粒子の理論を学び始めたのですが、とても戸惑いました。理論が現実から離れて積み重ねられていると感じたからです。ヒッグス粒子が理論の予言から半世紀後に発見されたように、素粒子物理学のタイムスケールは長く、面白い実験データがなかなか出ず理論先行になる時期があります。当時もそんな状況でした。超弦理論がブームで、これで全てが説明できる、もうすぐ物理学は終わる、という熱気に包まれていました。
  • 私も超弦理論の重要性は理解できましたが、興味を持てませんでした。素粒子物理学でもほかの分野と同じように、実験データを理論で説明し、理論が予言する現象を実験で確かめながら研究が進展していくものだと思っていたからです。実験と理論を結び付けるような研究がしたかったのですが、そのような研究は流行ではなく、周りでは誰もやっていませんでした。やりたい研究ができそうもないので、修士課程を終えたら研究はきっぱり諦めるつもりでした。
  • ──流行ではない分野の研究を進めることに、ためらいはなかったのですか。村山:私は現実を説明する理論にしか興味を持てませんでした。研究のほとんどはうまくいかず、つらいことの連続です。興味が持てない研究でつらい思いをすることは、私にはできませんでした。
  • ──その後、渡米され数々の業績を上げられました。独創的な研究をするには何が必要ですか。村山:私はいろいろなことに興味があり、一つのテーマだけを考え続けることができません。飽きてしまうのです(笑)。私はどのテーマについても専門家ではなく、のめり込まずに一歩下がって、いろいろなことを視野に入れて全体像を眺めてみます。すると、この現象とあちらの現象は実は関係している、この現象を説明するにはあの理論が役立つかもしれない、と気付くことがあります。
  • ──Kavli IPMUでは、どのような観点で研究者を採用しているのですか。村山:研究の提案書を重視しています。Kavli IPMUで自分がやりたい研究を学問の全体像の中に位置付け、それがなぜ今、重要なのかが明確に書かれた提案書に私は共感します。自分のやってきたこと、やりたいことの価値は、全体像をしっかりつかんでいないと説明できません。それを自分の言葉で説明できる人が大きく伸びると思います。

ピーター・ティール 世界を手にした「反逆の起業家」の野望

ピーター・ティール 世界を手にした「反逆の起業家」の野望

ピーター・ティール 世界を手にした「反逆の起業家」の野望

 
  • 今日の世界はテクノロジーのおかげで繁栄しているように見えるが、彼によればそれはまやかしだ。いまや米国は、1960年代のアポロ月面着陸計画のような大きなビジョンを追うことも、イノベーションを推進することもやめてしまった。iPhoneに使われているテクノロジーは、アポロ計画のそれに匹敵します。でもその使いみちは?怒った鳥をブタに投げつけるスマートフォン用ゲーム (「アングリーバード」のこと)です。もしくは飼いネコの動画を全世界に見せびらかすためです」
  • ティールによれば、現代世界の深刻な停滞を打ち破るのはイノベーションとテクノロジーだ。彼はテクノロジーが果たすべき社会的責任にくりかえし言及している。いわく、テクノロジーは人間に奉仕し、世界を改善するために役立てなければならない。シリコンバレーイノベーションと進歩の中心地であるかもしれない。だが、まだすべきことは山ほどある。
  • シリコンバレー」という語を使いはじめたのはジャーナリストのドン・ヘフラーで、この単語はエレクトロニクス専門雑誌エレクトロニック・ニュースの半導体産業に関する1971年1月11日の記事に、はじめて登場する。すでにアップル、フェアチャイルド・セミコンダクターヒューレット・パッカードインテルといった数多くのテクノロジー企業が、サンフランシスコとサンノゼの間にあるこの谷に本拠地を置いていたが、爆発的な成長を遂げるエリアの総称として使われるようになったのはそれからだ。
  • いまでもティールにとって、ハーバードは誤った競争主義の象徴だ。2014年に彼がスタンフォード大学で担当したゲスト講義「競争は負け犬のもの」で、彼はハーバード・ビジネススクールを徹底的にこきおろしている。「あそこの学生たちはアスペルガー症候群の対極にあります。やけに外交的で、自分の考えというものを持っていない。2年間もこういう連中と一緒にいると、群衆本能ばかりが発達し、誤った決断を下すようになってしまいます
  • ウェブブラウザの考案者で、しばしばティールとともに投資家として名を連ねるマーク・アンドリーセンは、「大学で学ぶ価値があるのは数学系の学問だけで、哲学のような人文系を専攻しても靴屋になるのが関の山です」とまで言っている。
  • ティールの世界観と、ビジネスや投資判断の流儀に決定的な影響を与えたのは、スタンフォード大教授だった著名フランス人哲学者、ルネ・ジラールである。ティールはジラールの主著『世の初めから隠されていること』(法政大学出版局)を学部時代にはじめて読んだ。ジラール思想の核にあるのは模倣(ミメーシス)理論と競争だ。ジラールによれば、人間の行動は「模倣」に基づいている。人間には他人が欲しがるものを欲しがる傾向がある。したがって模倣は競争を生み、競争はさらなる模倣を生む。
  • フォーチュン誌のインタビューで、ティールはジラールについて熱弁をふるい、私たち人間は模倣から逃れることはできないと指摘している。「模倣こそ、僕らが同じ学校、同じ仕事、同じ市場をめぐって争う理由なんです。経済学者たちは
    競争は利益を置き去りにすると言いますが、これは非常に重要な指摘です。ジラールはさらに、競争者は自分の本来の目標を犠牲にして、ライバルを打ち負かすことだけに夢中になってしまう傾向があると言っています。競争が激しいのは、相手の価値が高いからではありません。人間は何の意味もないものをめぐって必死に戦い、時間との闘いはさらに熾烈になるんです」
  • ティールはジラールの知見から、すぐれた起業家・投資家の本質を学んだようだ。「人は完全に模倣から逃れることはできはせん。でも細やかな神経があれば、それだけでその他大勢の人間を大きくリードできます」とティールは語っている。
  • 約25年後の2014年、ティールは自分の「模範的」な学歴をあしざまに語っている。「もっとも才能に恵まれている若者たちがみな同じエリート大学に入って、みな数少ない専門分野のいずれかを学び、数少ない人生コースの選択肢を選ぶとしたら、社会のためにいいとは思えないですね。人生で何をすべきかという問いを考えるとき、それじゃあまりに視野がせますぎます。社会にとっても、学生にとってもいいはずがありません。これは、スタンフォードロースクールで過ごした僕自身の年月にもそっくり当てはまります。また僕が同じ立場になったら、そのときは、なぜそうするのか自分に問うでしょうね。いい成績をとって、世間に認められたいだけなのか?弁護士になりたいと真剣に考えているのか?この問いにはたぶん正しい答えとまちがった答えがあります。いまふりかえると、20代のはじめに僕は誤った答えに執着しすぎてしまったんです」
  • シリコンバレーアイデンティティーの危機におちいっていた。マウスやグラフィカルなデスクトップといったアイディアを盛り込んだPCのイノベーションを推し進めたのはアップルだったが、もうかったのは東海岸剽窃者だったからだ。マイクロソフトゲイツは、他社のイノベーションを臆面もなくコピーし、その独占的立ち位置を利用して市場に入り込み、途方もない利益を上げたために、シリコンバレーでは嫌われていた。
  • リード・ホフマンは最近ブルームバーグのインタビューでこう、コメントしている。「マクロ経済関連やファイナンスのことならいまでもまずピーターに相談していますし、ビッグデータのようにカネになるテクノロジーのことならマッ
  • クスに、リスクが 計れないほどデカいことをやるべきかを考えるときにはイーロンに相談しますよ」
  • ティールには「創業者のパラドックス」という持論がある。ペイパルの6人の創業者たちは、既存の枠から完全にはみ出していた。旧弊な大企業の人事部が6人の履歴書に書かれた経歴と趣味を読んだら、おそらく面接にすら誰も呼ばれなかっただろう。ー「何せ、うち4人は高校時代に爆弾をつくっていたのですから」。それだけではない。5人は23歳にもなっておらず、4人は外国生まれ、そのうちの3人は共産圏出身だった。
  • 重要なのは「とりくむのにふさわしい課題を解決する」ことだ。「早すぎもせず、遅すぎもせず、とりくむにふさわしい顧客との約束を果たすことができれば、スタートアップは原則として成功します」とベクトルシャイムは言う。
  • 「『毎日を人生最後の日であるかのように生きよ』という決まり文句を聞いたことがあるでしょう?でも実際は逆です。『毎日を自分が永遠に生きるかのように生きよ』が正しい。つまり、きみのまわりにいる人間を、これからも長くつき合うつもりで扱うべきなんです。きみが毎日下す一つひとつの選択がとても大事です。その結果は時間の経過とともにどんどん大きくなりますから」
  • アインシュタインは、『複利効果』は私たちの宇宙でもっとも強大な力だと言ったとされています。これは金融や貨幣の話にとどまりません。重要なのは、不変の友情や長期的な関係を築くことに時間を投資することによって、人生最高の利益が得られるということです」
  • 部外者には混乱そのものに見えたペイパルには、実は明快な論理があった。おそらくペイパルは、「超迅速(アジャイル)」なビジネス展開と製品開発を全社的に実行したはじめてのスタートアップだ。当初の大きな損失やビジネスモデルの不安定さといったさまざまな問題から、改善点がはっきりと浮かび上がり、ペイパルはこれを経営の中で着実に解決していった。
  • ティールは古典的な教育制度をあまり評価していない。ブルームバーグのエミリー・チャン記者が、もう一度教育を受けるとしたら何を学びたいかと質問したのに対し、きっぱりと「教育という言葉と縁を切ります」と答えている。「教育機関は19世紀のままなんですよ。学生たちをもっと個性的に育て、多種多様な学生が自分にあったペースで学習できるような方法を見つけるべきです」
  • 「次のビル・ゲイツはOSをプログラミングしたりしません。次のラリー・ペイジセルゲイ・ブリン検索エンジンを開発したりしません。他の人間がやったことをコピーするのは1の世界をnにすることで、既知のものに何かを付け加えるにすぎません。ですがまったく新しいものをつくれば、0から1になるのです。明日の勝者は、現在の市場の傍若無人な競争からは生まれません。彼らはみな競争を回避します。彼らのビジネスは唯一無二のものだからです」
  • 『ゼロ・トゥ・ワン』は米国の未来の発展に対して楽観的な視点を展開し、イノベーションについての新たな考え方を示している。ティールは、「価値あるもの」を発見できる「予期せぬ」場所に私たちを導こうとしている。まるでイースターエッグ探しだが、ティールのメッセージは明快だ。「秘密を信じ、それを探す者だけが、踏み固められた道の向こう側にある新しい可能性を発見できるでしよう」
  • すでに述べたティールの挑発的な主張「競争は敗者のためのもの」は、いまだに語り草になっているが、それは彼の狙いでもある。彼は経済学者の多くが、競争は価値を生み出しうるという誤解にとらわれていると見ている。だがそれは逆で、法外な利益を生むのは独占だけで、それによって持続的な価値が生まれるのだ。
  • フェイク起業家になるな。人生で何をしたいかと問われて、「起業家になりたい」と答えているようではだめだ。「カネ持ちになりたい」とか「有名になりたい」と答えるのと同じで、そんなビジョンでは起業は失敗する。投資家としてのティールは、これまでどの企業も政府もとりくまず、解決しようと思わなかった重要課題にとりくんでいる企業と経営者を探すようにしている。
  • ステータスや評判だけを基準に評価するな。ステータスに惑わされて下した決定は長続きせず、価値がない。ティールはスタンフォード時代と法律事務所時代にこのことを実感した。当時をふりかえると、彼は自分が本当にしたいことよりも、面目や規範を気にしていたのだった。その教訓から彼は「ステータスより中身をとれ」と言うのである。
  • 競争は負け犬がするものまわりの人間を倒すことに夢中になってしまうと、もっと価値があるものを求める長期的な視野が失われてしまう。ティールは若い頃から競争を熟知していた。競争からは幸福感も充実感も得られなかった。彼は固い友情と信頼関係を生かしてビジネスを展開した。また起業と投資に際しては、可能なかぎり競争を避け、他に例を見ないビジネスモデルに基づいて行動した。
  • 過去に執着するな。なぜ失敗したのかすばやく分析し、あとは前を見て、方向を修正していこう。シリコンバレーでは人は失敗によって賢くなると言われている。だがティールによれば失敗は人間をひどく損なう。特に、膨大なエネルギーを注いで新しいことにとりくんだのに、うまくいかなかった場合は。失敗からは新しいスタートアップを興す教訓を引き出すことはできない。彼は失敗の原因として「人選がまずかった」「アイディアが悪かった」「タイミングを誤った」「独占の可能性がなかった」「製品が狙ったように機能しなかった」の五つをあげている。
  • 「誰もが小さなドアから外に出ようとひしめき合っているが、きみのそばには、誰も通らない秘密の近道があります。その近道を探し当てて、人より先に歩みだそう」・・・当たり前だと思っていたことを疑い、新しい視点で徹底的に考え直すのです
  • ティールの成功はまぐれなのだろうか? たまたま幸運だっただけでは?毎度おなじみの「成功は運か実力か」論争は無意味だとティールは言う。たとえばフェイスブックの成功が運か実力かを確かめるには、1000とおりの条件でフェイスブックを創業し、何度成功するかを実験しなければならないからだ。言うまでもなくそんなことは不可能だ。スタートアップ投資家の多くは「じょうろで水を注いで、
    あとは祈る」だけだ。投資先と創業者をよく知らないのにむやみにカネをばらまき、そのどれかが芽を出して、全ポートフォリオの利回りが上向くのを祈っている。だがそれでは宝くじを買うのと同じで、創業者と投資家の双方にとって害だ。ティールにとってそれは無能の証である。
  • ティールにとって、世界を0から1に変える投資は、新しい何かをつくりだすための前提だ。伝的なリスクキャピタル業界がだめになった理由も、実はここにある。この10年間というもの、多くのリスクキャピタル企業は投資でプラスの利益を出せなかった。たいていの投資家はイノベーションが少ないとこぼしつつ、真のイノベーションを避けて通っている。安全な馬にまたがって、二番煎じのカメラアプリやSNSに投資しているのだ。だがこうした模倣製品からは、高い利回りは期待できない。・・・真のイノベーションだけが投資の成功をもたらす。
  • はるか先の企業収益を読むには、時間という要因が重要になる。言いかえれば、重要なのは長期性と恒常性だ。F1では、たとえ最速のレーシングカーであっても、総走行距離を持ちこたえなければレースに勝てない。テクノロジー企業で言えば、高い成長率は大前提ではあるが、本当に必要なのはむしろ継続性である。ここでもティールは逆張り思考をして、「終わり」からさかのぼって考える。
  • 彼は、キューバの外交官でチェスの世界チャンピオン、ホセ・ラウル・カパブランカの言葉を好んで引用する。成功の秘訣を訊かれたカパブランカはこう答えた。「他のことはさておき、まずは終盤戦の作戦を練ることです」だがほとんどの人間は市場に一番乗りしなければならない、つまり先発者が優位だと信じている。それに対して、ティールは最後にやってきて、熟した果実を収穫しようと考える。
  • 「最良の企業は、独自のマーケットを創出するものです」これはティールの投資哲学そのものだ。彼は独占志向のテクノロジー企業を探しているのだから。つまりこういうことだ。リスクキャピタル企業の大半はより低リスクな投資に集中するのに対し、ファウンダーズ・ファンドとティールは、革新的なテクノロジーで世界をよりよいものに変えようとしている企業と起業家を探している。ファウンダーズ・ファンドのマニフェストは、テクノロジー主導の投資戦略を明快に謳うものであり、その点でウォール街流の金融工学とはまったく異なるし、昨今のシリコンバレー投資家の大部分ー投資先候補の製品やサービスを専門的に評価せず、ただエクセルのシートに基づいて投資決定をくだす連中ーとも一線を画しているのだ。
  • ソーシャルニュースサイトのレディットでティールは愛読書について語っており、特に愛読するジャンルは「未来について書かれた過去の本」だという。中でも好むのは次の4冊だ。
ニュー・アトランティス (岩波文庫)

ニュー・アトランティス (岩波文庫)

 
アメリカの挑戦 (1968年) (タイムライフブックス)

アメリカの挑戦 (1968年) (タイムライフブックス)

 

ポール・クルーグマンは、本書の電子版によせた序文で、この本を「すべての世代に対して影響力を持つ」と評している。

The Great Illusion: A Study of the Relation of Military Power to National Advantage (Classic Reprint)

The Great Illusion: A Study of the Relation of Military Power to National Advantage (Classic Reprint)

 
ダイヤモンド・エイジ〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)

ダイヤモンド・エイジ〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)

 
ダイヤモンド・エイジ〈下〉 (ハヤカワ文庫SF)

ダイヤモンド・エイジ〈下〉 (ハヤカワ文庫SF)

 

漫画201905

今月も頑張っていきましょう。

異世界おじさん 2 (MFC)

異世界おじさん 2 (MFC)

 

 2巻も安定した面白さ。とくにおじさんと同世代のSEGA党にはたまらないネタが目白押し。ハイスコアガールといい、どうしてゲームと恋愛漫画?の相性はいいのだろうか。5点

殺せんせーQ! 4 (ジャンプコミックス)

殺せんせーQ! 4 (ジャンプコミックス)

 

スピンオフ4巻、基本的には本編をなぞっていく構造なのだが、随所にある仕掛けが楽しい。安定して楽しめる。4点 

 アニメに追いついてきましたね。 

波よ聞いてくれ(6) (アフタヌーンKC)

波よ聞いてくれ(6) (アフタヌーンKC)

 

ようやく宗教施設回終了、淡々と読み続けてますが、当初の勢いはない。面白くないわけではないけど、目標がほしい。3点

あっさりとした終わりだなぁと思ったのですが、全巻再読してみると、これでよかったんだな、と納得させられる結果に。なんというかひたすら技量に圧倒されますね。たしかにあっさりした読み口で過度にヒロイックでなく、派手さは皆無なんだけど、そこが逆にリアルさを感じられる巧さ。通して読むと緻密な設計が随所に感じられ、ぐうの音も出ません。5点

 本編もさることながら、インタビューがとてもおもしろかったです。4点

望まぬ不死の冒険者 3 (ガルドコミックス)

望まぬ不死の冒険者 3 (ガルドコミックス)

 

金太郎飴感はあまりないんですが、だからといって盛り上がるわけでもない。オリジナリティは評価できるんですが・・・。3点

無駄にエロ路線に走られるので、どんどん買いにくくなっています。

定期告知

Kindle Paperwhite 電子書籍リーダー 防水機能搭載 Wi-Fi  32GB

Kindle Paperwhite 電子書籍リーダー 防水機能搭載 Wi-Fi 32GB

 

 漫画を買うならkindle一択です。無印kindleは容量と解像度に問題があるので。Paperwhiteがおすすめです。

  

ロンドン旅行覚書

仕事でロンドンに旅行に行ったので覚書。

  • 5月は日本よりも5度から10度くらい寒い。当然だが、折りたたみ傘は必携。
  • ヒースロー空港から市内までは地下鉄で1時間程度。高速鉄道ならもっと早いので、時間・料金と応相談。地下鉄・バス(ダブルデッカー)に乗るにはオイスターカードが便利なので、とりあえず到着したら買いましょう。日本から購入できるビジター・オイスターは高い・郵送費がかかるなどコスパが悪いので非推奨とのこと。帰国時にオイスターカードはリファンドして、デポジットを返してもらうのを忘れずに(カードは手元に残る)。
  • ロイヤルナショナルホテルはラッセル・スクエア駅から徒歩5分程度、ピカデリー線で空港から直結なので利便性に優れており、値段も安い。ただ壁が薄く、廊下の音はうるさい。朝食は5ポンドでブリティッシュな朝食を追加可能(目玉焼き、塩辛いベーコン、ウインナー、焼きトマト、豆、ゆで卵)。標準朝食でグレープフルーツを食べ放題なのが嬉しかった。大英博物館大英図書館が近いのも嬉しい
  • 大英図書館は、図書館と言いつつ、ダ・ヴィンチの手記やベートーヴェンの楽譜など、下手な博物館顔負けの展示あり。建物のデザインもいいし、内装も面白い。無料wifiやカフェスペースがあり、文化資本の違いを感じるにもいいところ。
  • 大英図書館のついでにセント・パンクラス駅・ホテルは必見。さらにキングス・クロス駅まで足を伸ばしてハリー・ポッターストア(9¾ プラットフォーム)まではワンセットで。
  • ナショナル・ギャラリーと大英博物館なら博物館優先でいいと思うが、建物の美しさ・トラファルガー広場との合わせ技で、エクステリアではナショナル・ギャラリーに軍配。ちなみにロンドンパスの受け取り場所はナショナル・ギャラリーの北側。開店時間は10:00とあるが、土曜日に行ったときは9:30で既に行列ができていたので、思っているよりも早めに行ったほうがいい。
  • もちろん好きな作品を好きなだけ楽しめばいいのだが、ナショナル・ギャラリーの個人的なおすすめはルーベンス。これだけまとめてルーベンスを堪能できるのは素晴らしすぎる。
  • コートールド・ギャラリーは残念ながら閉館中だったので次回に。ビッグベンも修理中だった。行きの飛行機でメリー・ポピンズリターンズを観ていたこともあり、残念感が大きかった笑(アクアマンを同時に観ていたのだが、メラ役のアンバー・ハードエミリー・ブラントで脳が混乱していた;そんなに似ていないのだが)
  • イギリスは公的な施設が無料のこともあり、有料のプライベートな美術館には心理的に求めるハードルが上がってしまう。現代美術館(ICA)は5ポンドでキャシー・アッカーの特集。展示のセンスはいいと思うが、いかんせんコンテンツ不足。よほど対象が好きでもない限り、スルーでいいと思う。
  • ヨーロッパ最大の現代美術館、テート・モダンについては無料なのでICA的ながっかり感はない。元火力発電所を改装した建物はお洒落で展示センスも素晴らしいが、こちらも面積に比してコンテンツ不足感が否めない(ピカソとダリくらいか)。趣味・嗜好にもよるが、ロンドンには他に行くべき場所が多すぎるので、スルーでいいと思う。ただし、金曜と土曜は22:00まで開館しており、10Fから夜景が楽しめるので、夜景スポットとしてはいいと思う(夜はやることもないし)。
  • 知名度が一段落ちるが、V&A博物館には感動した(大英博物館のほうが史的価値は高いだろうが、面白さではV&Aのほうが上)。金曜は22:00まで開館しているとのことだったので、20:00くらいに行ったところ、一部閉館していたのが残念。しかし、一部閉館しているとは思えないほどコンテンツが充実しており、建物・庭園・カフェなどすべてが美しい。展示物には遊び心があり、また訪問したい場所ナンバーワン。
  • シティクルーズは雨に降られてしまい、船内からだったのでやや残念。ざっくりとロンドンを説明してくれるので、事前知識無しで旅行するタイプの人は早めに乗ったほうがいいかもしれない。ロンドンアイを河から見上げられるのはこれだけだと思う。土日は行列がすごい。
  • ロンドンパス、ミュージカルオペラ座の怪人の予約にはVELTRAを利用

www.veltra.com

  • テンプル教会は外側のみ訪問、ダ・ヴィンチ・コード好きなら。
  • ロンドン塔:ジュエルタワーのみ訪問。ロンドンパスがあればチケット交換不要なので、直接入り口に向かおう(チケット販売所に行くには少し登らないといけない)。王冠のキラキラ感は最高。入場は行列なしだったが、ロンドン塔内の各施設は行列だらけだったので、人気スポットなんだなと実感
  • レゴにもなった青色が印象的なタワーブリッジは必見。開閉時間はHPで公開されているので、見たい場合は確認していくこと。
  • シティホールは斬新なデザインが印象的。無料展望台London's Living Roomがあるが、僕が行ったときはイベントのため入れず。議場も無料で見学可能。脇にあるポッターズフィールドパークも晴れていれば素敵な公園。
  • Shardはロンドンパスが使えるそうだが、他の施設と少し離れているのが残念なところ。時間があれば行くべき。
  • ウェストミンスター寺院は言うまでもなく必見、セント・ポール大聖堂とともに写真が取れないのはやや残念だが、ニュートンやマクスウェルのお墓が見れるのは嬉しい。セント・ポール大聖堂の頂上に登るには528段の苦行、バチカンのクーポラの551段の悪夢が呼び覚まされる。眺めは素晴らしいものの、クーポラと違い、ロンドンにはShardやテート・モダンなど、他に高い建物(かつ楽に上昇できる)が点在しているため、プレミア感は相対的に低い。
  • バッキンガム宮殿はグリーンパークからアクセスするとテンションが上がる。残念ながら衛兵交代式がない日に当たってしまい、無念。
A03 地球の歩き方 ロンドン 2019?2020

A03 地球の歩き方 ロンドン 2019?2020

 
まっぷる ロンドン・イギリス (マップルマガジン 海外)

まっぷる ロンドン・イギリス (マップルマガジン 海外)

 

 

 

エンリコ・フェルミ 原子のエネルギーを解き放つ

エンリコ・フェルミ―原子のエネルギーを解き放つ (オックスフォード科学の肖像)

エンリコ・フェルミ―原子のエネルギーを解き放つ (オックスフォード科学の肖像)

 
  • あるとき、エンリコが微積分の本を返しに来たので、君にあげるからもってなよと言ったところ、「いや、いつでも思い出せるから大丈夫」と言うのである。
  • そこは物理学をさらに深く学ぶのに適した環境でもあった。フェルミとラセッティはすぐに学部学生の研究室に自由に出入りすることを許可された。担当の老教授があまりに急速な現代物理学の進歩についていけなくなったためである。ようするに、その教授は教授と学生という役割を取り替えて、相対性理論ードイツ人理論物理学アルベルト・アインシュタイン(1879-1955年)による革命的な時空間の見直し について教えてほしいとフェルミに頼んだのだ。心にもない謙遜をする性質でなかったフェルミは、友人のエンリコ・ペルシコに宛てた手紙に、「僕はだんだん物理学部で最も影響力のある存在になりつつある」と書いている。それは事実だった。明晰な頭脳と独学の才能ーフェルミには、さらに深く物理学を学ぶための強力な武器が備わっていた。
  • わずか1年の大学生活で、フェルミはどこまで物理学と数学の知識を深めたのか。1919年の夏にフェルミがつくった一冊のノートが、その深さを示している。このノートで、フェルミはまず、独学で学んだ力学の理論と物質の構造について理路整然と述べている。続いて革新的なプランクの放射法則を論じ、さらにいくつか最先端のテーマにも触れている。現在、このノートは、フェルミが発表した論文の多くとともにシカゴ大学のジョセフ・レーゲンシュタイン図書館に保管されている。このノートを見ると、1年生とは思えないほどの明晰な思考力と驚異的な量の知識をもっていたことがよくわかる。また、それぞれのテーマの根っこにある物理的性質を明らかにする理論に惹かれていたこともわかる。フェルミは、複雑な数学のための数学には興味がなかった。彼が求めたのは、起こっている現象のほんとうの姿、自然界のなりたちを理解することだった。このノートをつくるとき、フェルミが使った材料は自分の頭の中身だけだった。
  • ハンス・ペーテは、「数学的な複雑さと無駄な論理形式を取り去り」、状況の核をなす物理だけを抜き出して解明してしまう、とフェルミを称賛している。数学でなく現象そのものに意識を集中できるところが、多くの理論物理学者とは対照的である。理論物理学者の採る手法は、一般に、論理に頼り直感を廃する傾向が強くなる。手元にある問題をまずは方程式で表し、それをとき、その後で初めてその状況に内在する物理について考え始める。つまり彼らの場合、まず数学があり、その後に物理が来る。この手法を教える教科書や講座は、たとえば「理論物理学の方法論」など、数多くある。これはこれで価値があり、大切である。だが、 フェルミが好むやり方ではなかった。数学が不得手だったわけではない。実際のところ、フェルミは数学を非常に得意としていた。しかし、彼だけに与えられた特別な才能となればー単純化がすぎて答えの精度がやや下がる危険はあるがーそれは物理を理解する才能だった。フェルミは実践的、実用的だった。そして、その後の時代の多くの物理学者が、フェルミの直接的な手法がもたらした洞察の恩恵を受けているのである。
  • しかしその栄光を手にする前、その栄光をもたらす研究が本格的に始まる前に、ちょっとしたつまずきがあった。それは、イギリスの科学雑誌『ネイチャー(Nature)』の編集部にフェルミが送った1本の論文だった。ここの編集者は知の門番であり、専門家の意見を聞きながら、どの論文を発表し、どの論文を発表しないかを決める。一九三三年に、フェルミは、原子核がベータ粒子(電子)を放出するときに起こる現象であるベータ崩壊を説明する理論をつくり上げた。説明上の必要から、フェルミは新しい中性粒子、ニュートリノ(neutrinoーイタリア語で「小さな中性のもの」)を発明した。かなり大胆な仮説ではあったが、放出されたすべての電子が同じエネルギーになるのではなく、さまざまに異なるエネルギーをもつ電子が特徴的なかたちで分布する理由を説明するためには必要な仮説だった。電子のものにならないエネルギーはすべてニュートリノがもっていくことになるため、全体としてのエネルギーは保存される(エネルギー保存は物理学のすべての理論の根幹をなす性質であり、フェルミとしてはエネルギー保存則を破綻させるよりは、ニュートリノという新しい概念を導入した方がよいと考えた)。この論文を『ネイチャー』に送った。ところが、担当編集者は「頭がおかしいんじゃないか」と没にしてしまった(実際にはもっとていねいに、「物理学的な現実からかけ離れすぎた抽象的な考察が散見される」と言っている。
  • フェルミはこのベータ崩壊の論文を取り戻し、別のところで改めて発表した。この理論は時の試練に耐え、今も生き続けている。フェルミは実際にはさらに重要な別の研究でノーベル賞を受賞することになるが、それがなければ、あるいはこの理論でノーベル賞を受賞していたかもしれない。
  • 原子衝突実験は、イレーヌ・ジョリオ・キュリー(1897ー1956年)とフレデリック・ジョリオ・キュリー(1900-1958年)の夫妻によってパリでもおこなわれていた。夫妻は、アルファ粒子をホウ素に衝突させ、そのときにホウ素から出る透過性放射線を観測した。ただ残念なことに(これは物理の世界では有名な「不幸話」のひとつである)、彼らはひとつ間違えた。この透過性放射線ガンマ線だと考えたのだ。1932年、ラザフォードの研究室でジェームズ・チャドウィック(1891-1974年)が、これらの透過性放射線ガンマ線でなく中性粒子であることを証明した。彼はこの中性粒子を中性子と名づけた。チャドウィックの発見以前は、物理学者たちは原子核が陽子と電子でできていると考えていた。これも誤りである。チャドウィックによって、原子核中に電子は存在せず、正電荷をもつ陽子とともに原子核中に存在するのはこの第二の電気的に中性な粒子であることがわかった。陽子と中性子。あらゆる原子核を構成するのは、このふたつだったのである
  • ジョリオ・キュリー夫妻はホウ素とアルミニウムにアルファ粒子を衝突させて放射能を人工的に発生させる研究によって、ノーベル化学賞を受賞した。放射能自体は、夫妻の発見以前から、ウランやトリウムなど最も重い元素群ではよく知られた性質だった。実際、イレーヌの母マリー·キュリー(1867-1934年)は、自然放射性元素、特にラジウムポロニウムの研究の先駆者だった。しかし、このとき、新たな種類の放射能、誘導(もしくは「人工」)放射能が登場したのである。中性子と人工的な誘導放射能フェルミは、すぐさまこの2つの発見を融合させた。中性子を使って放射能を誘導したのである。
  • 誰もが口にするのは、彼の教師としての特別な資質だった。ひとりは、「彼は教えるという行為そのものをとても楽しんでいました。自分の話をすぐには理解できない学生がいると喜ぶのです。もう一度説明ができるから、楽しみが二倍になると言って」と語った。大切な教訓を学んだと語る者もいた。「何でも最後までやり遂げなさい。その気になりさえすれば何とかなるだろうなんて、思い違いをしてはいけない。やってみて、記録に残し、そうして初めて自分のものにすることができる」。こんな思い出を語った者もいた。「フェルミは人の問題にもつい集中してしまうから、いっしょにいると楽しかった」。
  • みな一様にフェルミ人間性を称えた。謙虚だったこと。慎み深かったこと。どんなかたちでも気取ることが嫌いだったこと。「権力を笠に着る」ことが嫌いだったこと。「フェルミは、親切で頭の良い友人でした。物理学を心躍るような体験にしてくれた素晴らしい人でした」と、ある同僚は表現した。

失敗とは

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  • 過保護の母親ほど、子供に、失敗や挫折を経験させないようにと願うが、それは、明らかに間違いだ。僕らの仕事で言えば、挫折するということは、この方法が正しいと思って一生懸命に研究を積み重ねてきて、結局それがだめだったと判断を下した時で、僕はそんなことはしょっちゅうやってきた。そういう無駄を重ねているうちに、独自の勘が育ち、その無駄な経験から応用力が生まれてくるのだと考えれば、結局、長い目で見て無駄だとは言い切れない。

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  • 結果が世の中に非常に大きなインパクトを与えるテーマであること。研究というのはほとんどが失敗の連続です。失敗の連続にもへこたれずに立ち向かっていく力こそが成功に導く真の研究力です。はやりでないこと、ほかの研究者のやらないことに意義を見出す力、これこそ研究者にとって不可欠の力です。阿部博之

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  • 物理学者のニールス・ボーアは、専門家とは「非常に狭い範囲で、生じうる間違いのすべてを経験した人」だと定義した。この警句は、学習というものの重要な教訓をまとめている。つまり、人は何度も何度も間違いをおかすことで、正しいやり方を学ぶということだ。教育とは、数々の間違いから搾り取られた知恵のことなのだ。
  • サミュエル・ベケットは適切にもこう言っていた。「試してみたら失敗した。それがどうしたというのだ。もう一度試せ。もう一度失敗し、よりよく失敗するのだ」

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  • 自分がやったことはだいたい失敗してきた。時にはびっくりするくらい、うまくいくことがある。それを味わうと何回失敗しても怖くない。

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  • それまでに経験した失敗は、人生観を見出すための月謝と思えば、安いものだ。堤康次郎
  • 成功の反対は失敗ではなく「やらないこと」だ。佐々木則夫
  • 失敗のない人生、などというものはあり得ない。失敗は何事かを成し遂げる。過程で起こることであり、それは、最終結論ではない。マーフィー
  • 人間は、二通りしかいない。成功者と失敗者ではない。成功も失敗もする人と、成功も失敗もしない人である。中谷彰宏
  • 私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、うまくいかない方法を見つけただけだ。トーマス・エジソン

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  • 「医学でも科学でも、何かの道を歩いて行ってそれが袋小路だと分かるだけで、ものすごい貢献だ。その道を二度と行かずにすむじゃないか。マスコミはこれを失敗と呼ぶ。だから政府では誰もイノベーションを起こそうとしたり、リスクをとろうとしなくなるのだ」マイケル・ブルームバーグ

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  • 叱ったり、起こったり、厳しく対応するだけが指導ではありません。失敗は誰でもやってしまうものですから、その後、どう頑張ろうと奮起させてやるかも指導の持つ重要な意味であることをこの時学びました。

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  • 新しい挑戦をはばむ恐怖心を取り除くことだ。・・・失敗はチャンスが姿を変えたものだと捉え直す。本能的に失敗を恐れず、成功までに通らなければならないステップだとみなすのだ。
  • ジョージ・ルーカスマイルス・デイビスの両方と仕事をしたことがあるスコット・ロス・・・「2人共恐いもの知らずでした。私が見た限りでは20歳みたいでしたよ。戦場に飛び込んで撃たれる覚悟はいつでもできていたようです」。
  • ノーマン・ブリンカー・・・「失敗やミスを認めようとしないということは一度もありませんでした。そのおかげで周りの人間は随分安心できましたよ」

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  • スタン・リー「芸術家を雇ったら、仕事を任せないといけない」

  • スーパーボスは完全に権限を異常し、普通の上司がためらうほどの徹底ぶりで権威を手放し監視を辞めるので、部下は次の高みに速く行くよう常に促される。

  • ブリンカーは私達に大きな裁量をくれました。失敗する権限さえ確保されていました」

  • ジョージ・ルーカスの行動で特に良かったのは、私達だけにしてくれたことです。言うなれば、でかけて、作って、できたものを持って帰るまでの資金をくれたんです」

  • ヨルマ・パヌラ「指揮者にはそれぞれの解決策があるので、探さなければならない。道のりは長くなるが、それだけの価値はある。泳げるようになりたければ、勇気を出してみずに飛び込まなければいけない。本当に溺れそうにならないかぎり、私から手は差し伸べない。」

  • マイケル・マイルズ「失敗を全くしないのは、何もしていない人間だけです。だから行動を起こせという時には、ミスも許容しなければならないのです」。また、スーパーボスは部下が何かを知らなくても許容する。ただしその答えを速く見つけるのは部下本人の仕事だ。

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  • 何が起きたかを突き止めようと駆け寄ってきたフェイスブックの同僚たちは、彼女の失敗を責めたり、あるいはエクスチェンジチームとバグツールチームという2つの既存部署の縄張りを犯したことを咎めるよりも、なぜタスクリーパーをつくったのかの方に興味があるようだった。どういうつもりだ!などという人は一人もいなかった。
  • 他の大企業では、それぞれの部署が自分の縄張りを社外から、そしてお互いから守ろうとする。部門間の競争も激しく、領海侵犯は歓迎されない。
  • 仕事のやり方がいささか無秩序に見えるだけではなく、同業他社と比べると社内対立や硬直性といった問題が目立たなかった。少なくともゴールドファインが見る限り、ソニーを蝕んだようなサイロや官僚組織は存在しないようだった。

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  • 寺田寅彦「怪我を恐れる人は大工にはなれない。失敗を怖がる人は科学者にはなれない。科学もやはり頭の悪い命知らずの死骸の山の上に築かれた殿堂であり、血の河の畔(ほとり)に咲いた花園である。」

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  • グレアム「スタートアップを始めてもたぶん失敗するだろう。ほとんどのスタートアップは失敗する。それがベンチャー・ビジネスの本質だ。しかし、失敗を受け入れる余裕があるなら、失敗の確率が90%ある事業に取り組んでも判断ミスにはならない。40歳になって養わなければならない家族がある状態での失敗は深刻な事態になる。しかし君たちは22歳だ。失敗してもそれがどうした?22歳で在学中にスタートアップに挑戦して失敗したとしても、23歳の一文無しになるだけだ。そして得難い経験を積み、ずっと賢くなっているだろう。これが我々の呼びかけている学生向けプログラムの概要だ。」
  • 間違っていても何らかの決断をするほうが、ずるずると決断を引き伸ばすよりずっといいんだ。自分が興味を持てることをやるのが重要なのははっきりしている。しかし、失敗のコストが最小であるようなアイデアを選ぶようにしなけりゃいけない。この場合のコストというのは君らがそれにかける時間だ。

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  • 「一番重要なことを選ぶ」「世界にとって意味のあることにハードに取り組んで、失敗を恐れないで下さい」

    ラリー・ペイジ

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  • 「たとえ失敗したとしても、完全に失敗するようなことはめったにない」・・・必ず何らかの成果を得られるはずだと。「皆、それが分かっていないんだ」ラリー・ペイジ

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  • アルベルト・アインシュタイン「人生には二通りの生き方しか無い。奇跡など何一つ存在しないかのように生きるか、すべてが奇跡であるかのように生きるかである」
  • 数学や科学では失敗から多くを学び取れることである。問題解決の際、ミスを重ねるごとに力がつく。そうと知ったら、間違いを見つけても満足できるのではないだろうか。エジソン「失敗したのではない。うまくいきそうもない方法を一万通り見つけただけだ。」人はどうしても間違えるものだ。それを防ぐために課題には早めに取り掛かり、心から楽しんでいる場合をのぞいて勉強時間を短めにして休憩を挟もう。本人が一休みしても、拡散モードは陰ながらせっせと働き続ける。・・・拡散モードさえ利用すればぶらぶらでき、万事順調に運ぶわけではない。集中モードでは問題に意識を向け、拡散モードでは一転してリラックスすることを交互に繰り返す「分散学習」を数日間や数週間続けてこそ効果が上がる。
  • 学習とは教材や講義などから吸収した情報を理解することでもあり、理解するためには重要な点をつかんでおく必要がある。・・・学習には矛盾したところがある。・・・問題を解くには集中しなければならないが、集中すると斬新な解き方を思いつきにくい。成功と同じく失敗も重要である。学習では粘り強さは長所となる一方、見当違いの粘り強さはイライラを募らせる。

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  • 我々は皆学ぶ必要があり、失敗こそ成功への道だ。結果よりも学習のほうが重要だ。
  • マッキンゼーの年次調査によれば、変革プロジェクトの7割は失敗に終わる。変革の成功を阻害する最大要因は、従業員の抵抗と経営陣の後押しがないことであり、ほぼ6、7割がこれに該当する。変革を嫌うのが人間の本質であり、この状況はずっと変わらない。

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  • 素晴らしいアイデアを隠しておいて、それが完成するまで誰にも話さないというのは、リスクの高い大きな賭けだ。早い段階で設計ミスをしやすくなるし、車輪の再発明をする可能性があるし、誰かと協力するメリットが失われる。・・・検証を重視した「早い段階で、高速に、何度も失敗せよ」の精神を忘れないようにしよう。
  • 失敗は選択肢の一つ・・・過去に失敗したことがなかったら、それは革新的でないか、リスクを取っていない証拠である。失敗は次回のために学習して改善する絶好のチャンスだ。

  • Googleは「完璧になるまで洞窟に隠れない」の考えに従っている。何となく使えるようになったら、生煮えでもリリースして公開する。Google Labsがコレだった。成功や失敗がすぐに分かるので、プログラミングチームは学習・反復が可能になり、できるだけ早い段階で新しいバージョンをリリースできるようになる。欠点としては、Gmailのように4年以上も「ベータ」なものが有ると、馬鹿にされてしまうことだ。・・・必要なのは、不完全なソフトウェアを見せてもかまわないという謙虚と、ユーザーがその対応を賞賛し、迅速な改善を望んでいるという信頼だ。 

  • 失敗を文書化(ポストモーテム(postmortem)を書く)・・・失敗を適切に文書化しておけば、(現在と未来の)他人がそれを呼んで学習し、歴史を繰り返さぜに済む。後に続く人たちの滑走路となるように、君の奇跡を消さないでもらいたい。

  • チームに変化を引き起こすもう一つの方法は、安心感を与えてリスクを取れるようにすることだ。リスクは悩ましいものである。多くの人はリスクに恐怖し、会社はコストを掛けてリスクを排除しようとする。リスクを取れば成功の確率が上がるのに、保守的に小さな成功を目指そうとする。僕たちはGoogleで以下の様なことをよく言っている。不可能な目標を達成しようとすると、失敗する可能性が高くなる。だけど、簡単にできそうなことをするよりも、できそうもないことに挑戦して失敗するほうが道が開けるはずだ。リスクの取れる文化を育てるには、失敗してもいいことをチームに知らせればいい。

  • なんとかしてやってみよう(失敗してもいい)。同じ失敗を繰り返さない限り、失敗によって多くのことをすばやく学べる。犯人捜しや責任のなすりつけをするのではなく、失敗を学習の機会と考えることが重要だ。失敗はできるだけ早い方がいい。それだけリスクが低いからだ。

  • あとで失敗しても教訓は得られるが、リスクは高くなるし失われるものも多い(大部分はエンジニアリングの時間だ)。ユーザーに影響をあたえるところは好ましくないが、そこから学べることが一番多い。Google

  • 失敗したときには、ポストモーテムと呼ばれるものを開催している。これは、失敗につながった出来事を文書化して、同じ失敗を繰り返さないための手続きだ。批判するところでもないし、官僚的なチェックを入れるところでもない。問題の中心部に集中して、再発を防止するものである。難しいこともあるが、とても効果的だ(達成感もある!)。

  • 個人の成功と失敗は少し違う。個人の成功は称えてもいいが、失敗の責任を追求するようならチームは分裂し、リスクを取らなくなる。チームとして失敗し、その失敗から学んでいけばいい。個人の成功はチームの前で称えよう。個人の失敗はプライベートで建設的な批判をしよう。いずれの場合もHRTをうまく使い、チームが失敗から学べるように支援しよう。(みんなの前で個人を批判してはいけない。それは惨めで残酷な行為だ。チームは既に失敗したことをわかっている。傷口に塩を塗る必要はない。)

  • 失敗に対する不安。これが悪いマネージャーに共通する特性だ。この不安によって保守的になる。典型的なエンジニアの働き方とは正反対だ。マネージャーにリスクを回避するように言われたら、君はプロダクトに新しいアイデアを注入できなくなる。その結果、誰かが設計したプロダクトを(機会的に)実装することになってしまう。(こういうやり方もあるかもしれないが、一流のエンジニアは面白くないと思う。)

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  • 「計画とリスク管理主義」よりも、「どんどんやって、体で覚える」。そのほうが大事なんじゃないかっていうことを言いたかったんです。それがナウイストということなのですが。・・・研究の場面でも完璧な計画を立て用とすると、計画だけで終わってしまって結局何も出来ないことになってしまいます。ですから、いかに早く始めて、それで結果をまず見るか。私たちの場合は実験ですが、その結果を見て、また次の実験をする。そのほうが、回り道のように見えて早いのです。
  • 失敗しても、結局それは情報のひとつとして残るわけだし、しかも「仮説」と違って、これは「事実」だから。それは勉強になりますよ。・・・「いや、どこか教科書に書いてないと安心できません」とか。・・・そういうことを考えている間に、まずやってみる、トライしてみる。トライ&エラーが重要ですよね。
  • 知識がありすぎると、リスクばかり考えてしまうんですね。知識があると「こんな実験成功するわけない」とか「昔、同じような実験をやって失敗した人がいる」とか、そういう否定的なことばかり刷り込まれてしまって、チャレンジできなくなってしまうんです。私の場合、そうしたことを知らないから、何も怖いことがないんです。
  • MITにもロバート・ランガーって言う先生がいて、彼の面白い発明があるのですが、彼に何でそんなことをやったのかって聞いたら、「いや、できないっていう論文がたくさんあったけど、読まなかった」って。・・・結局、できない理由がいっぱいあると、だんだんリスクを取れなくなっちゃって。でも、世の中すごいスピードで変わっているから。

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  • アカデミズムはいわば舗装された道路だ。われわれはアカデミズムの先の世界を必要としている。しかし現在のアカデミズムは行き止まりだ。「なるほど国立研究所や一流大学の研究室には、我々のところと同じレベルの優秀な人間がいるだろう。彼らは十分な知識がある。しかし失敗を恐れずリスクを取りに行く精神がない。強い独立心の伝統もない。この独立心の伝統こそ、実験的なライフスタイルを宗教的なまでの強烈さで追求する新しい種類の人々を特徴づけるものだ」

  • スタンフォードが際立っているのは、失敗してもいいからやってみろと学生に教えているからだと言う。「みんな進んで実験したがる。それがこのオープンな雰囲気を作り出した」とミラーは説明した。

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  • 失敗力=失敗を恐れない力

  • 米倉:ここも何か偉そうに、だいたい僕もそう思った。何がスマートミステイクだと。ミステイクはスマートなわけがないじゃない。みんな失敗するなんて思わないでやるから失敗なんだよ。それを後知恵でスマートミステイクとか言うのは。

  • 三木谷浩史氏(以下、三木谷):僕が付けたんじゃないですよ。

  • 米倉:あっ、違うんだ。

  • 三木谷:言いたかったことは、結局失敗力というのは、ひとつ読み替えると、失敗を恐れない力ということだと思うんです。

  • 米倉:なるほど。

  • 三木谷:やっぱり失敗から学ぶっていうのもあるんですけれども、失敗を恐れない力っていうことなんじゃないかなと僕は思っていて。結局みんな失敗したのを陰で言われるのが怖くてやれないわけじゃないですか。そうしたときに、じゃあ、「本当に失敗って何なの?」っていうことを考えないと、結果が、本当に人生が終わってしまうのか。あるいは会社が本当に潰れちゃうのか、そういう失敗もあると思うんですけれども。大概の失敗っていうのは、大した失敗じゃないですよねと。だから本当にここ1番というときに、大勝負をはるっていうのも必要だと思うんですけれども、それ以外のことはどんどんやって、だめだったら止めればいいじゃないというのが、このスマートミステイクということだと思うんですよね。

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  • スーザンがリーダーとして果たす役割の中で重要と考える一つが、エンジニアだけでなく従業員全員が、懲罰を恐れずにリスクを取ることが出来る『安全空間』をつくることだ、と言う。誰が考えても失敗する愚かなリスクを冒すことは、議論の余地無く良い方法ではない。でも、自分の頭で考えなさいということはつまり、リスクを取りなさい、そして自分で決断を下しなさい、ということ。そのためには、失敗してもいいと認めて、失敗を責めないこと。私が関わったビジネスで、何もかもうまくいきました、なんてことは一つもない。ビジネスリーダーにとって必要なのは、失敗する確率より成功率が上回るようにさせ、時間をかけて成功率を向上させること。過去の仕事でほとんど失敗をしたことがない人は、リスクを取らずに確実なことしかやって来なかった傾向がある。

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  • 隠れた真実を恐れるのは、間違いたくないからだ。隠れた真実とは、いうなれば「主流が認めていないこと」だ。だから間違わないことが君の人生の目標なら、隠れた真実を探すべきじゃない。・・・自分が孤立していて、しかも間違っているかもしれないとなったら、耐えられないだろう。

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  • 最近、何か失敗をしたか?・・・1つでも答えがノーになるものがあったら、それは危険な兆候である。惰性で生きているということかもしれない。その状況はたしかに心地良いだろう。だが、そういうほどほどの満足に甘んじている間にも、技術は急激に進歩していく。身につけたことはあっという間に時代遅れになってしまうのだ。成長には、まず失敗を恐れない気持ちが大切だ。

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  • ほとんどの企業がだんだん劣化するのは彼らが以前にやったのとだいたい同じことを、マイナーチェンジしただけで続けようとするからだ。絶対に失敗しないとわかっていることをやりたがるのは自然なことだ。でも漸進的な改善は、やがて陳腐化する。これは特に、確実に漸進的でない変化が起こるとわかっている技術分野ではそうだ。ラリー・ペイジ

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  • 自分の失敗を認めたとき、初めて失敗は過去のものになる。失敗した事実を否定する人は、けっしてそこから抜け出せない。失敗を認めるのは恥ずかしいことではない。失敗を認めるということは、自分が以前よりも賢くなったことを意味するのだから。

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  • 後悔に着目するのだ。・・・経営学者のチェスター・バーナード・・・「やってみれば、失敗してもなにか少しは得るところがあるが、やってみもしないのは、やればあったかもしれない測りしれない可能性を失うだけだ」

  • ジェフ・ベゾス「後悔最小化の枠組み・・・私は80歳になった自分を想像して、「オーケー。今、私は自分の人生を振り返っているところだ。後悔の数が最小限になっていればいいのだが」と言えたらよいと思いました。・・・失敗しても後悔しませんが、挑戦しなかったら後悔するとわかっていました。来る日も来る日も後悔にさいなまれるとわかっていたのです。だからそう考えたとき、驚くほどたやすく決断できたのです。」

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  • 子供たちはいちかばちかやってみるんですね 何も知らなくても子供はただやってみます そうでしょ?間違えることを怖がらない 間違えを犯すことと創造的であることは 同じではありませんが 間違えることを恐れていたら 決して独創的なものなど思いつかない 間違えることを許されずに育った 子供は本来の才能を失ってしまう 間違えることを恐れるんです 会社はこうやって経営されてますね 過ちを犯すことを非難する 私たちが作った国家教育システムでは 失敗は最悪だと教えます 教育が人間本来の創造性を殺してしまっている
  • ピカソはかつてこう言いました 「子供はみな生まれながらのアーティストだ」 問題は成長しながらどうやってアーティストたり続けるか 我々は創造性を育てるどころか見失い 創造性の欠落した教育を受けている 一体どうしてなのでしょうか?

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  • 画期的な商品やサービスを生み出そうとすれば失敗する可能性も高くなりますが、雇用の流動性がない(伽藍の)会社では、いったん失敗した社員は生涯に渡って昇進の可能性を奪われてしまうのです。

  • 大きなリスクを取ってイノベーションに成功したとしても、成果にふさわしい報酬を与えられないことです。「正社員の互助会」である日本の会社では、一部の社員に役員や社長を上回る高給を支払うことができません(この矛盾は発行ダイオードの発明を巡る訴訟で明らかになりました)。

  • このように日本的雇用制度は、「リスクを取るのはバカバカしい」という強烈なインセンティブを社員に与えています。

  • 経営者自らが大きなリスクを取ってイノベーションを目指すことです。カリスマが去って官僚化した企業からはイノベーションは生まれません。

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  • ハーバード大学の心理学者ハワード・ガードナーは、最も成功した人びとを研究して発見したことを著書『心をつくる』(未邦訳、原題Creating Minds)のなかで述べている。
  • 創造的な人びとは、骨組みを組むように経験を積みあげていく。この種の人々は非常に野心的で、つねに成功をおさめるわけではない。しかし失敗したときに、彼らは嘆いたり、責めたり、極端な場合、断念したりして時間を無駄にするようなことはしない。そのかわり、失敗を一つの学習経験と捉え、そこから学んだ教訓を将来の試みに活かしていこうとする。

 

  • 研究者で、オンラインゲーム・デザイナーでもあるジェーン・マクゴニガルは次のように説明する。プレーヤーは、だいたい5回中4回はミッションをクリアできず、時間切れになる、パズルを解けない、戦闘に勝てない、得点をあげられない、衝突して炎上する、死亡する、といった結果を迎える。そこではたと疑問が湧く。果たしてプレーヤーは、失敗しても楽しんでいるのだろうか? じつはそうなのだ。良くデザインされたゲームで遊んでいれば、失敗してもプレーヤーは失望しない。むしろ一種独特の幸福感を得る。彼らはワクワクし、興味をかき立てられ、なにより楽観的な気分になる。
  • 職場は、従業員が仕事に熟達することを望んでいる。当然のことだ。しかしそれはいわば、プレーヤーが飽和状態になっているゲームで、退屈このうえない。良いゲームは失敗率80%で、それがプレーヤーの情熱を掻きたて、ゲームを続けさせる。ところが職場は失敗を嫌う。失敗がゼロなら、面白味もゼロだ。そして世の中には課題がなく、およそ魅力的とはいえない。ただただ忙しいという仕事が溢れている。およそ魅力的とはいえない。

 

  • 「マシュマロ·チャレンジ」は・・・・ピーター・スキルマン (マイクロソフト社スマートシングス、ゼネラルマネージャーという仰々しい役職に就いている)が、創造性を鍛える課題として考案したものだ。スキルマンはこのゲームを、5年以上にわたってエンジニア、CEO, MBAの学生など700人以上の人びとを対象に実施してきた。
  • 一番成績が良かったのは誰だろう?なんと、幼稚園に通う六歳児が勝利した(一番成績が奮わなかったのはMBAの学生たちだった)。園児たちは計画性に優れていたのだろうか? いや、違う。彼らはスパゲティの特性やマシュマロの硬さについて特別な知識を持っていたのだろうか?それも違う。では、園児たちが成功した秘訣は何だったのか? ただがむしゃらに飛びついたのだ。ワイズマンの言う運がいい人のように、たくさんのことを次々と試した。彼らは何度試してもたちまち失敗したが、そのたびに、めきめき習得していった。
  • つまり、見本をつくっては試す、つくっては試す、つくっては試す…と時間切れになるまでひたすらこれをくり返すのが、園児たちのシステムだった。定められた道筋がない場合には、このシステムが勝利をおさめる。シリコンバレーでも昔から「早く失敗して、損害を小さくしよう」と言われてきた。
  • 教育心理学者でテキサス大学准教授のクリスティン・ネフは、それは「自分への思いやり(セルフ・コンパッション)」だという。自分自身への思いやりを持てば、失敗したときに、成功の妄想を追う必要もなければ、改善の見込みがないと落ち込む必要もない。

  • 実際、『セルフ・コンパッションと自己に関連する不快な出来事に対する反応ー自己を思いやることの意義』と題する研究では、自分への思いやりのレベルが高い人は、現状認識も正確であることが明らかになった。彼らは自分自身や世界を正確に把握していたが、だからといって失敗したときに、自己を責めることもない。一方、自尊心に重きを置く人びとは、ときどき自分を欺いたり、否定的だが有益なフィードバックを退けたりする。現実を受けいれるより、自己の価値を証明することに執着するのだ。これは傲慢さやナルシシズムにつながりかねない。統計的に調べると、自尊心とナルシシズムのあいだには確かな相関関係があったのに対し、セルフ·コンパッションとナルシジズムの相関関係はほぼゼロだった。

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  • 『失敗』は大切です。失敗しなければわからなかったことを、私たちに気づかせてくれます。何らかの結果を得たときにはいつも、特にそれが新しい現象であったときには『こうなった原因は何だろう?どうしてこうなったのだろう?』と考えることを忘れないでください。疑問を持って、考え続け、その理由を見つけていくことで、私たちは自然哲学者(科学者)となるのです。

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失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織

官僚の無謬性を信奉する某国の官僚は必読ではないだろうか。

失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織

失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織

 

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  • 失敗から学ぶことは最も「費用対効果」がよい・・・失敗は、予想を超えて起こる。世界は複雑で、すべてを理解することは不可能に等しい。だから失敗は、「道しるべ」となり我々の意識や行動や戦略をどう更新していけばいいのかを教えてくれる。なにか失敗したときに、「この失敗を調査するために時間を費やす価値はあるだろうか?」と疑問を持つのは間違いだ。時間を費やさなかったせいで失うものは大きい。失敗を見過ごせば、学習も更新もできないのだから。
  • 医療過誤のコストは、控えめに見積もってもアメリカだけで170億ドル(1ドル100円換算で1兆7000億円)にのぼる。2015年3月現在で、英・国民保健サービス訴訟局は、過失責任の賠償費用として261億ポンド(約3兆2800億円)の予算を計上した。失敗から学ぶことは決して資金の無駄使いではない。むしろ、最も効率的な節約手段だ。資金だけでなく、人命も無駄にせずに済む。
  • 科学は常に「仮説」である:科学も、失敗から学ぶことが重視される分野のひとつだ。カール・ポパーも、科学は自らの失敗に慎重に応えることにより発展を遂げる、と指摘している。仮説は、実験や観察によって反証される可能性がある。その点において、新たな科学理論は常に脆弱だと言えるだろう。しかしポパーはこれを科学の弱点ではなく強みだととらえた。科学の歴史は、人類のあらゆる思想の歴史と同様、失敗・・・の歴史であるとポパーは言う。「しかし科学は、失敗が徹底的に論じられ、さらにそのほとんどは修正されてしかるべきときに修正される、数少ないおそらくはたったひとつ学問だと言えるのであり、その賢明な行動によって進歩がもたらされるのであるのである
  • アリストテレスは「重い物体ほど早く落下する」と主張し、人々はほぼ盲目的に信じていた。しかし、ガリレオは違った。彼はその真偽を見極めるために、「ピサの斜塔に登り、重さの違う2つの球を落とす」というかの有名な検証を実施した。その結果、球はどちらも同詩に着地。重さによって落下する速度に違いはなかった。アリストテレスの説は覆されたのである。ガリレオポパーの言う仮説の反証可能性」を実証したのだ。
  • アリストテレスの失敗は公のものとなった。信者にとっては大きな打撃となり、その多くが実験に対して猛然と異議を唱えた。しかし科学にとっては深い意義のある勝利だ。実験の結果から新たな仮説が導き出され、再び反証に晒されれば、そこからまた進歩が生まれる。
  • 一方、疑似科学はどうだろう、? たとえば占星学の予測は、どうしようもなく曖昧だ。私は本書の執筆中, Horoscope.comを覗いて天秤座の運勢をチェックしてみた。「家庭か職場で大きな変化が起こる気配』と書かれていた。これは一見、検証可能な予測に思えるかもしれない。しかし天秤座であろうとなかろうと、誰に起こることにも当てはまってしまう。変化の「気配」くらい、どこにでも見つけることができるだろう。この曖昧さは星占いの強みだ。「間違い」は決してない。しかし失敗を一度も経験しない代償は大きい。学習できないからだ。占星学はこの200年余り有意義な変化を遂げていない。
  • 19世紀まで広く信じられていた、「天地創造は紀元前4004年」という説はどうだろう?この説は化石の発見と、その後の放射性炭素年代測定法によって反証された.またその新たなデータによって、地球の誕生は、紀元前4004年よりはるかに前だという動かしがたい事実が明らかになった。
  • しかしイギリスの自然学者フィリップ・ヘンリー・ゴスは、『オムファロス』という著書を出し、創造論を擁護した。彼の主張はこうだ。「聖書の記述から逆算した紀元前4004年説に間違いはないが、神は地球を古びた状態に見せるため、意図的に化石を作った」。ゴスは創造論を擁護しつつ、後付け的な解釈で真実とも摺り合わせようとしたのである。しかしそのために、彼は自分の仮説を反証不可能にして、失敗の余地を失くしてしまった。どんなデータも、どんな発見も、ゴスの仮説を覆すことはできない。天地創造が紀元前4004年より前だと示すあらゆる物証は、神が世界にいたずらをしたというゴスの仮説を裏付ける材料となるからだ。
  • 何にでもあてはまるものは科学ではない:オーストリアの精神医学者、アルフレッド・アドラー心理療法についても同じことが言える。アドラーの理論の中心となったのは「優越コンプレックス」だ。彼は「あらゆる人間の行動は、自分を向上したいという欲求(優越性の追求、または理想の追求)から生まれる」と主張した。1919年、カール・ポパーアドラーに会い、アドラー理論では説明がつかない子どもの患者の事例について話した。ここで重要なのはその詳細ではなく、アドラーの反応だ。そのときのことを、ポパーはこう書いている。
  • 彼(アドラー)はその患者を見たこともないのに、持論によってなんなく分析した。いくぶんショックを受けた私は、どうしてそれほど確信をもって説明できるのかと尋ねた。すると彼は「こういう例はもう1000回も経験しているからね」と答えた。私はこう言わずにいられなかった。「ではこの事例で、あなたの経験は1001回になったわけですね」
  • ポパーが言いたかったのはこういうことだ。アドラーの理論は何にでも当てはまる。たとえば、川で溺れる子どもを救った男がいるとしよう。アドラー的に考えれば、その男は「自分の命を危険に晒して、子どもを助ける勇気があることを証明した」となる。しかし同じ男が子どもを助けるのを拒んでいたとしても、「社会から非難を受ける危険を冒して、子どもを助けない勇気があることを証明した」となる。アドラーの理論でいけば、どちらにしても優越コンプレックスを克服したことになってしまう。何がどうなっても、自分の理論の裏付けとなるのである。
  • 人間の行動でこの理論に当てはまらないものを、私は思いつかない。だからこそーーーあらゆるものが裏付けの材料になるからこそーーーアドラー支持者の目には強力に説得力のある理論だと映った。一見すると強みに見えたものは、実は弱点でしかなかったのだと私は気づいた。
  • クローズド・ループ現象のほとんどは、失敗を認めなかったり、言い逃れをしたりすることが原因で起こる。疑似科学の世界では、問題はもっと構造的だ。つまり、故意にしろ偶然にしろ、失敗することが不可能な仕組みになっている。だからこそ理論は完璧に見え、信奉者は虜になる。しかし、あらゆるものが当てはまるということは、何からも学べないことに等しい。
  • 立証と反証には微妙な違いがある。科学の世界では立証することが重要だ。物事を観察して、理論を構築し、裏付けとなる証拠をできる限り集めて立証する。しかしここまでにも見てきたように、科学には反証もまた欠かせない。反証となりうるデータも検討しない限り、知識は進歩しない。
  • いわゆる「1万時間ルール」(才能が開花するまでには1万時間の訓練が必要という法則)だ。もちろん誰でも世界チャンピオンになれるわけではないが、たいていの人は努力によって熟達できる。
  • しかし、まったく異なる研究結果も出ている。職種によっては、訓練や経験が何の影響ももたらさないことが多いという。何ヵ月、ときには何年かけても、まったく向上しないのだ。たとえば心理療法士を対象にしたある調査では、免許を持つ「プロ」と研修生との間に治療成果の差は見られなかった。同様の研究結果は、大学入学審査員(入学希望者の勧誘·選考などを行う専門職)、企業の人事担当者、臨床心理士についても出ている。ある職種では経験や訓練に大きな意味があり、こんなことが起こるのか?
  • ゴルフを例に考えてみよう。練習場で的に向かって打つときは、一回一回集中し、的の中心に近づくように少しずつ角度やストロークを調整していく。スポーツの練習は、基本的にこうした試行錯誤の連続だ。しかしまったく同じ練習を暗闇の中でやっていたとしたらどうだろう? 10年がんばろうと100年続けようと、上達することはない。ボールがどこへ飛んでいったかわからないままでは、改善のしようがないからだ。何度打ってもボールは暗闇の中へ消えていく。改善するためのデータがなければ、次はもう少し右に、今度はもう少し強くといった試行錯誤は不可能だ。
  • 逆にチェスの選手はどうだろう?下手な一手を指せば、あっという間に対戦相手に攻め込まれる。小児科看護師も、もし患者の症状を読み誤って対処すれば、その体調に結果が出る(のちの検査でも、間違いが明らかになる)。チェス選手も看護師も、常に自分の間違いがチェックされ,その結果が出る。だからいやでも毎回考え直し、改善し、適応していかなければならない。これは「集中的訓練(deliberate practice)」とも呼ばれる。
  • 一方、心理療法士の状況はまったく違う。彼らの仕事は患者の精神機能を改善することだ。しかし治療がうまくいっているかどうかは、何を基準に判断しているのか?フィードバックはどこにあるのか? 実は心理療法士のほとんどは、治療に対する患者の反応を、客観的なデータではなく、クリニックでの観察によって判断している。しかしその信憑性は、はなはだ低い。患者が心理療法士に気を使って、状態がよくなっていると誇張する傾向があることは、心理療法の問題としてよく知られている。さらに根深い問題もある。心理療法士は、治療が成功した患者の精神機能がその後も良好かどうか、あるいは結局失敗に終わったかどうか、まったく知らない。つまり、治療の長期的な影響に関するフィードバックがまったくないのだ。だから心理療法士の多くは、時間をかけて経験を積んでも、臨床判断の能力が向上しない。暗闇でゴルフの練習を続けているようなものだからだ。
  • 解剖はこれまでに多くの進歩をもたらした。結核アルツハイマー症候群など、さまざまな疾病の理解に役立ってきた。米軍では、2001年以降にイラクアフガニスタンで戦死した兵士の病理解剖を行い、銃弾・爆弾・散弾による損傷について重要なデータを得た。しかし2001年以前は、軍兵士の解剖はほとんど行われていなかった。つまり欠陥や教訓は明らかになっていなかった。兵士たちは脆弱な装備のまま、死の危険に晒されていたのである。
  • 軍から離れて一般市民を見てみよう。近年の調査では、医療事故かどうかに関係なく、もし病院から解剖を求められれば、約80 %の遺族が了承するというデータが出ている。愛する人が亡くなった原因を知ることができるからだろう。しかし、それでも解剖は滅多に行われていない。遺族に受け入れる気持ちがあっても、病院側が進んで行っていないのだ。アメリカ国内での解剖件数は、全死亡者の10 %に満たず、まったく解剖を行わない病院も多い。1995年以降は、全米保健
    統計センターによる解剖数の統計も実施されていない。結果として貴重な情報は減り、今後の患者の命を救うための学習機会は大きく失われている。

 人はウソを隠すのではなく信じ込む

  • 冤罪はいろんな意味で航空機事故に似ている。もし冤罪に至った仮定を完全に再現できれば(もちろん非常に困難な作業ではあるが)、司法制度の重大な欠陥が明らかになる。警察の捜査手順、裁判における証拠の扱い方、陪審員団の評議方法、裁判官の采配など、いったいどこに間違いがあったのかを徹底的に検証する機会になる。その過程で失敗から学び、制度を改善できれば、同じ間違いを繰り返さずに済む。しかしここまで何度も見てきたように、人は自分の過ちを認めるのが嫌いだ。たとえば警察はどんな態度をとるだろう? 必死の捜査の末、やっと刑務所送りにした「残忍な殺人犯」が、無実の人間だったとわかったら? 検察はどうするだろう? 懸命に立証責任を果たした結果、無実の人間の一生を台無しにしたとしたら? 裁判官はどうだろう? 自分が統括する制度が、実はまともに機能していなかったという事実を突き付けられたら?
  • カルト信者が予言を外した教祖にとった意外な行動・・・1954年秋、当時ミネソタ大学の研究者だったフェスティンガーは、地元紙の奇妙な見出しに目をとめた。「シカゴに告ぐ、惑星クラリオンからの予言ー大洪水から避難せよ」。記事の内容は、霊能者を名乗る主婦マリオン・キーチが、ある惑星の「神のような存在」から、次のようなメッセージを受け取ったというものだ。「1954年12月21日の夜明け前、大洪水が発生して世界が終末を迎える」
  • 野心旺盛な科学者フェスティンガーは、またとないチャンスが訪れたと考えた。このカルト集団に信者の振りをして潜入すれば、世界の終末が訪れるまで彼らの行動を観察できる。特に興味があったのは、予言が外れたあと信者がどんな行動をとるかだ。そんなことは考えるまでもない、と思うのが普通だろう。信者たちは「キーチは詐欺師だった。神のような存在とコンタクトなどとれていなかったのだ」と認め、元の生活に戻るしかない。それ以外の結論などあり得ない。予言が見事に外れるという、これ以上ないほど明白な失敗を目にするのだから。しかしフェスティンガーの予想は違った。信者たちはキーチを否定するどころか、以前にも増して信奉するようになると考えたのだ。
  • 信者たちは、最初のうちはときどき庭を見て宇宙船が降りてこないか確認していたが、真夜中をすっかり過ぎると、一様にどんよりとした顔つきになった。
    しかしやがて、何事もなかったかのようにそれまで通りの行動を始めた。つまり、フェスティンガーが予想した通り、大事な予言を外した教祖に幻滅することはなかったのである。そればかりか、以前より熱心な信者になる者も出た。どうしてこんなことが起こったのだろう?世界が洪水で沈み、宇宙船が救いにやって来ると予言したが、何一つ起こらなかった。しかし信者たちは、自分たちの信念を変えることはせず、事実の「解釈」を変えてしまった
  • このエピソードは、カルト集団に限らず、我々が誰でも持っている一面を示唆している。信者たちの行動はもちろん極端だが、フェスティンガーはそれを分析することで、誰もが陥りがちな心理的カニズムを明らかにした。多くの場合、人は自分の信念と相反する事実を突き付けられると、自分の過ちを認めるよりも、事実の解釈を変えてしまう。次から次へと都合のいい言い訳をして、自分を正当化してしまうのだ。ときには事実を完全に無視してしまうことすらある。なぜ、こんなことが起こるのか?・・・カギとなるのは「認知的不協和」だ。これはフェスティンガーが提唱した概念で、自分の信念と事実とが矛盾している状態、あるいはその矛盾によって生じる不快感やストレス状態を指す。人はたいてい、自分は頭が良くて筋の通った人間だと思っている。自分の判断は正しくて、簡単にだまされたりしないと信じている。だからこそ、その信念に反する事実が出てきたときに、自尊心が脅され、おかしなことになってしまう。問題が深刻な場合はとくにそうだ。矛盾が大きすぎて心の中で収拾がつかず、苦痛を感じる。そんな状態に陥ったときの解決策はふたつだ。1つ目は、自分の信念が間違っていたと認める方法。しかしこれが難しい。理由は簡単、怖いのだ。自分は思っていたほど有能ではなかったと認めることが。そこで出てくるのが2つ目の解決策、否定だ。事実をあるがままに受け入れず、自分に都合のいい解釈を付ける。あるいは事実を完全に無視したり、忘れたりしてしまう。そうすれば、信念を貫き通せる。ほら私は正しかった!だまされてなんかいない!
  • 「完全無欠」を手放さない人・・・刑事司法制度において、誤判はまるで腫れ物扱いだ。・・・1932年イエール・ロー・スクールのエドウィン・オーチャード教授は、名著「Convicting the Innocent and State Indemnity for Errors of Criminal Justice (冤罪、及び刑事裁判の誤判に対する国家賠償責任) 』で数々の冤罪事件を取り上げた。その大半は明白な失敗だ。中でも8例は、被害者がまだ「行方不明」あるいは「死亡したと推定される時点で、被告に殺人罪の有罪判決が下され、のちに被害者が元気に生きていたことが確認されている。
  • このような失敗の数々は、どこで間違いが起こったのかを特定し、司法制度の欠陥を精査するいい機会になる、と普通なら思う。しかし、警察・検察・裁判官の姿勢はまったく違う。彼らは自分たちと異なる意見はまるで受け付けない。「司法制度は完全無欠であり、それに異議を唱えることこそ思い上がりだ」と考えている。マサチューセッツ州ウースター郡の地方検事は実際にこう言った、「無実の人間が有罪判決を受けることなどあり得ない。心配はご無用。(中略)そんなことは物理的に不可能だ」これ以上に「クローズド・ループ」的な考え方があるだろうか?
  • 「歷史的に見ても、この国の法制度は信じがたいほど独善的です」ニューヨーク州のある弁護士が私にそう話してくれたことがある。「容疑者が有罪にさえなれば、法制度がうまく機能している証拠だとずっと考えてきたんですから。システムを真剣に検証しようという動きは、過去にはほとんどありませんでした。冤罪事件が数多く起こっているなんて、非現実的な話でしかなかったんです」ここで特筆すべきは、19世紀初頭にイングランドウェールズ刑事控訴院の設立案が出た際、真っ向から反対したのが裁判官たちだったことだろう。控訴院設立の目的は誤りを正す機会を設けるためだった。つまり「失敗はある」と制度側が事実上認めようとしたのだ。しかし「誤りなどない」というまったく逆の前提に立っていた裁判官たちは大反対だった
  • 「努力」が判断を誤らせる・・・大多数の検察官は、自分たちがやっていることは単なる仕事ではなく使命だと捉えている。彼らは自分たちの能力に強い自負がある。検察官になるためには、司法試験を受け、その後何年も実務経験を積まなければならない。いわば厳しい「加入儀式」だ。・・・しかし、そんな努力の末に刑務所に送り込んだのは無実の人間だった、と後からわかったらどうだろう?何の罪も犯していない人の一生を台無しにした上に、被害者の遺族の心をあらためて傷つけることになったとしたら? きっと胃がねじれるような思いがするだろう。これ以上に脅威的な認知的不協和は想像することすら難しい。社会心理学者リチャード・オフシェは言う。「(無実の人を刑務所送りにすることは)プロが犯す失敗の中で最悪の部類に入る。外科医が間違って健康な方の腕を切断するようなものだ」
  • アメリカでは、空から飛行機が落ちてくれば(中略)厳重な調査が行われる。どんな間違いが起こったのか? システムの故障か? 操縦士によるミスか? 職務違反はなかったか?防止のためにできることは何か? (中略)しかし不当な有罪判決が新たな証拠によって覆されても、国はほぼ何の記録もとどめない。判事がたった1行命令文を書けばそれで終わりだ。しかもそれは判決ではなく、裁判手続きなどに関して、判事が個々に示した判断にすぎない。つまり、どんな間違いが起こったのかを分析しようとはしないのである。判事だけではなく、ほかの誰も。
  • 意図的に人を欺く行為には、少なくともひとつマシな点がある。欺いている側がそれを自覚しているのだ。一方、無意識の欺瞞は自分自身を欺き、かつ自覚されることが少ない。実は、ミスの隠蔽を一番うまくやり遂げるのは、意図的に隠そうとする人たちではなく、「自分には隠すことなんて何もない」と無意識に信じている人たちのほうだ。

あえて間違えろ

  • 認知的不協和には、「確証バイアス」という心理的傾向も関連している。ひとつわかりやすい例を紹介しよう。たとえば「2、4、6」という3つの数字を見たら、どんなルールで並んでいると思うだろう?「2、4、6と同じルールで並んでいると思う3つの数字を好きなだけ答えて、解を見つけ出してください」と言われたら、あなたはどうするだろうか?
  • たいていの人は、即座に仮説を立てることができるはずだ。たとえば「偶数が昇順に並んでいる」。もしくは単純に「偶数が並んでいる」。「3番目の数字は、前の2つの数字の和」とも考えられるだろう。
  • 重要なのは、その仮説の正誤をいかに証明するかだ。通常はまず裏付けをとる。たとえば「偶数が昇順に並んでいる」という仮説なら「10、12、14」と答えてみればいい。それがルールに当てはまっていると言われたら、今度は「100、102、104」で確認する。これを3回繰り返せば、ほとんどの人は仮説が正しいという確信を持つはずだ。
  • しかし、実はそれでもまだ正解かはわからない。もし本当のルールが単に「昇順に並んだ数字」だったらどうだろう? 同じ確認をいくら繰り返したところで、正解かどうかはわからない。しかし、もし戦略を変えて、自分の仮説が「間違っているかどうか」を確認すれば、ずっと短時間で正解を導き出せる。たとえば「6、4、11」と仮説に合わない数列を答えて、それがルールに当てはまっているようなら、仮説は間違いだったとわかる。そのあと、たとえば「5、2、1」で確認して間違えれば、さらに答えに近づける。
  • ペンシルベニア大学ウォートン・スクールのマック・イノベーション・マネジメント研究所主任研究員、ポール・シューメーカーはこう言う。進んで失敗する意志がない限り、このルールを見つけ出す可能性はまずない。必要なのは、自分の仮説に反する数列で検証することだ。しかしほとんどの人は間違った仮説から抜け出せない。実際、この実験に参加した大学生は、好きなだけ数列を答えてもいいと言われていたが、実際に正解のルールを見つけ出した学生は全体の10 %に満たなかった。間違った仮説から抜け出す唯一の方法は、失敗をすることだ。ただ、こんなものは失敗でも何でもなく、日常茶飯事とすら言える。失敗をすることは、正解を導き出すのに一番手っ取り早い方法というばかりでなく、今回のように唯一の方法であることも珍しくない。
  • この例は、不気味なほどに中世の医学界を思い起こさせる。当時の医師は、患者にどんな結果が出ようとも、瀉血療法を肯定する材料ととらえた。まさに、確証バイアスそのものだ。バイアスの罠から抜け出すためには、科学的マインドセットが欠かせない。肝心なのは、自分の仮説に溺れず、健全な反証を行うことだ。我々はつい、自分が「わかっている(と思う)こと」の検証ばかりに時間をかけてしまう。しかし本当は、「まだわかっていないこと」を見出す作業のほうが重要だ。
  • 哲学者カール・ポパーもこう言った。「批判的なものの見方を忘れると、自分が見つけたいものしか見つからない。自分がほしいものだけを探し、それを見つけて確証だととらえ、持論を脅かすものからは目をそむける。このやり方なら、誤った仮説にも(中略)都合のいい証拠をなんなく集めることができる」

専門家の「大外し」

  • 2010年11月、著名な経済学者、識者、ビジネスリーダーらが、当時の連邦準備制度理事会(FRB)議長ベン・バーナンキに宛てて、連名で公開書簡を送った。ちょうどFRBが量的金融緩和政策の第2弾を実施すると発表したばかりで、第1弾に引き続き新たに刷ったドルで大量の国債を買い入れ、アメリカ市場に6000億ドルの追加資金供給を行う予定だった。公開書簡を送ったメンバーはこの政策に対し、懸念を表明した。というよりもむしろ、大惨事になると予測した。『ウォールストリート・ジャーナル』に掲載されたこの公開書簡で、彼らは、今回の政策は「現状では必要であるとも賢明であるとも思わない」「FRBが目標とする雇用の拡大が達成できるとは考えられない」と異議を唱え、「再検討した上で中止」すべきだと結論付けた。
  • もちろん、予測を間違うこと自体は何の問題もない。世の中は複雑で、不確実な要素が山ほどある。経済においてはとくにそうだろう。むしろ、自分たちの予測を世間に公開したのは勇気ある行動とすら言える。結果的に予測は外れたが、だからこそ彼らは理論や仮説を改善する最高の機会に恵まれた。失敗の意義はそこにある。では、予測が外れたことが明らかになったとき、彼らは実際にどんな反応をしただろうか?2014年10月、金融情報サービス会社のブルームバーグは、公開書簡を送ったメンバーに取材を行った。取材に応じたのは9名だった。しかしその9名は、なぜ予測が外れたのか、そこから何を学んだのかについては話さなかった。なぜなら、彼らは予測が外れたとも、失敗したとも、まったく思っていなかったからだ。それどころか、彼らの多くは、予測が「大当たりした」と思っていた
  • 「まだ現実化していないだけで、間もなくそうなる」という答えも多かった。元米議会予算局長のダグラス・ホルツ=イーキンも次のように言っている。「コアインフレは上昇する。2%を超えるだろう。いつなのかはわからないが、そうなるはずだ」最後のコメントはある意味正しい。インフレ率は今後上昇するだろう。急上昇になるかもしれない。なにしろ今が歴史的な低率なのだから。そういえばこれに似た話がある。ロンドンのサッカークラブ、ブレントフォードFCのあるファンが、2012~2013年のシーズン開始当初に「チームはFAカップで優勝する」と予測した。しかし結果は敗退。すると彼はこう言った。「FAカップで優勝するとは言ったが、いつとは言っていない」

表が出ても勝ち、裏が出ても勝ち

  • 公開書簡の一件もやはり認知的不協和がもたらした現象だ。認知的不協和は医師、検察官、カル卜集団のメンバー、世界的に著名なビジネスリーダー、歴史学者、経済学者、そのほか誰にでも起こり得る。事実をありのままに受け入れることは難しい。大きな決断であれ、小さな判断であれ、当人の自尊心を脅かすものなら何でも認知的不協和の引き金になる。いや、むしろ問題の規模が大きければ大きいほど、自尊心への脅威も大きくなっていく。だから手術中の事故は「よくあること」と処理され、DNA鑑定の結果は「未起訴の射精者」を生み、教祖の予言が外れると「自分たちが信じたから、神様が世界を救ってくれた」と感激する。
  • 経済学者を対象に行ったある非公式の調査では、キャリアの途中で学派を変更した者、あるいは自身の信条を大きく変更した者は、全体の10 %に満たなかった。これは危険な兆候だ。データをあるがままに受け取らず、自分の主義に都合よく解釈している経済専門家が少なからずいるということになるのだから。この数字は、世界有数の経済学者の中にもせっかくの知力を無理な自己正当化のために使っている人たちがいることを示唆している。認知的不協和の最も逆説的な点がここにある。明晰な頭脳を誇る高名な学者ほど、失敗によって失うものが大きい。だから世界的に影響力のある人々(本来なら、社会に新たな学びを提供するべき人々)が、必死になって自己正当化に走ってしまう。保身への強い衝動に駆られ、潤沢な資金を自由に使って、自分の信念と事実とのギャップを埋めるのだ。
    失敗から学ぶことなく、事実のほうをねじ曲げて。

「自尊心」が学びを妨げる

  • この「保身の罠」を鮮やかに描き出すことに成功した有名な実颐がある。ペンシルベニア大学の心理学者フィリップ・テットロックは1985年、各界の専門家284人を集め、特定の出来事がそう遠くない未来に起こる可能性を予測させた。たとえば「ゴルバチョフ大統領はクーデターにより失脚するか?」「南アフリカアパルトヘイト政策は非暴力によって結末を迎えるか?」など、しかるべく定義された出来事について、彼は何千にものぼる予測を集めた。なお、この実験に参加した専門家は各界の第一人者ばかりで、半数以上が博士号保持者である。
  • 数年後、彼は集めた予測と実際に起こった出来事を比較した。すると、専門家の予測が的中した確率は、比較対照として学生が行った予測よりは高かったものの、大差はなかった。これについては、特に驚くには値しない。世の中は複雑だ。物事に通じている専門家でも、数々の流動的な要素を踏まえて予測を的中させるのは難しい。・・・しかしこの実験で最も驚くべき発見は、テレビ番組に多数出演し、本を出せばサイン会を開くような有名な専門家の予測が、一番外れていたことだ。テットロックは言う。「皮肉なことに有名なら有名なほど、その予測は不正確になる傾向があった」
  • いったいなぜそうなるのか?カギは認知的不協和にある。自分の発言が世間に広まりやすい有名な専門家ほど、生活も自尊心もその予測にかかっている。おそらく、それまでは失敗しても自己正当化ばかりに躍起になって何も学べずにいたのだろう。
  • 大企業のトップなら、きっと冷静で分析能力の高い、先見の明がある人のはずだ。むしろ,そういう人だからこそトップに立てたはずだ。きっと、立場が高くなっても認知的不協和の影響は大きくならないに違いない。しかし実際は逆だ。
    ダートマス大学経営学教授、シドニーフィンケルシュタインは、名著『経営者が、なぜ失敗するのか?』で、致命的な失敗を犯した50社強の企業を調査した。すると組織の上層部に行けば行くほど、失敗を認めなくなることが明らかになった。
  • 皮肉なことに、幹部クラスに上がるほど、自身の完璧主義を詭弁で補おうとする傾向が強くなる。その中でも、通常一番ひどいのがCEOだ。たとえば我々が調査したある組織のCEOは、45分間の聞き取りを通してずっと、会社が被った災難がいかに自分以外の人間によりもたらされたかを並べ立てた。矛先を向けられたのは顧客、監査役、政府、さらに身内である自社の重役たち。しかし自身の過失については一切言及がなかった。
  • 自分の判断は賢明だったとひたすら信じ、それに反する事実を突き付けられると自己弁護に走る。原因は、もはや言うまでもない。認知的不協和の影響で目の前が見えず、最も失敗から学ぶことができていないのは、最も失うものが多いトップの人間なのだ。

毛沢東による「人類史上最大級」の飢餓

  • ルイセンコの農法を採用した共産政権下の中国では、さらに悲惨な結果が生ほれてしまう。ルイセンコは、作物の生産量を増やす策として極端な密植(高密度の田植え)を提唱していた。「同
    種の植物は互いの成長を阻害しない」という持論に基づく栽培方法だ。これは同じ階級の労働者同士が団結することよって共産主義社会を実現する」という、マルクス毛沢東の哲学にピタリと沿う理論だった。同じ(階級の)植物同士をまとめて植えれば、争うことなく順調に育つというわけだ。毛沢東は農業や工業の大増産を目指す「大躍進政策」の一端として、ルイセンコの「学説」に基づく農業開発を推し進めた。そしてソ連と同様に、西側の影響を受けた科学者や遺伝学者を猛然と迫害した。しかし、密植農法は検証されていなかった。失敗も経験しないままに、政治的な思惑によって各地で採用されてしまったのだ。もともと中国南部では、2.5エーカー(1万平方メートル強)の土地に150万個の種を蒔くのが標準だった」と『餓鬼(ハングリー·ゴースト)ー秘密にされた毛沢東中国の飢饉」の著者ジャスパー・ベッカーは言う。「しかし1958年には、同じ2 . 5エーカーに650万個もの種を蒔くことが義務付けられた」一緒に植えられた植物は肥料や土の栄養を奪い合う、という事実が発覚したときにはもう遅すぎた。苗は枯れ、土地は痩せ,中国史上最悪の飢饉へと発展した。現在でもその正確な規模は明らかになっていないが、歴史学者の推定によれば、中国史上のみならず人類史上においても最大級のこの飢饉によって、2000万人から4300万人が死亡したと言われている。
  • ルイセンコの1件は、科学史上最もスキャンダラスな出来事のひとつと言えるだろう。これまで数多くの本(ルイセンコとソ連科学の悲劇など)や論文が書かれており、知らない研究者はまずいない。この一件は、仮説から失敗するチャンスを奪う危険性について、厳しい警告を発している。
  • しかし現代でも、ここまでの大事件ではないにしろ、同じような傾向が見られる。仮説や信念が失敗から守られているのだ。共産主義国家によってではなく、我々自身の手によって。認知的不協和は足跡を残さない。自分にとって不都合な真実をどの時点でありのままに受け入れられなくなったのか、どの時点で正当化が始まったのか、辿る術はない。決して誰かに無理強いされるわけではなく、すべては心の中で起こる。まさに、自分で自分を欺くプロセスだ。その欺瞞は
    ときに悲劇的な結果をもたらす。・・・冤罪事件の数々がその実例だ。DNA鑑定によって無実を証明したケースは、どれも警察や検察にとって受け入れがたいものだった。刑事司法制度におけるこうした悲劇的な「失敗」を深く探れば、今後いかに制度を改革し、同じような過ちを防いでいけばいいのか、その方法が見えてくるはずだ。

「単純化の罠」から脱出せよ

  • テクノロジーの進歩の裏には、論理的知識と実践的知識の両方の存在があって、それぞれが複雑に交差し合いながら前進を支えている。ところが我々は、反復作業が多くて面倒なボトムアップ式の前進をついおろそかにしがちだ。トップダウン式で考えたほうが楽なのだから仕方ない。
  • 実は「正しいかどうか試してみる」を実行に移すには大きな障壁がある。実は我々は知らないうちに、世の中を過度に単純化していることが多い。ついつい「どうせ答えはもうわかっているんだから、わざわざ試す必要もないだろう」と考えてしまうのだ。
  • 我々は知らず知らずのうちに、目に見えるものを特定のパターンに当てはめて考え、そこに後からもっともらしい解釈を付けて満足してしまう。おかげで同じひとつの出来事に対して完全に逆の説明をしていても、自分ではその矛盾に気づきさえしない。
  • 完璧主義の罠に陥る要因はふたつの誤解にある。1つ目は、ベッドルームでひたすら考え抜けば最適解を得られるという誤解。・・・2つ目は失敗への恐怖。
  • リーン・スタートアップ(小さく始める)・・・その根本は非常にシンプルで、いわば検証と軌道修正の繰り返しだ。
  • 注目すべきは、このRCTが、人命に関わる分野の多くでほとんど実施されていない点だ。中でも刑事司法分野ではほぼゼロと言っていい。医療分野では、2006年の1年間で2万5000件の検証(臨床試験)が行われているが、刑事司法分野では1982年から2004年の22年間でたった85件にすぎない。
  • イギリスの著名な政策アナリスト、デイヴィッド・ハルパーンは次のように指摘する。行政分野の多くでは、この種の検証は全く実施されていません。直感夜間、個人的な思い入れに頼っているんです。行政分野以外でも、状況は変わりません。何が効果的で何がそうでないのかよくわからないまま、当てずっぽうでやっているようなものです。正直言って実に恐ろしい状況です。・・・我々が「わかっているつもりのこと」と「本当にわかっていること」の間には圧倒的な隔たりがある。

データを受け入れない人々

  • フィンケナウアーの検証結果に対して、プログラムの支持者は猛然と抗議を始めた。ドキュメンタリー番組内で惜しげもなくプログラムを称えていたニコラ判事は、「(スケアード・ストレート)プログラムに弁護の必要はない」と言い放った。・・・こうした反応はある程度予想できた。人は自分が深く信じていたことを否定する証拠を突き付けられると、考えを改めるどころか強い拒否反応を示し、ときにその証拠を提示した人物を攻撃しさえする。事実、プログラム擁護者の多くは、フィンケナウアーの検証結果を前に、以前にも増してプログラムの有効性に確信を持つようになったとまで反論している。これこそ認知的不協和の典型と言えるだろう
  • 2002年になると、「キャンベル共同計画」が待ったをかける。キャンベル共同計画は、検証実験に関する啓蒙活動を行う世界的な非営利組織で、RCTによるあらゆる検証データを収集し、メタ解析を含む系統的な分析を行って、その情報を公開している。こうした定量的な分析は、物事の有効性を評価する上で、科学的な根拠に基づく決定的な判断基準となる。ご想像の通り、キャンベル共同計画が行った分析では圧倒的な結果が出た。スケアード・ストレート・プログラムには効果がなかった。そればかりか逆に犯罪を助長した。非行青少年の再犯率が28 %も上昇したというデータも複数見られた。分析結果の報告は、実に冷静なトーンで次のように締めくくられている。スケアード・ストレートに代表されるこの種のプログラムは、有害な影響を及ぼして再犯率を上昇させる可能性が高い。(中略)青少年をプログラムに参加させるより、何も実施しないほうが状況の改善につながったと思われる。
  • プログラムに対する反証データも次々と提出された。アメリカ全土でRCTによる検証が行われ、フィンケナウアーと同じく「効果なし」「子どもたちの心を傷つけるケースが多い」という結果が得られた。ある検証では、介入群は対照群に比べて再犯率が25 %も高まるという結果も出ている。だがどのデータにも勝ち目はなさそうだった。まじめくさったデータより、大げさで派手な物語のほうがはるかに人を惹きつけるのだ

campbellcollaboration.org

難問はまず切り刻め

  • 現代のF1で成功する秘訣は、大きな目立つ要素より、何百、何千という小さな要素を極限まで最適化することです。たとえばエンジンは、大物デザイナーがデザインしたものを上層部が選んで決まると思われがちですが、そうではありません。エンジンだって小さな要素の寄せ集めです。まずは基本的なデザインからスタートして、小さな改善を積み重ねながら、最高の形に近づけていきます。成功は、どれだけ効率のいい最適化ループをつくれるかにかかっています。

脊髄反射的な犯人探し

  • 何かミスが起こったときに、「担当者の不注意だ!」「怠慢だ!」と真っ先に非難が始まる環境では、誰でも失敗を隠したくなる。しかし、もし「失敗は学習のチャンス」ととらえる組織文化が根付いていれば、非難よりもまず何が起こったのかを詳しく調査しようという意志が働くだろう。適切な調査を行えば、ふたつのチャンスがもたらされる。ひとつは貴重な学習のチャンス。失敗から学んで潜在的な問題を解決できれば、組織の進化につながる。もうひとつは、オープンな組織文化を構築するチャンス。ミスを犯しても不当に非難されなければ、当事者は自かの偶発的なミスや、それにかかわる重要な情報を進んで報告するようになる。するとさらに進化の勢いは増していく。

懲罰は本当に人を勤勉にするのか

  •  企業でも病院でも政府機関でも、どこでも常にミスは起こる。それなのに、悪意のない偶発的なミスを責め立てられたら、誰が進んで自分の失敗を報告するだろう?そんな状態で、どうやってシステムが改善されるというのだろう?しかし実際、企業は何かと言えばすぐ非難に走る。しかも単なる脊髄反射的な非難ばかりではなく、もっと狡猾な意図が潜んでいることも少なくない。誰かに責任を被せたほうが、会社にとっては都合がいい。大失敗は一部の「腐ったリンゴ」のせいだということにすれば、企業のイメージを損なわずに済む。「悪いのは会社じゃない。ほんの一部の社員のせいなんです!」というわけだ。
  • 「非難や懲罰には規律を正す効果がある」という考え方が管理職に浸透していることも問題を根深くしている。彼らは「失敗は悪」として厳しく罰すれば、社員が奮い立って勤勉になると信じている。
  • 非難合戦は、このような考えをもとに広まっているのかもしれない。ハーバード・ビジネス・スクールのある調査によれば、社内で起こったミスのうち、企業幹部が本当に非難に値すると考えているものは全体の2~5%にすぎないことがわかった。しかし実際は、70~90 %が非難すべきものとして処理されているという。
  • 2004年、 ハーバード・ビジネス・スクールのエイミー・エドモンドソン教授は同僚とともに、懲罰志向の組織文化がもたらす影響について調査を行った。アメリカのふたつの病院における投薬ミスが調査の中心だが、この結果はほかのさまざまな組織にも広く当てはまる。病院での投薬ミスは驚くほど頻繁に起こっている。アメリカ食品医薬品局(FDA)が発表した論文によれば、投薬ミスは医療ミスのほんの一部にすぎないにもかかわらず、全米で毎年約130万人もの患者がその被害を受けているという。エドモンドソンは、1回の入院につき平均12回の投薬ミスが起こっているというデータも示している。
  • さて、6カ月にわたる調査で、エドモンドソンは大学病院と記念病院の8つの看護チームに着目した。どちらの病院にも一部のチームに厳しい規律があった。そのうちのあるチームでは、看護師長が「一分の隙もないビジネススーツ姿」で、部下の看護師たちを「密室で」手厳しく問いただしていた。また別のチームでも、看護師長は「権威的な存在」と描写されている。このようなチームでは非難が日常茶飯事だ。看護師たちは次のようにコメントしている。「ここは容赦ありません。厳重な処罰が待っています」「いつも裁判にかけられているようなものです」「ミスをしたら有罪なんです」一方、看護師長は、スタッフをうまく管理していると自負していた。自分は規律正しい環境を維持し、官女の側に立って看護師たちに責任を全うさせている、と。
  • 実は調査開始当初は、このような看護師長が正しいと思われていた。規律の厳しいチームでは、看護師からのミスの報告がほぼなかったのだ。・・・懲罰思考のチームでは、確かに看護師からのミスの報告は少なかったが、実際には他のチームより多くのミスを犯していた。一方、非難傾向が低いチームでは、逆の結果が出た。ミスの報告数は多かったが、実際に犯したミスで比べてみると、懲罰志向のチームより少なかったのだ。
  • 「責任を課すことと(不当に)非難することはまったく別だ」と、世界的に著名な人間工学の専門家シドニー・デッカーは言う。「非難すると、相手はかえって責任を果たさなくなる可能性がある。ミスの報告を避け、状況の改善のために進んで意見を出すこともしなくなる
  • ビジネス、政治、航空、医療の分野のミスは、単に注意を怠ったせいではなく、複雑な要因から生まれることが多い。その場合、罰則を強化したところでミスそのものは減らない。ミスの報告を減らしてしまうだけだ。不当に非難すればするほど、あるいは重い罰則を科せば科すほど、ミスは深く埋もれていく。すると失敗から学ぶ機会がなくなって、同じミスが繰り返し起こる。その結果、さらに非難が強まり、隠蔽体質は強化される。

「クビ」は問題を解決しない

  • ある大手投資銀行の例を挙げよう(法的な理由により名前を出すことはできない)。この銀行では自動取引のITシステムに問題が起こり、多額の損失を出した。最高技術責任者(CTO)は,この銀行の誰もシステムを完全に理解していなかったと認めている。しかし問題はそこではない。大規模なITシステムの場合、設計者でさえ隅から隅まで理解していないことはよくある。そのためCTOは、IT部門のエンジニアたちをクビにするのは不公平だと考え、役員会にもそう提言した。実際、エンジニアたちはシステムの設計に最善を尽くし、負荷テストも行ったうえで、
    すでに何カ月も問題なく稼働していたからだ。しかし、CTOの提言は却下された。役員会は問題が起こった原因を系統的に調査することなく、エンジニアたちの「明らかな」ミスだという結論を出した。システムに一番近い関係者に責任を被せた、と言っていいだろう。
  • そもそも役員会にはほかに心配事があった。システムの障害によって何百万ドルという損害が出ており、そのニュースは各地で報道されていた。役員はこの失敗によって銀行の体面が傷つくのを何より恐れていた。ここで断固とした処置をとれば世間に向けていいPRになる。同時に組織内の人間に対しても、失敗には厳しく対処するというメッセージを伝えることができる。彼らはそう考えた。しかし考えてもみてほしい。役員が規律を正すつもりで伝えたメッセージは、スタッフたちにとっては「失敗したら厳しく非難するぞ」「問題を起こしたらスケープゴートにするぞ」という背筋も凍るメッセージでしかない。あるいは「この銀行がこれからも繁栄を続けるためには、自己正当化することが大事だ。ミスは口に出すな。貴重な情報は隠しておけ」と言われたのと同じなのだ。結局エンジニアたちは解雇され、この銀行はその後も、十数回に及ぶ大規模なシステムのトラブルに見舞われることになった。

 

  • 実は、我々の脳には一番単純で一番直感的な結論を出す傾向がある。この傾向には「根本的な帰属の誤り」という堅苦しい名前がついている。簡単に説明するとすれば「人の行動の原因を性格的な要因に求め、状況的な要因を軽視する傾向」だ。しかしこの傾向は、自分のミスになると出てこないらしい。
  • シドニー・デッカーによれば、問題は「誰の責任か?」でも「責任を追求すべきミスと、偶発的なミスとの境界線はどこにあるのか?」でもない。そんなことに一律の線引きは不可能だ。ここで問うべき質問は、「処遇を判断する立場の人間を、スタッフは信頼しているか?」だ。裁く側の人間を信頼することができて初めて、人はオープンになり、その結果、勤勉にもなるのだから。
  • エドモンドソンが調査した記念病院では、懲罰志向のチームのスタッフは看護師長を信頼していなかった。だが病院の経営者にとっては、その看護師長は隙のない、規律に厳しい、ミスを犯した者に間違いなく責任を取らせる強いリーダーだった。患者(病院にとって一番重要な人々)の立場に立ち行動する、よきリーダーに見えた。しかし実際のところ、この看護師長はある意味典型的な職務怠慢だ。自分が管理するシステムの複雑さに正面から取り組まず、非難することにただただ躍起になっていた。失敗をオープンに報告できる環境作りをせず、スタッフがその失敗から学ぶことを妨げていたのだ。
  • ミスの適切な分析を伴わない非難は、組織に最も頻繁に見られ、かつ最も危険な行為のひとつである。こうし 懲罰志向は、「規律と開放は互いに相容れないものである」という間違った信念の上に成り立っている。エドモンドソンはこう指摘する。
  • 病院とはまったく異種の、投資銀行などの管理職にも聞き取りを行ったが、彼らはみなジレンマを抱えていると答えた。「ミスに対して建設的な対応をしたいが、そのせいで何でもありの状態になってしまわないか」「責任を追及しなければ、部下は全力を尽くそうとしなくなるのではないか」。しかしこうした不安は、間違った二分法によって生まれたものだ。本来、不当な非難をせずにミスの報告を促す組織文化と、スタッフに高いパフォーマンスを求める組織文化は共存可能だ。一部の組織においては、その共存は必須ですらある。
  • 公正な文化では、失敗から学ぶことが奨励される。失敗の報告を促す開放的な組織文化を構築するには、まず早計な非難をやめることだ。哲学者カール・ポパーは言った。「真の無知とは、知識の欠如ではない。学習の拒絶である

 成長する人の脳内で起こっていること

  • 2010年、ミシガン州立大学の心理学者ジェイソン・モーザーは、同僚らとともにある実験を行った。この実験では、ボランティアの被験者に脳波測定用のEEGキャップ(電極がついたヘッドキャップ)を被ってもらう。モーザーが知りたかったのは、被験者が何か失敗したときに、脳内でどんな反応が起こるかだ。中でも注目すべきはふたつの脳信号だった。ひとつは「エラー関連陰性電位(ERN)」。これは脳の前帯状皮質に生じる信号で、エラーを検出する機能に関連している。自分の失敗に気づいたあと50ミリ秒ほどで、自動的に現れる反応だ。もうひとつは「エラー陽性電位(Pe)」。こちらは失敗の20~500ミリ秒後に生じる信号で、自分が犯した間違いに意識的に着目するときに現れる反応だ。
  • モーザーの以前の実験では、ERNの反応(単純に失敗に気づいたときの反応)とPeの反応(失敗に意識的に着目して、 そこから学ぼうとする反応)がどちらも強い人ほど、失敗からより素早く学ぶ傾向があるという結果が出ていた。
  • そこでモーザーは、事前のアンケートに基づいて被験者のマインドセット(思考傾向)をふたつに識別し、それぞれをグループに分けた。ひとつは、いわゆる「固定型マインドセット(fixed mindset)」のグループ。「固定型マインドセット」の傾向がある人は、知性や才能はほぼ固定的な性質だととらえている。つまり「自分の知性や才能は生まれ持ったもので、ほぼ変えることはできない」と強く信じている。一方「成長型マインドセット(growth mindset)」の傾向がある人は、知性も才能も努力によって伸びると考える。先天的なものがどうであれ、根気強く努力を続ければ、自分の資質をさらに高めて成長できると信じている。
  • 失敗に対する各被験者の脳波の反応を見てみると、ふたつのグループの間に劇的な違いが表れた。ただしERN (単純に失敗に気づいたときの反応)に関しては、固定型マインドセットの被験者も成長型マインドセットの被験者も、どちらも強い反応が出た。これは当然だろう。「間違えた!」という反応自体は誰にでも起こる。間違えるのは嫌なものだ。とくにアルファベットを識別するだけの簡単なテストでミスをしてしまったとなると、強い反応が出てもおかしくない。一方、Peの反応には大きな差が出た。成長型マインドセットの被験者の反応は、固定型マインドセットの被験者に比べてはるかに強かったのだ。固定型の傾向が最も強い被験者と比べた場合、成長型の反応は3倍にも上った(Peの振幅値で表すと15対5だった)。「はなはだしい違いだ」とモーザーは言う。
  • 固定型マインドセットの被験者は、間違いに着目していなかった。むしろ無視していたと言っていいだろう。一方で成長型マインドセットの被験者は、間違いにしっかりと注意を向けていた。まるで、失敗に興味津々といったように。この実験ではほかにも、Peの反応が強い被験者ほど、失敗後の正解率が上昇するという結果も出た。失敗への着目度と学習効果との密接な相関関係が窺える
  • モーザーの実験結果は、本書のさまざまな考察を裏付ける。個人でも組織でも,失敗に真正面から取り組めば成長できるが、逃げれば何も学べない。考え方の違いは脳波に如実に表れるのだ。失敗から学べる人と学べない人の違いは、突き詰めて言えば、失敗の受け止め方の違いだ。成長型マインドセットの人は、失敗を自分の力を伸ばす上で欠かせないものとしてごく自然に受け止めている。一方、固定型マインドセットの人は、生ほれつき才能や知性に恵まれた人が成功すると考えているために、失敗を「自分に才能がない証拠」と受け止める。人から評価される状況は、彼らにとって大きな脅威となる。

 成長が遅い人は失敗の理由を「知性」に求める

  • このような考え方が人の行動にもたらす影響は、すでに数々の研究で実証されている。心理学者のキャロル・ドウェックは、同僚とともに行ったある実験で、11~12歳の子どもたちをふたつのマインドセットのグループに分けた。そして8つの「簡単なタスク」を与えた後、4つの「困難なタスク」を課した。すると「困難なタスク」に突入したとたん、各グループの反応に驚くべき差が出た。ドウェックはこう書いている。
  • 固定型マインドセットの子は、いともあっさりと自分の能力を過小評価し、失敗を自分の知性のせいにしはじめた。「きっとボクはあまり頭がよくないんだ」「前から記憶力が悪かったから」「こういうのはもともと苦手なんだ」
  • 困難なタスクに対して、このグループの子どもたちの3分の2は明らかにおざなりな態度を示すようになり、半分以上はまったく効果のない方法で取り組み続けたという。一方、成長型マインドセットの子どもたちの反応はどうだったか?
  • 彼らは自分たちが失敗しているとはまったく考えていなかった。(中略)楽観主義とも合わさって、80 %以上が、困難なタスクに対して最初のやる気を維持するか、取り組み方を改善しようとした。全体の4分の1は実際に改善している。彼らは困難なタスクに対して、より洗練された方法を自分たちで考え出した。ごく一部の子どもは、彼らの理解力を上回ると思われる問題まで解決した。
  • ドウェックは、もともと能力に差がない子どもたちを被験者に選んでいた。グループに分けたあとも、どちらも同じようにやる気を出すよう配慮した(事前に子どもたち自身に好きなおもちゃを選ばせ、あとであげると約束した)。それでも、最後までがんばり抜く子と、難しくなると萎れてしまう子に分かれた。マインドセットが決め手となり、これほど大きな差が生まれたことは驚きに値する。

「成長型」企業、「固定型」企業

  • 固定型マインドセットの企業と成長型マインドセットの企業の間には、非常に顕著な違いが見られた。まず固定型マインドセットの企業で働く社員は、ミスや非難を恐れており、社内ではミスが報告されないことのほうが多いと感じていた。また、次のような項目に同意する傾向が見られた。「この会社では、ほかの社員を出し抜く行為や、作業の手抜きが頻繁に行われている」「この会社では、しばしば情報が隠蔽されている」
  • 一方、成長型マインドセットの企業では誠実で協力的な組織文化が浸透しており、ミスに対する反応もはるかに健全だった。また次のような項目に同意する傾向が見られた。「この会社ではリスクを冒すことを純粋に奨励していて、失敗しても非難されない」「この会社にとって失敗は学習の機会であり、それがいずれ付加価値となるととらえている」「この会社では革新的に考えることが奨励され、創造力が歓迎される」
  • 後者の組織文化が成長や進化をもたらすことは、もう言うまでもないだろう。ここまでの章で取り上げた、大成功を収めた企業の組織文化ほぼそのものだ。事実、「社内で不正や非倫理的な行為が頻繁に見られるか?」という問いに対して、「いいえ」と答えた社員は、成長型マインドセットの企業のほうが固定型の企業より41 %も多かった。

 

成長型マインドセットは「合理的」にあきらめる

  • 現代社会における問題のひとつは、「成功は一夜にして生まれるもの」という幻想が広まっていることにある。しかし現実には、成功はそんなに簡単に手に入らない。フリーキックを極めるにも、軍の士官になるにも、極めて長い時間がかかるのはここまで見てきた通りだ。だが、それゆえに成長型マインドセットの人は、無理なタスクにも粘り強くがんばり続けてしまうのではないか?達成できないことに取り組み続けて、人生を無駄にするのではないか?
  • しかし、実際はその逆だ。成長型マインドセットの人ほど、あきらめる判断を合理的に下す。ドウェックは言う。「成長型マインドセットの人にとって、『自分にはこの問題の解決に必要なスキルが足りない』という判断を阻むものは何もない。彼らは自分の"欠陥"を晒すことを恐れたり恥じたりすることなく自由にあきらめることができる」
  • 彼らにとって、引き際を見極めてほかのことに挑戦するのも、やり抜くのも、どちらも成長なのだ。・・・我々が最も早く進化を遂げる方法は、失敗に真正面から向き合い、そこから学ぶことなのだ。

 

なぜ日本には起業家が少ないのか

  • 失敗に対する姿勢の違いについて、ここでは起業精神という観点から考えてみたい。アメリカの起業家は、最初のベンチャーが失敗してもそこであきらめることは滅多にない。「自動車王」ヘンリー・フォードはその典型だ。彼が最初に起業したデトロイト自動車会社は失敗に終わった。次のヘンリー・フォード・カンパニーもそうだ。そして3番目に創業したフォード・モーター・カンパニーで世界を変えた。彼はこんな言葉を残している。「失敗は、より賢くやり直すためのチャンスにすぎない」
  • 一方、日本ではまったく文化が異なる。複雑な社会的·経済的背景の影響によって、失敗は不名誉なものと見なされる傾向が強い。失敗は、基本的に自分だけでなく家族にとっても恥なのだ。ビジネスが失敗して非難されるのは珍しいことではなく、非常に厳しく責任を追及されることも多い。
  • 起業意識の違いが、経済全体に実質的な影響を及ぼすことは言うまでもない。ウォートン・スクールの学生が書いた論説では次のように書かれていた。「日本では『機会志向(Opportunity-driven)』の起業精神が相対的に不足しており、それが過去20年間の経済停滞の一因となっている一方、アメリカでは、起業家精神が経済繁栄をもたらした要因のひとつと考えられているようだ。「実証研究によって、機会志向の起業精神こそが、現在の市場経済における成長の源だということが明らかになっている」
  • しかし起業精神の違いは、本当に失敗の受け止め方の違いによるものなのだろうか? その答えを出そうと、GEMは2009年、イノベーション志向の先進諸国20カ国で、起業に関する大々的な意識調査を行った。結果は明白だった。起業失敗に対する恐怖心が最も高かったのは、日本人だったのである。アメリカ人は最低クラスだった。この傾向は5年後も変わらなかった。

 

  •  宗教的な世界観は「固定」されていた。何十年どころか何百年も科学の進歩が滞っていたのはそのためだ。失敗が深刻な認知的不協和を生む医療業界も、これと似ている。問題の背景が複雑なことに加えて、ベテラン医師に対する全能の神のような扱いが、学習を困難にしている要因のひとつであることは間違いない。ベテラン医師が、自分の失敗を受け入れられない、あるいは失敗が起こり得ることさえ認められない心理状態は、「神コンプレックス」と呼ばれる。
  • 刑事司法制度においても、同じような無謬主義(自分たちの思想に間違いはないという考え)が見られる。とくに不当な有罪判決に関してはその傾向が強い。
  • アメリカの哲学者ヒラリー・パトナムはこう言った。「科学とそれ以前の思想とでは、真実を発見する方法が異なる。科学者は自らの理論を進んで検証し、自分が万能だとは考えない。(中略)自然に問いかけ、うまく理論が成り立たなければ、その考えを進んで改めていかなければならないのだ
  • 中世の科学に関して、ベーコンは、知識が権威者から独断的に示される状況を批判していた。今日の社会におけるトップダウン的な知識の押し付けも、状況は似ている。政治家が持論を展開するときがいい例だろう。「制服にすれば規律が高まる」「非行少年に刑務所を訪問させれば犯罪抑止効果がある」などがその典型だ。一部の政治家は自分の洞察を勝手に真実と確信し、データも検証も必要ないと考える。
  • 互いの挑戦を称え合おう。実験や検証をする者、根気強くやり遂げようとする者、勇敢に批判を受け止めようとする者、自分の仮説を過信せず真実を見つけ出そうとする者を、我々は賞賛するベきだ。
  • 「正解」を出した者だけを褒めていたら、完璧ばかりを求めていたら、二度も失敗せずに成功を手に入れることができる」という間違った認識を植え付けかねない。複雑すぎる社会では、逆にそうした単純化が起こりがちだ。もしその間違いを正すことができれば、我々の生活に革命が起こると言っても過言ではない。失敗に対する自由な姿勢は、企業、学校、政府機関などほぼすべてのあり方を変える。もちろん簡単なことではないし、抵抗も受けるだろう。しかしその壁を乗り越えていくだけの価値はある。
  • ブライアン・マギーは、カール・ポパー反証主義を引き合いに出してこう言っている。自分の考えや行動が間違っていると指摘されるほどありがたいものはない。そのおかげで、間違いが大きければ大きいほど、大きな進歩を遂げられるのだから。批判を歓迎し、それに対して行動を起こす者は、友情よりもそうした指摘を尊ぶと言っていい。己の地位に固執して批判を拒絶する者に成長は訪れない。我々の社会に大きな転換が起こり、ポパー的な反証主義で批判をとらえる姿勢が広く浸透すれば、私生活にも、社会生活にも革命が起こり得る。もちろん、仕事をする上でも例外ではない。

究極の失敗型アプローチ:事前検死

  • 近年注目を浴びている「失敗ありき」のツールがもうひとつある。著名な心理学者ゲイリー・クラインが提唱した「事前検死(pre-mortem)」だ。これは「検死(post-mortem)」をもじった造語で、プロジェクトが終わったあとではなく、実施前に行う検証を指す。あらかじめプロジェクトが失敗した状態を想定し、「なぜうまくいかなかったのか?」をチームで事前検証していくのだ。失敗していないうちからすでに失敗を想定し学ぼうとする、まさに究極の「フェイルファスト」手法と言える。チームのメンバーは、プロジェクトに対して否定的だと受け止められることを恐れず、懸念事項をオープンに話し合うことができる。
  • この事前検死は、「失敗するかもしれない」と考えるのとはまったく異なる。チームのメンバーは「プロジェクトは失敗した」「目標は達成できなかった」と伝えられ、いわば「すでに死んでいる」状態から始まって、検死(検証)を行う。このように失敗という抽象的な概念を具体化すると、間題に対する意識の持ち方が変わる。
  • この手法は行動経済学ダニエル・カーネマンら第一級の思想家に支持されている。「事前検死はすばらしいアイデアです」とカーネマンは言う。「私はダボス会議でその話をしました。
  • 前検死は非常にシンプルな手法だ。まずチームのリーダー(プロジェクトの責任者とは別の人物)は、メンバー全員に「プロジェクトが大失敗しました」と告げる。メンバーは次の数分間で、失敗の理由をできるだけ書き出さなければならない。その後、プロジェクトの責任者から順に、理由をひとつずつ発表していく。それを理由がなくなるまで行う。クラインは、この方法で、通常なら埋もれていたであろう理由が浮かび上がってくると言う。