論文査読制度(ピアレビュー)の信頼性の揺らぎ

査読者は質の高い科学知識の集積に奉仕するために存在する。その誠実な助言が投稿論文の改善、科学誌の健全性維持に寄与してきたことが、査読制度継続の根拠である。しかし、科学の飛躍的進歩はしばしば非凡な研究者の発想によってもたらされ、見識ある査読者にとっても即座に理解できる論文ばかりとは限らない。かのマックス・プランクは「新しい科学の真実というものは、反対者を説き伏せ、光の輝きを見せることによって勝利するのではない。むしろ、彼らはやがて死んでいき、変わってそれに精通した新たな世代が成長するからである」と言っている。

実際、将来のノーベル賞受賞の対象となる研究論文の多くが、科学社会の抵抗、科学誌編集者や査読者による却下の憂き目にあってきた(J. M. Campanario, 2009)。1960年代のJ. ポラニーのレーザーによる振動エネルギー研究、最近ではR. ファーチゴットのNOの生理活性、T. チェックのRNAの触媒作用、C. マリスのPCR法の発見等々にかかわる論文も、高水準の審査基準を誇るNature誌、Science誌はじめ有力誌から厳しい批判を受け却下されてきた。もちろん確固たる根拠に基づくこれらの主張は、いずれ何処かで公表、認知されたが、既成のパラダイムの罠にとらわれた編集責任者たちの胸中は如何であったであろうか

論文記述の客観的正確さにとどまらず、科学的な価値を相対化して見通して適切に判断するには、相当の見識が求められる。現代でも、格別の創造者が少なからず潜在しているはずであり、彼らの思い入れにこそ真摯に正対すべきである。現代の主流である多数決民主主義者にも責任を果たしてほしい。たとえ保守的知識体系の眼鏡をかけるとしても、図抜けた独創性をもつ、しかし、しばしば世慣れない若者を見逃すことがあってはならない。

この状況に呼応して、煩雑な査読を経ない自己責任の未公表論文(プレプリント)のオンライン公開が始まった。1960年代から出版社の抵抗、多くの研究者の反対意見もあり紆余曲折を経てきたが、1991年に物理学分野でarXivプラットフォームが創設された。生物学分野でも2013年コールド・スプリング・ハーバー研究所が主体となりbioRxivが始まり、チャン・ザッカーバーグ財団が巨額の財政援助をして盛んになりつつある。消極的であった化学分野も2017年にChemRxivを立ち上げた。そして、論文掲載にいたらずとも、自らの意思でオンライン投稿したこれらの内容は、人事考課や研究資金の配分審査などに際して勘案される方向にある。科学的評価は、のちほど論文を受け付けた科学誌により適正になされるべきとする。

この方法は明らかに知識の伝達、循環を著しく加速する。オープンサイエンスに向けて、大勢の投稿者の中から無名の若者を見出す効果もある。発表内容の品質の信頼性、未発表(未確定)データの盗用可能性、同業者間の論文発表や研究費獲得の時間的競争の観点からの反対意見もあるが、これは現在の国際学会における発表と同様ではないか。これらの負の効果はいずれも、旧来の情報技術水準にもとづく学界における権利手続きや、個々の研究者の倫理の問題である。一般社会や行政は、科学の円滑な進展と一日も早い成果の社会還元を願っている。この方式の成否は、新たな環境下における指導的立場にある研究者たちの振る舞いにかかっている。

www.jst.go.jp

最強の経済学者 ミルトン・フリードマン

 一時期、極端なまでに宗教を重んじたという逸話は、几帳面な性格をよくあらわしている。いいかげんなことができない。論理的に考えるなら、徹底して理詰めで考える。理路整然とした世界を求めるタイプだ。だからこそ、食事規定をはじめとする正統派ユダヤ教の細々とした教えに一貫した論理を見いだせなくなると、宗教とはあっさり縁を切った生まれながらの合理主義者、実証主義者だ。宗教に意味はないと悟り、バルミツバーを迎える13歳の頃には、「完全な不可知論者」になっていた。

 

人生を左右した「幸運な偶然」の存在をつくづく感じる。一つは、アメリカに生まれたこと。「もう一つの幸運な偶然は高校で幾何学好きの先生」に教わったことだ。ユークリッド幾何学の授業を受けて「数学の奥深さ、面白さを知り、数学好きになった」。

 

「(今では)貧しい学生向けの選抜奨学金制度で、最優秀の生徒ではなく、成績の劣る生徒が選ばれるようになった。社会がいかに堕落したかを示す好例だ」と批判している。

 

「四人に一人が失業していた1932年に、一番の緊急課題はなにかと考えれば、経済学を選ぶに決まっている。自分自身、経済学を研究することに全く戸惑いはなかった」

 

ヴァイナーの授業が厳しく、ある意味で冷酷だったという逸話は数知れず、いまだに語り継がれている。フリードマンが院生の頃、学部生としてシカゴ大学に在籍していたポール・サミュエルソンは、ヴァイナーの「あの有名な」経済理論講座201の授業を今も憶えている。301講座では、学生が「緊張した面もちで机のまわりに座る」。ヴァイナーに3回当てられて、満足のゆく解答を出来なかった学生は落第したという。

 ジェイコブ・ヴァイナー - Wikipedia

 

ケインズの『貨幣改革論』は、フリードマンケインズの最高傑作と考える論文だ。フリードマンによると、ケインズは元々マネタリストで、景気対策で金融政策より財政政策を重視したのは後になってからだ。ケインズ派貨幣数量説の交換方程式MV=PTを一貫して支持している。・・・ケインズは、後に流通速度(V)が大きく変化すると主張し、フリードマンはそれに反論した。

フリードマン)・・・ケインズが、貨幣数量説を支持していることを忘れてはならない。貨幣改革論を読めば、それが貨幣数量説であることは明白だ。ケインズ流動性選好説と貨幣数量説の違いは流動性の罠(流通速度の低下)があるかどうか、それだけだ。本質的な違いは、その一点に尽きる。私の理論に流動性のわなは存在しない。

 

サイモンズは、人の学説を鵜呑みにして繰り返すのではなく、客観的・批判的に検証することが、本当の意味で敬意を払うことになるということを私たちに教えてくれた

ヘンリー・サイモンズ - Wikipedia

 

「経済学者の卵にとって理想的な組み合わせは、理論を重視するシカゴで一年学び、その後、制度主義の視点と実証研究を重んじるコロンビアで一年過ごすこと。それが私の結論だ」。両大学で学んだアレン・ウォリスも同じことを言っている。

 

いわゆる静学理論と、時間を通じた動きを考慮する動学理論の根本的な違いは、動学理論が不確実性を持ちこみ、結果的に予測を知識に変えることだ。動学理論は、予測の分析を基に構築しなければならず、予測に対して、相対的に一定した行動パターンの分析と発見を志す必要がある。こうした作業を通じて、理論が扱わなければならない完全な不確実性を減らしていくことができる。

 

フリードマンが主要論文の多くで使った数学的なアプローチは、統計学を駆使したデータ分析であり、コールズ委員会が好んだ経済理論の定式化ではない。次に、フリードマンは、経済理論を実証的に検証し、現実世界で起きることを予測する必要があると考えたが、コールズ委員会は、理論の妥当性を判断する基準として、この点をそれほど重視しなかった

 

フリードマンを中心とする新しいグループがコールズ委員会と学内の主導権を争う1940年代後半から1950年代前半にかけては、いやが上にも大学の水準が高まった。フリードマンが教壇に立ったばかりの頃、経済学部とコールズ委員会の研究室があった社会科学研究等の四階では、後のノーベル経済学賞受賞者13人と未来や現役のアメリカ経済学会会長12人が、普通に廊下を行き交っていた。

 レスター・テルサ―によれば、あれほどの学者が集結した場所は、ほかではコペンハーゲンニールス・ボーア理論物理学研究所くらいだった。シカゴ大学でコールズ委員会の研究員となり、後にノーベル経済学賞を受賞したケネス・アローも「1940年代後半のシカゴ大学には、とてつもない学者がそろっていた。経済学の分野であのような学者集団が出現することはもう二度と無いのではないか」と語る。フリードマンから見れば、アローの言う「経済学」は、ほんとうの意味での経済学ではなかった。

 

シカゴ大学の伝統を守るには、学問の能力、ただ学問の能力のみに基づいて教授を選ばねばならない。政治的・社会的な見解や人柄・性別・人種などは関係ない。助成金や教員のバランスなども考えてはならない。これまで、能力だけで研究者を選ぶという方針を貫くことで、バランスと多様性という基調な副産物が生まれてきた。それは、これからも変わらないだろう。バランスや多様性は直接追い求めてはならない」。シカゴ大学が名声を確立できた理由のひとつが、「多様性の容認と科学性の重視を採用の絶対基準として、学問の未来を背負って立つ人材を見極め、大学に引き寄せてきた」ことだ。「客観的に知識を追い求めること、それが、最も広い意味での科学の目的でなければならない」

 

 「実証経済学の方法論」は、経済学を「実証科学」として確立する上での問題点を論じている。自然科学の世界では一応誰もが認める正解と不正解が存在する。経済学も同じような「実証科学となり得るし、実証科学としての側面がある」というのが、フリードマンの主張だ。

 経済理論とは言いながら、フリードマンが「無邪気な実証主義」と呼ぶいい加減な事実認識を基に、やみくもに自分の価値観を押し付け、あまり意味のない数式でお茶を濁すということになりかねない。事実とは現実世界の問題であり、価値観とは考え方の選択の問題だ。実証経済学は事実に着目する。

「実証的経済学の方法論」が拠って立つ基盤が予測だ。フリードマンにとって、科学を科学たらしめているのは予測であり、科学の意義は予測にある。・・・科学と非科学を分けるのが予測だ。「実証科学の最終目標は、まだ観測されていない現象を有効かつ有意義に予測できる理論を展開することだ

 経済学は予測を抜きに語れない。そもそも政策の効果を予測できなければ、政策を提言することもできない。・・・「政策決定に際しては、必然的に政策効果の予測に頼らざるをえない。その予測のもとになるのが実証経済学だ」。

 理論は仮定の現実性ではなく、予測の正確性のみで評価すべきだ。理論の良し悪しを決める基準はただひとつ、正しい予測ができるかどうかだ。

現実世界で仮説を『証明』することはできない。仮説を否定できない状況があるだけだ。・・・これが真理だと断言することはできない。真理の探求とは、新旧の仮説を新しい現実に照らし合わせて検証していく永遠のプロセスだ。現実世界を観察する過程で、少しずつ真理の姿が見えてくる。真理がいかに崇高でも、それはいつかたどり着く山頂ではない。新たな発見が、新たな謎と新たな研究分野を生む。知れば知るほど自分の無知を痛感し、世界の奥深さを実感する。真理とは、どこまでも続く道をゆく終わりない旅の仮の宿にすぎない。今ごく当たり前とされている知識も、とりあえずの一時的な知識でしかない。フリードマンは、ソクラテスとヒュームの伝統を受け継ぐ懐疑主義者だ。

「実際に起こり得る事実で反証できない理論は、予測の役に立たない」。経済学に限らず、事実に即した理論以外は認めなかった。現実を無視すれば理論は空論になる。現実に起きることを予測できない理論は無用の長物であり、架空の世界の予測など論外だ。現実世界の予測でなければ、予測とはいえない。科学の方法論で大切なのは、事実を完全に把握することができないということではなく、事実がなければ予測が成り立たず、予測があってこそ初めて科学的な理論を構築できるという点だ。

現実世界の具体的な事実に立脚しない理論、将来起きることを具体的に予測できない理論は、不毛な数式の羅列に過ぎず、知識の蓄積にはつながらない。これは、20世紀の経済理論の大半に共通していえることだ。

経済学の方法論で重要なのは、数学的・幾何学的にいかに複雑で精緻なモデルを作るかではない。予測がどこまで正確なのか、その一点に尽きる。

 

サミュエルソン

  • 科学のできる人々は,その方法論についてペチャクチャしゃべることができない
  • 「定義,トートロジー,論理的含意,経験的仮説,事実的反駁の関係に関して根本的に混乱している経済学者は,現実をシャドウ・ボクシングをして一生を過ごすかもしれない.したがって,ある意味では,知識に対する実り豊かな貢献者として毎日の糧を稼ぐためには,経済学のような中途半端なハード・サイエンスの実践者は,方法論的問題と折り合いをつけなければならない」(Samuelson, 1965) とも言っている

http://www2.tamacc.chuo-u.ac.jp/keizaiken/discussno167.pdf

 

ドン・パティンキンは、コールズ委員会のセミナーでフリードマンの発した一言が忘れられない。「フリードマンは計量経済モデルの予測能力は、最低でも未来が過去と同じになると想定する『ナイーブモデル』より精度が高くなければならないと言い放った。単純だが強烈な指摘だった」

ドン・パティンキン - Wikipedia

 

論争の対象になっている問題については、冷静に理性的な議論をすすめることが肝心だ。冷徹な目で事実を追い求め、進んで自説を修正する。それが科学であり、人類に大きな進歩をもたらす。西洋文明の長所の一つでもある。古典的自由主義と科学に共通するのは、好奇心を絶やさない姿勢だ。それはいろいろな意味で子供の視点に似ている。予断を持たず、大きく目を見開いて世界を見つめる。予測を重視する理論がなぜ理論のあり方として正しいのか。フリードマンはこう説明する。「人間の理解力は完全ではない。限られた頭脳を効率よく利用するには、問題の核心に狙いを定めることが重要だ

 

リベラル派の問題は、心が温かいことではない。頭脳が冷徹さを欠いていることだ。

 

ジェームズ・ブキャナン「講義や分析で見せた頭のきれは圧倒的」で、「学生の私など、フリードマンの真似事をするだけで終わってしまう可能性もあった。しかも、自分よりうまく真似る人が三人いた」。「あの並外れた分析力は、学生には刺激が強すぎたが、シカゴ大学を卒業後、ある事件がきっかけでフリードマンの呪縛から逃れることができた。比較的無名の学者が、フリードマンの論文に論理的な誤りを見つけ、指摘したのだ。フリードマンは潔く誤りを認めた」

ジェームズ・M・ブキャナン - Wikipedia

 

経済学は希少性の学問だ。「経済の問題は、希少な資源を利用して複数の問題を解決しようとする際に生じる。資源が希少でなければ、何も問題はない。天国だ」。経済学とは社会科学であり、個人の協力と相互作用に関する問題を扱う。実証経済学は大きく貨幣理論と価格理論に分けられる。貨幣理論は、物価水準や総産出量・総雇用量などの循環的・非循環的な変動を、価格理論は、資源配分や相対価格を研究する。専門用語では、貨幣理論をマクロ経済学、価格理論をミクロ経済学と呼ぶ。

 

ヴァイナーとナイトの二人の授業を受けた大物経済学者はベッカーが最後だ。もっともヴァイナーの授業はシカゴ大学ではなく、プリンストン大学の学部生の頃に受けたものだ。ベッカーはフリードマンについてこう書いている。「自分が学んだ人の中で一番強い影響を受けた」「優れた教育者」で、「頭脳は他を寄せつけず」「あそこまで刺激を受けた人はいない」。「まさに討論の名手」で、「頭の回転が速く」「発想が斬新」で、当時の経済学部の「中心的な存在だったことはまちがいない」。

 

フリードマンの価格理論講座では、たくさんのイラストや具体例を使い、「学生は、理論の遊びのような空論ではなく、現実世界を理解する道具として、フリードマンの経済学を体得することができた」。フリードマンにとって、「理論それ自体は目的ではなく、これみよがしにひけらかすものでもなかった。現実世界の様々な現象を説明できなければ、理論の意味はないと考えていた」。

 

授業は準備万端で臨み、テストでは選択式の問題は出さなかった。採点は大変になるが、選択式が教育法として優れているとは思えなかった。どうすれば、学生のやる気を最大限引き出し、学生を納得させられるかを心得ていた。学生を批判しても悪意や冷酷さとは無縁だった。世界をもっと性格に、あますところなく理解してほしい。自分自身の考えや人の考え方への理解を深めてほしい。それがフリードマンの願いだった。

 

論文の執筆に取り掛かった学生は、基本的には自分ひとりの世界に放り出される。いつもアドバイスが貰えるわけではなく、系統だった指導設けられない。それでも学生は、絶対的な水準、『知識への貢献』を求められる。混乱して、無駄な作業に時間を費やし、いたずらに論文の質を低めてしまうのも無理はない。・・・研究法というものは、教えることができない。適切な環境の中で、実際に研究をすすめることによってしか学ぶことができない。だからこそ研究会の意義がある。・・・論文は、研究が全て終わってから書くものだという世間一般の認識ほど誤ったものはない。物を書くという作業を通じて、自分が何をしているか、何をすべきかがみえてくる徹底的に考え抜くことを自分に強いるには、文章にしてみるのが一番だ。・・・学生は自分の興味のあることを研究し、自分の考えやアイデアを突き詰めるべきだ。そんなことは研究するなとは、絶対に言いたくない。学生には、過去の研究成果を土台とすることも勧めた。現在当たり前と考えられている知識は、全て暫定的なとりあえずの知識であり、全く新しいことをゼロから始めること自体にそれほど大きな意味があるとは思えない。むしろ、自分たちが分かっているつもりになっていることから、多くを学ぶことができる。分かったつもりになっている現実世界にしても、細部を突き詰めようと思えば、どこまでも突き詰めることができる。

 

ポール・サミュエルソンミルトン・フリードマンは、教師として、Aプラスの成績を収めた。ひとつ例を挙げよう。1951年、プリンストン大学で成績抜群だった学部生が、燃え尽きたようになってしまった。この学生は、フリードマンシカゴ大学で初めて受け持った講座を受講して、息を吹き返した。文字通り『次の授業が待ちきれない』といった状態だった。誰のことを言っているのかは想像がつくと思う(ゲーリー・ベッカーのことだ)。こういう学生が他にもたくさんいる」。

 

 ケインズは流通速度が大きく変動すると主張した。ケインズによれば、マネーサプライを増やしても、単に流通速度が低下し、右辺の物価と取引量にはなにも起こらない。同様に、何かの原因で、マネーサプライの増加を伴わずに右辺が増加した場合は、流通速度が上昇する。つまり、流通速度は幻のようにコントロールできず、マネーサプライや所得の変化に伴って上下する。従って、マネーサプライはあまり重要ではないという論理である。

 

経済はケインズが考えるよりも安定している。赤字財政支出も含め、投資額の何倍も国民所得が増加するというケインズの「投資の乗数効果」は実際にはあまり期待できず、景気が変動してもケインズの主張するほど消費への影響はない。市場の魔法に委ねれば、公共投資よりもはるかに効果的に所得を増やすことができる。企業の結託で市場の機能が妨げられるという独占的競争の理論にも反対した。政府による経済への介入、政府の経済運営は、ケインズが考えるほど経済学的な根拠はない。物価と景気の動向を決めるうえでは、財政政策よりも金融政策のほうがはるかに大きな役割を果たす。

経済の分析では、他の学問同様、事実がなによりも重要だ。ケインズの致命的な誤りは、理論ではなく実証面にあった。ケインズは、優れた経済学者だ。最高の経済学者の一人に数えられる。世界はどのように動いているのか、『一般理論』はその仮説を示した。科学的な仮説はすべてそうだが、どれほど想像力に富んだ考え抜かれた仮説でも、まちがっている可能性がある。ケインズの仮説は、理論として反論するところはない。ただ、理論の提示する予測が現実にそぐわず、現実世界で否定された。だからこそ反論しているのだ

 

 フリードマンはその後、好況と不況が規則的に繰り返すという意味での景気循環は存在しないと考えるようになる。「景気循環が存在するとは思わない。景気循環とは、経済内部のメカニズムによって規則的に繰り返し発生する現象と定義されるが、そのような意味での景気循環があるとは思わない。経済には一定の反応機構があり、外部のランダムな力に時間を欠けて反応する」。景気はランダムな要因で変動するというエヴゲニー・スルツキーの「ランダムショック説」を支持していたことになる。・・・スルツキーが1927年の有名な論文で指摘したように、一連のランダムなショックへの反応にすぎないのではないか。景気循環ではなく、景気変動だ。

 

 合衆国の貨幣史。この物語を貫くキーワードは、冒頭にある「アメリカの貨幣ストック」だ。「それまで金融政策の威力に気づかなかった一つの理由は、フリードマンとシュワルツがM1(現金通貨+要求払い預金)とM2(M1+定期性預金)を開発するまで、連邦準備理事会(FRB)がマネーサプライの統計を公表していなかったからだ」(経済史研究科、マーク・スコーセン)。「FRBが1929年から33年にかけてマネーサプライ統計を発表していれば、大恐慌があのような経緯をたどったとは思えない」(フリードマン)。

 

シカゴ大学は、経済学を数学の一部門としてではなく、経済の問題として真剣に研究していた。例えば、ハーバード大学と当時のシカゴ大学の根本的な違いを挙げると、シカゴでは、経済学を現実の問題を扱う学問として真剣に活用していたが、ハーバードの経済学は、数学と同列の頭の体操だった。現実問題の解決にはまったく役に立たない」。ゲーリー・ベッカーも口をそろえる。「(ヴァイナーは)ミクロ経済理論を現実世界から遊離させてはいけないと力説していた。過去のデータなど、客観的な事実で理論を検証することが必要だと強調していた」。ただ、ヴァイナーは、フリードマンのような統計学を使った実証研究には踏み込まなかった。経済史研究者のマーク・スコーセンによると、ベッカーは「理論と実証データを厳密に検証したこと、これが経済学者としてのフリードマンの最大の貢献だ」と指摘している。

 

MITは、戦後ほぼ一貫して経済学の先頭集団を走ってきたが、フリードマンはMITの数学を駆使した方法論には批判的だった。1988年、経済学を「数学の一部門、知的なゲーム頭の体操」と考えるのがMIT、私はマーシャルにならって経済学を「分析の道具」と考える、と比較している。

 

「論文であれば適切といえるような回りくどい言い回しでは、一般読者を失う。論文をかく時は、知識の蓄積という現在進行系のプロセスに参加しているが、一般向けの文章は、あるものの見方を伝えるものであり、余計な但し書きなどを付けて読者を混乱させるべきではない」。・・・データの分析で重要なのは、データはないよりもある方がよいということだ。

 

 晩年のアダム・スミスは、学者として研究を続けるのではなく、地味な役人として過ごすという大きなまちがいを犯した。

 

 ハイエクは、フリードマンは統計を重視する「論理実証主義者」だと批判している。

フリードマンは、大の実証主義者で、実証的に証明できないものは、科学的な主張とはなりえないと考えているが、わたしは、経済に関する細かな情報は山ほどあり、そうした知識を整理することが私達の仕事だと考えている。新しい情報はもうほとんど必要がない。すでにある情報を消化することが非常に難しいのであり、統計データを集めても、あまり意味はない。ある特定の時期の特定の状態について情報を得たい場合は別だが、理論を構築するうえで、統計的な研究は役に立たないと考えている」

ハイエクは、フリードマンが、検証不可能な形而上学の命題は科学的に無意味だと主張する「論理実証主義」にくみしているとも批判した。「実証経済学の重要性を説いたフリードマンは、すべての関連事実について完全な知識が得られることを前提にしている」。これは的外れな批判だ。フリードマンは、自分の方法論を「実証主義」と呼んだが、科学的な判断基準は、論理実証主義を標榜したウィーン学団のような厳密なものではなかった。単に経済の事実と価値観を区別するために「実証的」という言葉を使うことが多く、ハイエクのよく知っていたウィーン学団論理実証主義とはまったく関係がない。

 

オーストリア学派のなかで(ハイエク以外に)本一冊を費やして論じる必要があるのは、フォン・ミーゼスだ。常に刺激的で、共感できる主張が多い。ただ、その方法論と狭量な姿勢はまったく受け入れられない。

 

世論を説得するというよりも、選択肢を確保しておく、つまり変化が必要になった際に選択できる政策を用意しておくという意味で、思想は重要だ。・・・思想は重要だが、長い時間を必要とするものであり、思想それ自体よりも、思想を生み出す肥沃な土地が重要だ。

 

市場経済は、誰からも矯正されずに経済活動を行うことができる洗練された制度だ。個々の情報を基に資源を最大限有効に活用し、各資源を最も効率の良い方法で結びつけることができる」

「もちろん、これは抽象的で理想化された概念だ。世界は理想的ではない。完全な市場から逸脱する例は無数にある。その多くは、政府の介入が原因だ。」

 

高齢化社会であっても、現役時代に蓄えをしておけば、いくら高齢者が多くても国は繁栄できる。アメリカや日欧では年金制度が危機に瀕しているが、その理由は一つしかない。ねずみ講はいずれ破綻するのだ。年金制度は、今の現役世代の負担で今の高齢者の生活を支えている。未来の若者が保険料を負担することが大前提だ。出生率が死亡率を上回っているうちは問題ないが、出生率が頭打ちになれば制度は崩壊する。こんなことなら、一人ひとりが退職に備えて貯蓄していたほうがずっとよかった。

高齢化社会が進んでも、民間の保険会社は破綻していない。保険会社も政府と同じように高齢化社会の影響を受けているはずだ。違いは、保険会社が資金を積み立てている点にある。右から左に資金を流しているわけではない。

 

実証経済学の発展には、既存の仮説を検証し練り直すだけでなく、新しい仮説をつくることが必要だ。仮説の構築に決まり事はない。直感と創意工夫を要する創造的な行為であり、身近な材料からなにか新しいものを見つけることが肝心だ。論理ではなく心理的な要素が重要になる。これは科学の方法論に関する論文ではなく、自伝や伝記で研究する問題だ。

最強の経済学者 ミルトン・フリードマン

最強の経済学者 ミルトン・フリードマン

 

 

ウォーレン・バフェット成功の名語録

秘訣は、次の二つにまとめられるだろう。

  1. 原則を立て、それを貫く
  2. 自分に投資し、自分を貫く

「本当の投資家であれば、自分が群衆とはまったく逆の売買をしていると考えることに充足感を覚えるものなのである」とは、ベン·グレアムの言葉だ。賢明なる投資家は、群衆とは反対の行動をとることで勝つ。これは、バフェットも同じ考え方である。
「他人が貪欲になっている時は恐る恐る、周りが怖がっている時は貪欲に」

胴元にとってよいことは、顧客にとってよいことではないことを投資家は理解すべきです。あなたの懐を満たすことのできない人間に限って、確信を持ってあなたに何かを吹き込もうとするのです」

株価が下がると、「今、株に手を出すのは危ない」などとリスクの大きさを警告する人
がいるが、バフェットはリスクをそんな一般論ではとらえない。最大のリスクは、やっていることを当人が理解していないことだと考える。

バフェットが「ノー」を相手が説明途中でも言い渡すのは、相手の時間を大切にするからでもある。さんざん話を引っ張って期待を持たせたあげくに「ノー」を告げるのは相手の時間を浪費することであり、バフェットの流儀ではなかった。

バフェットは、自信があるときにしか投資をしない。だから、自分のお金だけを動かすときは、こういう集中投資を何度かしている。「分散投資でリスクを減らす」は、グレアムに限らず、世間一般の常識だ。しかし、バフェットが「常識」で動くわけもなかった。「場合によっては、注ぎ込む金額が少ないことが、かえって失敗になることがあります。」

大事なのは、自分が好きなことをとびきり上手にやることです

これまでバフェットからゲイツが受けた最良のアドバイスの一つが次の言葉だという。「本当に重要な事だけを選んで、それ以外は上手に『ノー』と断ることも大切だよ

企業の成功には、情熱的で優れた経営者が欠かせないからだ。だが一方で、とびきり優秀な経営者でも、事業に優位性がなければ成功させることが出来ないことも、よく知っている。

ゼロからマイクロソフトを立ち上げたビル・ゲイツは、コカ・コーラが事業として優秀なことを皮肉って、「この会社は、経営者が人間ではなくハムサンドイッチだったとしてもオーケーだ」と言ったが、それはバフェットにとって最大の賛辞だった。

「株を買うなら、どんな愚か者にも経営を任せられる優れた会社の株を買いたいと思うでしょう。なぜならいつかは愚かな経営者が現れるからです」

「人は習慣で行動するので、正しい思考とふるまいを早いうちに習慣化させるべきだ」

自分にとっていちばん大事な顧客は自分自身だと考えて努力するマンガーを、バフェットは高く評価している。・・・マンガーは・・・毎日一時間、自分のために働くことにした。早朝にそのための時間を設け、建設や不動産開発の仕事をしたんだ。

読む人によっては、年次報告書が思うように理解できず、自分の理解能力の低さを嘆くこともある。だが、バフェットはちょっと違う見方をしている。もし理解できないとしたら書き方が悪いのかもしれないと言うのだ。そして、そんな年次報告書を出す会社には投資しないと言う。なぜなら、会社側の、できれば理解してほしくないという姿勢が、行間から透けて見えるからだ。

 私は、どこかの会社が経費削減に乗り出したというニュースを耳にするたびに、この会社はコストというものをちゃんと理解していないと思ってしまいます。経費の削減は、一気にやるものではないからです。

売上や利益を少し増やすために、気の置けない仲間や尊敬する人たち、面白いと思える人達とのつながりを次々に切り捨てていく人たちが行く人たちがいるようですが、そんな風にして金も後になる意味がどこにあるのでしょうか。私たちも業績はいいに越したことはないと考えていますが、決してそれを至上命題にするつもりはありません。

 「どういうところで働けばいいでしょうか」「一番尊敬している人のところで」

自分よりも勝れた人間とつき合ったほうがいいというのを学んだ。そうすれば、こっちもちょっぴり向上する。自分よりもひどい奴らと付き合えば、そのうちにポールを滑り落ちてゆく。しごく単純な仕組みだよ。

人物はしっかり選びたい。一緒に働く相棒から、会社を任せる人まで、すきになれない人や尊敬できない人は、できれば「ノー」を言うべきだ。人物を選ぶ時は、結婚相手を探すくらいの気持ちで臨む。なぜなら、自分より小さいものとつき合えば、自分も小さくなるし、自分より大きいものとつき合えば、自分も自然に大きくなるからだ。

知性、エネルギー、そして誠実さ。最後が欠けていると、前の二つはまったく意味のないものになる。

名声は繊細な磁器のようなものだ。買う時は高いが、簡単に壊れる。

私は学生に、人生で一番重要な仕事は、子供を育てることだと言っています。愛情や食べ物を与える仕事です。親のもとで、子どもたちは日々、世界について学んでいきます。

バフェットは熱心に勉強したが、株式ブローカーとしての仕事にはすぐに嫌気がさすようになった。・・・「薬を売った量に応じて報酬をもらう。薬によっては報酬の多いものもある。出す薬の量のみによって報酬が増減する医者のところに、誰が行きたがるだろうか

ベン・グレアムは『賢明なる投資家』の中で、株式ブローカーを「大部分は信用でき、かなりの知識を有し、厳しい規範のもとに業務を遂行している」・・・彼らの仕事は「手数料を得ることなので、投機的な傾向から逃れることは非常に難しい」と指摘している。

 

 

ルービンシュタイン ゲーム理論の力

感想

題名や著者のバックグラウンドから予想される内容とは異なり(現代はEconomic Fablesなので、邦題がミスリーディングなだけのようにも思える:神取先生のミクロ経済学の力との対比なのかもしれないが、ベクトルが違いすぎる)、ルービンシュタイン独特の経済学観が楽しめる一冊。理論を解っているように思えない&数学コンプレックスがバレないように虚勢を張っているだけに見える(誘導系)実証経済学者の浅薄な経済理論批判とは異なり(実証家の主張している「実証」とはデータを使っているという意味に過ぎず、科学的な実証プロセス=実験の要件を満たしているようには思えない。理論を解っている実証家で理論批判をしている人は見たことがない、理論家による理論の批判(批判でないかもしれないが)は非常に建設的。ただ、かくて~の付録の解説でも思ったことだが、主流派経済学が嫌いなだけの愚かな人間が、こうした節制的な研究者が熟慮によって導き出した主張の尻馬に乗ることを誘発してしまう点は、常に意識しておかないといけないように思う。

これまで行動経済学アドホックな観察結果の集積に過ぎないものだと軽視していたが、かくて~と本書を読んだことで、科学的実証プロセスとしての行動経済学の価値に気づくことができたのが個人的な収穫。

yamanatan.hatenablog.com

引用

ここに6面のサイコロが一つある4つの面が緑色(G)で2つが赤色(R)である。GとRからなる3つの文字列から一つを選べ。サイコロは20回振られる。もし選んだ文字列が一連の結果に含まれていれば25ドルを受け取ることが出来るとする。

  1. RGRRR
  2. GRGRRR
  3. GRRRRR

確率と文字列の中のGRの割合が混同されることに起因しています。 サイコロの目の全体でGという結果の出る確率が3分の2になります。すると文字列RGRRRでは全体の5分の1がGなので、全体の3分の1をGが占める文字列GRGRRRよりも起こりにくいと感じられるのです。しかしサイコロの目の組み合わせの中に文字列RGRRRをもつける確率は文字列GRGRRRを見つける確率よりも常に高いのです。

 

一般に、統計的に有意であるという概念を機械的に用いることは危険です。この概念を用いる際の論理は重要な仮定のもとに成立しています。しかし仮定は無視されるか、調べるべきなのに当然成立すると思い込まれているかのいずれかになりがちです。研究者や新聞の読者というのは仕分けをすることが大好きで、仕分けの背後に何があるか自問することはめったにありません。

例えば、経済学でありがちな有意性に関する検定は、計測誤差や書類作成上のミス、分析や報告上のミスと言った結果の信憑性に大きく影響しうる要因を完全に無視しています。そして、もちろん、研究者にも利害や思い込みがあります。すなわち意識的にせよ無意識的にせよ、報告結果が利害や思い込みに影響を受けることもありえます。研究者の信憑性に関する不確実性のほうが統計的検定を行う上で考慮される不確実性よりもはるかに影響が大きいと私は思います

 

何年もの間、経済学における実験というのは研究費の無駄遣い以外のなにものでもないと私は思っていました。未だに定量的結果に強い関心を見出すことはなく、ある発想が納得の行くものかどうかを検証する最も信頼に足る方法は常識だと信じています。

しかし実験に対する尊敬の念も抱くようになりました。ある思考過程を連続して描写する一連の質問を構成することはそれはそれで芸術的なことだと認識するようになったためです。加えて、常識が時に豊富な経験を持った人ですら騙すことがあると理解するようになったためです。

私自身も、最初の段階で結果が好ましいものであると、実験をさらに拡張するのを避けたいという気持ちが強くなります。または、正しいと私が「知っていた」仮設を支持しない場合には結果を何度も調べずにはいられないのです。 結論が他の研究者によって否定された場合に辱めを覚える恐怖というのは経済学においてはほとんど存在していません。データを調べて実験を繰り返すという伝統がないからです。

 

結局私は合理的でありたいのか。

合理的人間が打ち負かされるのを観察して喜びを得ているとだけは言っておきましょう。合理的人間の完全無欠さが私は好きではありません。

血の通った人間として想像しようとすればするほど、私は合理的人間のことを辛抱のない人間であるばかりか非人間的であるとますます気づかされます。このような人間が現実に存在しないという事実、そして単純な引っ掛けてによって自分のことを合理的だと考えている人を誰彼となく笑い者にすることが可能であるという事実。この事実に私は喜びを見出します。

 

私には、誰がナッシュかを特定するのは困難でした。なにせプリンストンでは、とても多くの変人が芝生の上をうろつきまわっていたので。

 

私はゲーム理論家ジョン・マクミランの交渉に関する一章の要約の中にある言葉を思い出しました。『ゲーム理論は交渉者にどんなアドバイスを生み出したか?私たちが学んだもっとも重要な考えとは・・・相手の立場に身を置き、いくつかの行動を前もって考えておくことの価値である。

ゲーム理論とチェスはひょっとして人々を人の立場から状況を考えるようにするものの、それはただ自分にとって最善な行為をするためだけではないのだろうか、と。チェスの先生は戦略的思考と共感とを混同していたのです。

 

 1970年代になって初めて、ゲーム理論は経済学の中核に入り込みました。それまで市場と競争均衡というペアが経済分析の主要なツールだっとするならば、ゲームとナッシュ均衡のペアが主要なツールの仲間入りを果たしたのです。

1980年代以降は、数え切れない人々がゲーム理論はすべての分野で有用だと喜んで宣言してきました。経済学における寡占市場や企業買収、政治学での戦略的投票や国家間交渉、生物学では花と蝶の関係や動物の進化、哲学での倫理的問題、コンピュータ・サイエンスでのコミュニケーション・プロトコルの開発、果てはイサクの燔祭(はんさい)やソロモンの審判と言った聖書の物語まで、何もかもがゲーム理論というツールで分析されるようになったのです。

1994年、ゲーム理論は「全オークションの母」としてメディアから賞賛を浴びました。・・・この出来事をゲーム理論の応用可能性の決定的な証拠だと見なしました。私は疑念を抱いています。

私はこの入札やこれと似た入札を設計した人々を個人的に何人か知っています。彼らは疑いなく明晰で知的な人たちです。彼らはまたしっかりと地に足の着いた人たちでもあります。しかしながら、私の理解できる範囲では、彼らは基本的な直感や人為的なシミュレーションをもとに助言を行っていました。ゲーム理論の洗練されたモデルがもとではなかったのです。入札を設計するのに彼らがゲーム理論を役立てたと主張するどんな根拠も私には見つかりませんでした。彼らはせいぜい私達がゲーム理論でよく研究する固有の戦略的思考に通じていると言うだけでした。

 

勇気を振り絞り、マーティン・オズボーンと書いたゲーム理論の教科書を彼(ナッシュ)に手渡したのです。ナッシュは本を受け取りました。彼が例を言ったかどうかは覚えていません。既に2冊ゲーム理論の本が本棚にあるから、これで「2+1=3冊」持つことになりましたと彼は言いました。それから、彼は本をパラパラとめくり、驚いて言いました。「ここに私の名前が載っているではないですか」。

 

ゲーム理論のコミュニティではその応用可能性についての合意は得られていません。戦略的状況での行動の優れた予想を提供することがゲーム理論の役割だと信じる人もいます。経済学者のハル・ヴァリアンは『ビューティフル・マインド』という映画のレビューで書きました。「ナッシュ氏の貢献は美女をバーで口説くべきかについてのいくらか不自然な分析よりもはるかに重要なものでした。彼が発見したものは事実上あらゆる種類の戦略的関係の結果を予測する方法でした。」NYT2002/4/11

バーの美女は後回しにするとして、ヴァリアンがどのようにナッシュ均衡の予測可能性について結論に至ったか私にはまったくわかりません。ゲームが唯一の均衡を保つときでさえ、ゲーム理論の予想と現実には大きな隔たりが残ります。更に、多くのゲームではナッシュ均衡は複数あり、これは予測可能性を減じてしまいます。そしてこれが以前に述べたように人々が予想を知っていて、それに反応しそうなときに行動を予想する根本的な困難なのです。

 

ゲーム理論は戦略的思考の論理を研究しているのです。しかし、論理によって人々が正直になったり、裁判官たちが公正な判決をするようにはならないのと同じように、ゲーム理論はプレイヤーたちがゲームをプレイするのを助けはしません。

もしゲーム理論に実用的な側面があるとすれば、それは間接的なものです。相互依存的な状況における合理性に関する秩序だった議論ができるようになります。経済学とその他の社会科学の分野との議論を戦略的思考に焦点を当てることで、豊かなものにします。そのような戦略的思考の中には、まだ私達が気づいていないものもあるかもしれません。エンターテイメント的面白さもあります。そして、それ自体は素晴らしいことですが、一般に人々が有用だと思うようなものではありません。ちなみに、ときどき私は、そもそもなぜゲーム理論の有用性について問う必要があるのだろうと考えます。学問的研究は直接的かつ実用的な利益によって判断されなければならないのでしょうか。

ゲーム理論の予測可能性については留保しますが、ゲーム的状況での人々の振る舞いはあるルールやパターンにそっていて、それらは世界中の出来事を観察することや実験の結果から発見されうるという事実は否定しません。しかし、それはゲーム理論的分析とは(もしあるとすれば)ただ弱くつながっているだけなのです。

 

経済学の勉強は通常、実証的な証拠を提示したり、きちんとした議論をしたりせずに、手っ取り早く学生の心をつかむ市場モデルに焦点を当てます。経済学の学生は、市場モデルのエレガンス、明瞭さ、予測能力といったものにー正しかろうが、間違っていようがー魅せられてしまいます

 

概して経済学が他の分野に広まってきた理由は、経済学者であるスティーブン・レヴィットの以下のような見解にあるのではないかと私は思います。「経済学は問題をtくための非常に優れた分析手段を持った科学であるが、興味深い問題自体は極めて少しだけしか持ち合わせていないのである」。

だれかが「経済学の帝国主義」という表現を使うことでその場でくすくす笑いが起こっていても、別の誰かが植民地の先住民すなわちまだ経済学的志向のありがたさを認識していない人々のことを傲慢にも軽蔑したりすると、次第に気まずさが立ち上ってきます。

 

もし経済学者が、経済学の研究活動を描写するモデルを作り、経済学者を意思決定主体としてモデルに取り込むならば、きっと彼らの採用するアプローチは、結論を額面通りに受け取るべきではなく、研究者の利害を考慮に入れるべきだ、というものになるでしょう。研究の結果を集めて分析し、発表する間に研究者が直面する誘因について議論がなされるでしょう。・・・しかし経済学者は経済学者のモデルを作りません。よく知られた論文の中で大発見をしたと発表した同僚が、公表する結果を取捨選択していたとか、発見と相容れないデータを省いていた、と経済学者が不平を言うのを私はめったに聞きません。つまり、私たちは別の落とし穴にかかっているのです。

私たちは専門誌に掲載された論文に過度に気を取られ、書き手である研究者の個人的な利害に関してはほとんど注意を払わない。

 

経済学で自分が扱っているモデルはおとぎ話であるということを私は知っています。・・・経済理論モデルは私が社会問題に関する考えをまとめるのに役立っていません。

ルービンシュタイン ゲーム理論の力

ルービンシュタイン ゲーム理論の力

 

著者は「人々が合理でないこと」の合理的説明を試みているようであり、理性と感情の葛藤が感じられる。

ルービンシュタイン ゲーム理論の力 アリエル・ルービンシュタイ…|エンタメ!|NIKKEI STYLE

 

熊とワルツを

 勝つためにいちいち賭けをしていると、負けた時にとても許容できない重大な影響が出るかもしれない。

ソフトウェア・プロジェクトでは概して、勝つために特別なことをするより、負けの程度を抑えるほうが大事なのだ。

部下に向かって、精一杯力を尽くして(たとえ無茶なスケジュールでも)プロジェクトを期日に間に合わせてみろとたきつけることは、NASCARのレーサーに大事な仕事を任せるのと同じことだと理解する必要がある。その人はあらゆるチャンスに賭け、思いつく限りの悪い可能性を無視し、はかない勝利の望みをできるだけ長くつなごうとするだろう。それを何と呼ぼうと、リスク管理ではないことは確かだ。

「我々は予想することは下手ではない。ほんとうに下手なのは、その予想の裏にある仮定をすべて挙げることである」ポール・ルック

ソフトウェア・プロジェクト・マネジャーのほとんどは、やらなければならない作業についてはほぼ正確に予想できるが、やらなければならないかもしれない作業は正しく予想できない。

この業界は、早く終わるという第三の結果を事実上不当なものとみなすことで、期日どおりに完成する確率をほぼゼロにしているのだ。いい加減なスケジュールを許さないがために、むしろいい加減なスケジュールが例外ではなく当然になっている。

約束した納期への信頼を高めるには、早く完成することの正当性を取り戻さなければならない。そのためにも、企業文化を本気で改革する必要がある。プロジェクトが予定より早く完成することが安全になれば、発注者も、予定どおりに納品されることを期待できるようになってくる。納期とは別に現実的な目標を設定し、約束を守れることを周囲に示すという、長年先延ばしにしてきた仕事を始めることができる。

阻害要因

  1. マイナス思考をするな。
  2. 解決策が見つからない問題を持ち出すな。
  3. 問題だと証明できないことを問題だと言うな。
  4. 水をさすな。
  5. すぐに自分で解決を引き受けるつもりのない問題を口に出すな。

リスクを口に出すことをチームの利益に反すると見るべきではないが、そう見られることが多いのは事実である。これらの不文律は特にめずらしいものではない。責任ある発言と泣き言の区別ができていないのだ。

誰もが「やればできる」聖心で仕事をするよう強いられる。それが問題なのだ。リスクを口にだすことは「だきない」聖心のあらわれである。リスク発見は、組織のこのような基本姿勢とまったく相容れないものである。

阻害要因は強力なので、リスクについて話せるようにするには、明確に定められた理解しやすいプロセスが必要である。全員がプロセスに参加し、なおかつ安全でいられるための儀式が必要である。

我々の経験では、デスマーチ・プロジェクトに共通する性質として、予想される価値が低いことがある。どうしようもなくつまらない製品を世に送り出すためのプロジェクトなのだ。デスマーチになる本当の理由は、あまりにも価値がないので、普通のコストでプロジェクトを進めたらコストが効果を上回ることがあきらかだからだ。英雄的な献身がなければ、奇跡を期待することすらできない。

もっといい方法とは、予想される価値を基準に、どれだけリスクをとるかを決める方法である。今思えば、以前からそうしなかった最大の理由は、発注者に価値の数量化を求める厳しさが欠けていたことだ。特に価値の低いプロジェクトの場合、価値の数量化をかたくなに拒否する相手を黙って見守っていた。拒否する以外に、プロジェクトの体裁を保つ手段がないのだ。価値予想を宣言しなければ、開発コストの削減だけでプロジェクトを正当化できる。・・・「コストをこれだけ抑えれば、得られる価値がいくらだろうと、コストのほうが低くなるにきまっている」

熊とワルツを リスクを愉しむプロジェクト管理

熊とワルツを リスクを愉しむプロジェクト管理

 

 

不道徳な見えざる手

花嫁の生涯でもっとも重要な一日のための準備においては、予算や価格は検討事項としては二の次にしか思えない。

 

2010年のアメリカの勤労年齢世帯は、現金や当座預金貯蓄預金普通預金に1カ月の所得分すら保有していないという。さらに驚くことではないが、株式や債券の直接保有額のメジアン値はずばりゼロだった。イギリスの家計簿を使った支出調査を見ると、多くの世帯は単に次月の支払いをやりくりするので精一杯だという。月給を貰っている世帯の支出を見ると、給料日前の1週間では、給料日直後の1週間に比べて、丸18%も低下する。

 

ソローの計算までは、経済学者は経済成長を二つの要因の間でどう仕分けすべきか分からずにいた。労働生産性の上昇は新しい発明(技術変化)のおかげかもしれない。あるいは資本が増えたせいかもしれない。資本の稼ぎ分が算出への貢献を表すという単純な想定を使って、ソローは資本成長に分配できる生産性成長の割合を計算できた。そしてかれは(1909年から1949年にかけてのアメリカでは)資本成長の分が8分の1でしかないのを発見した。残りの8分の7は、他の容疑者のせいであるはずだ。これは新しいアイデアとなる。ソローは、この残差が技術変化によるものだと述べた。

間違った解釈・・・進歩は新しいアイデアによるというだけでなく、新しいアイデアは全て間違いなく経済進歩につながるというものだ。アイデアというのが技術的なものとしてのみ理解されるのであれば、これは自然な結論となる。でも私達の思考が全てモノについてではないのと同じように、あらゆるアイデアがモノについてではない。・・・こっちの得になるよう人々をおびき寄せるにはどうすればいいかも考案できるということだ。・・・ラスベガスの中毒性スロットマシン・・・ソロー残差が技術進歩を表したものだというのは当時の習慣的な思考パターンの反映でしかない。今や私たちは経済成長をもっと慎重に、もっと広い観点から見る必要がある。選択を広げてくれるあらゆる発明が最善とは限らない。

 

 私たちは自由市場が生み出した豊穣はわかっている。でもあらゆるコインには両面があるのと同じく、自由市場にも裏面がある。豊穣を生み出すのと同じ人間の創意工夫は、セールスマンの技能にも向けられる。自由市場は、お互いに利益があるものを作り出す。でも、相手を犠牲にして自分が儲かるものも作り出すのだ。利潤が得られる限り、どちらもやる。自由市場は人類最強のツールかもしれない。でも、あらゆる強力なツールと同じく、これも諸刃の剣なのだ。

 

2014年にSECは、50兆ドル近い資産を監督したが、その予算はたった14億ドルだ。・・・SECが一部監督しているたった一つの銀行であるバンク・オブ・アメリカは、マーケティングに賭ける費用だけでもSEC予算総額よりもずっと多い。ミューチュアルファンドの費用は、平均で手持ち資産1ドルあたり1.02セント、つまりSECの監督する金額1ドルあたりの予算の400倍だ。

マドフ事件・・・クォンツ分析化ハリー・マーコポロスは(マドフのファンドの資産価値に関する計算書)を追跡し、疑念をSECボストン地方局に提示した。彼は、マドフの高いなめらかな集積はファイナンスの法則から見てありえないと主張したのだった。マドフは、このなめらかな成長を、「カラー」という投資戦略で実現したのだと述べた。過大な損失を切り捨てるためのオプションを購入し、過大な利益を減らすオプションの販売でそれを釣り合わせたのだという。

確かにこうした戦略は収益を滑らかにしたかもしれないけれど、マーコポロスはマドフが投資家に与えている高い収益を稼ぎ出すには、あまりに高くつきすぎることに気がついた。・・・カラーを実施するには、マドフアメリカ市場全体よりもたくさんオプション取引をしなければならないはずだからだ。

説得力にもかかわらず、マーコポロスの疑念はSECで抵抗にあった。・・・標的であるマドフよりも、訴え出たマーコポロスの方をずっと怪しく思っていたようだ。・・・マーコポロスの訴えは理屈でしかないというのだ。・・・そしてやがてこの一件は閉じられた。

捜査チームはマーコポロスの不服申立てや動機についてほとんど理解を示さなかった。この誤解は、そこにファイナンスの知識を持った人物がいればすぐに解けたのかもしれない。・・・業務に見合うだけの給料と業務量が与えられていたら、マーコポロスの不服申立てマドフの弁明が、別の見方をされたかもしれない・もっと予算が豊富なら話が本当に違ったかどうかは、分かるはずもない。

 

 競争的な自由市場は、単に人々が求め欲しがるものを供給するための競技場にとどまらないものとなる。そこはまた、カモ釣りの競技場ともなるのだ。それは釣り均衡につかまることになる。

経済的病理学は、単に外部性や所得分配のせいだけであるかのように描くのはよくないと考えている。私たちは、経済はこの標準的な見方よりもっと複雑だと思っているーそしてもっとおもしろいと思っている。・・・現代経済学が内在的に、欺瞞と詐術を扱うのに失敗するからだ。・・・経済学者たちの市場理解が、系統的にそれ(市場におけるごまかしと詐術の役割)を排除しているからだ。・・・主に「外部性」によるものだと見られている。でもそれは競争市場が、まさにその性質そのものにより詐術とごまかしを生み出すことを見損ねている。それは、繁栄を与えてくれるのとまったく同じ利潤動機の結果として生じるものだ。

 

人々が本当に求めるものと、人々が自分がほしいと思っているもの(肩の上のサルの嗜好)のちがいという私達の概念と真っ向から対立するものだ。行動経済学の特殊性ー個別心理的バイアス(たとえば現在バイアス)の基盤とそうしたバイアスを特殊な市場条件(たとえば独占競争)に埋め込むことーは、人々が欲しがるものと肩の上のサルの嗜好がずれるのは決して一般的なことではないという概念を強化した。

 

これまでの顕示選好はすべて正しいという均衡概念に対して、釣り均衡、つまりは詐欺によって生じる需要と供給という概念を導入し、それが目新しいのだと主張している。ただし、その釣り均衡の中身については、ほとんど記述がない。

不道徳な見えざる手

不道徳な見えざる手

 
  •  原題は Phishing for Phools だ。Fishing for Fools と言いなおしてみればわかりやすい。「カモを釣る」というわけだ。 Phool は造語だが、Phishing はすでに英語でも日本語でも定着している。すなわちフィッシング。ネット詐欺でおなじみの手法だ。

webronza.asahi.com

漫画201802

銀河英雄伝説☆☆☆☆

出ましたね、最新刊。

カストロプ動乱は帝国領侵攻時の同盟軍を暗示しているという意味で非常に示唆的です、と8巻のレビューで書きましたが、オワカリイタダケタダロウカ。オーベルシュタインの面目躍如といったところですね。

7巻で書いたざっくり年表の続き

  1. 第六次イゼルローン(794/485)
  2. 第六次イゼルローン
  3. 第六次イゼルローン、第三次ティアマト(795/486)
  4. 第四次ティアマト(795/486)、アスターテ(796/487)
  5. 第七次イゼルローン(796/487)
  6. カストロプ動乱(796/487)
  7. 帝国領侵攻(796/487)
  8. アムリッツァ星域会戦(796/487)
  9. リップシュタット戦役

おばさん(政治家の)「せめてひとつ何かしらの成果がなければ私たちは支持者たちに責任を追求され辞任に追いやられる!」ってのがまた日本の政治家だか官僚組織だか、はたまた日銀だかの無謬性の論理を想起させる非常に面白い(けど笑えない)発言になっています。

当面はラインハルトのターンが続くことになりますね。独裁者が有能なら愚民主義よりもええんやで、なんてことを改めて感じますね。頑健ではないけども。

犯人たちの事件簿☆☆☆

面白いというかくだらないんだけど、人気作のリメイクや利根川・犯沢さんみたいな人気作のスピンオフが乱発されている現状を見るにつけ、出版不況って本当に深刻なんだなと実感させられますね。

 からかい上手の(元)高木さん☆☆☆☆

 元高木さん子育ても巧い!な1巻からややトーンダウンな2巻。子供がいると、どうしても同じ展開になってしまいがちなのか。ただ、エピソード「からかう」はヲチが秀逸だった。

からかい上手の高木さん☆☆☆☆

高木さんは相変わらず最高に可愛いんだけど、西片のものになると分かっているだけに西片への嫉妬が勝って素直に楽しめない。とか二次元にマジレスしてる時点で、すでにこの作品の虜。アニメも(ちょっとテンポはあれだけど)いい感じ。

hobby.dengeki.com

 あさひなぐ☆☆☆

 スポ根平常運転&真春先輩頑張れなやや読者的に苦しい展開、ラストが唯一の笑いどころ。

悪のボスと猫。☆☆☆

猫好きにはたまらないシュール漫画の第二巻。一番可愛いのはヒットマン

悪のボスと猫。 : 2 (アクションコミックス)

悪のボスと猫。 : 2 (アクションコミックス)

 

マージナル・オペレーション☆☆☆

小休止回。面白いんだけど、この話はどういう方向に向かっていってるんだろうか。救いのない最終回しか思いつかないんだけど。

地方騎士ハンスの受難☆☆

面白くないわけではないけど、 同じような話の繰り返しで飽きが来た。

地方騎士ハンスの受難 4 (アルファポリスCOMICS)

地方騎士ハンスの受難 4 (アルファポリスCOMICS)

 

HUNTER×HUNTER

ちょっと話を作り込みすぎです、冨樫先生w

HUNTER×HUNTER 35 (ジャンプコミックス)

HUNTER×HUNTER 35 (ジャンプコミックス)

 

賢者の孫☆☆

 これといった見どころがありませんでした。

賢者の孫(6) (角川コミックス・エース)

賢者の孫(6) (角川コミックス・エース)

 

Dr.STONE☆☆☆☆

 本巻も満足度が高いですね!科学技術レベルをどこまで引き上げていくのか(いけるのか)含め、今後も注目です。Dr.STONEで科学に興味を持った子供向けに、Dr.STONE絡みの学習書(STEM分野)なども出していってほしいです。内容が難しくなって、読者アンケートが多少悪くなっても続けていってほしい漫画です。

無能なナナ☆☆☆☆

超能力者モノはガキ臭い設定や薄っぺらいバトルものになりがちですが、敢えて主人公を無能力者にすることで、頭脳戦を取り入れた点がユニーク、かつしっかりプロットが練られており、非常に完成度が高い作品です。

キングダム

 テンション持続できるのはすごいですね。次が節目の50巻。

キングダム 49 (ヤングジャンプコミックス)

キングダム 49 (ヤングジャンプコミックス)

 

 異世界で最強の杖に転生した俺☆☆

 変化球異世界もの、設定は凝ってると思うけど、そもそものストーリーがあまり面白くない。好きな人は好きなのか。微エロ。

 バーテンダー6stp

 固定ファンあり、レビューは不要。いつもどおりのバーテンダー

 LV999の村人☆

 様子見でしたが、盛り上がりませんでした。

LV999の村人(2) (角川コミックス・エース)

LV999の村人(2) (角川コミックス・エース)